韓国1971年その4

 ソウルの南約40km、世界遺産の町水原。今は地下鉄も開通してソウルのベッドタウンと化したが、当時でも列車に乗ると簡単に行けた。4月26日、同行の友人と別れて一人やってきた。今回、紹介するナロー762ミリゲージの存在は勿論知らなかったが、小生の1週間後の5月2日にここをグループで訪れた訪問記が鉄道ピクトリアル1971年9月号No255に掲載されているのでお持ちの方は参考にされたし。このナロー鉄道は水原を拠点に西は南仁川まで52km、東は驪州まで73.4kmあり、西側は7往復、東側は5往復の列車が運行されていた。形式はヒョーキと称しており、ハングル字のナンバープレートでも判読できるが、何故ヒョーキと称したのかご存知の方が居られたらご教示願いたい。なお、蒸気機関車のヒョーキ11形は汽車会社蒸気機関車製造史昭和47年交友社発行によると1D1形テンダ機関車を、昭和12年に7両(Nos.900~906)、昭和19年に2両(Nos.910~911)を朝鮮鉄道株式会社に製造納入したとあり、それらの一部を撮影したものと思われる。なお、本機の設計は高田隆雄氏の処女作との記述あり。他の車両も日本製が多いと思われるが、研究不足でこれまた、ご教示いただければ幸いです。

ヒョーキ11-7 番号7だけの表示である

ヒョーキ11-7牽引混合列車の出発

ヒョーキ11-8

ヒョーキ11-14 戦時設計のドームと2軸テンダ特徴

休車中のヒョーキ8-28タンクロコ

庫内のヒョーキ1

客車18016

客車内 板張りシーと裸電球 凡その大きさがわかる

台湾鉄道全線乗車の旅 Part10 花蓮→台中

5月27日
① 花蓮9:45-(自強號1051)→12:16台東
② 台東12:40-(復興號 174)→15:50高雄
③ 高雄16:30-(自強號 1034)→19:02台中

 

訪台して8日目、初めて、雨の朝を迎えました。涼しそうなので。傘をさしながら、ホテル周辺をゆっくりと、朝の散歩を楽しみました。そして、ホテル内での朝食後、花蓮駅に向かいました。

駅中では、ナローゲージ時代の写真が展示されていました。写真は、陽に焼けてセピア調になっていましたが、それが過去を物語っているように、思えました。撮りましたので、転載させていただきます。

9:35、樹林駅を始発した自強號(日立製のDR3000型6連)が,入線してきました。3両が1ユニットで、前後は、各310HPの動力車、中間車は、電源用で、270HPのエンジンを搭載しています。
花蓮駅では、大勢の降車客がありました。乗車客も多く、発車前には、満席状態となりました。そのためか、花蓮駅を停車する全列車とも10分前後の、停車時間となっています。

今日も海側の窓席なので、気がねなくカメラを車窓に向けられますと、思っていたら、今日も隣の乗客は、かわいい台北○○大学の女子学生です。
昨日と、同じパターンで、面接試験やら、休暇には、日本に行きたい、日本のことを教えて下さいと、質問攻めは、台東駅まで、続きました。ナロー時代の話を聞きますと、『生まれていなかったので、知らない。』と、あっさり片付けられました。それでも、沿線案内は、英語も交えて、親切に説明してくれます。

列車は、花蓮駅を出ると、大きな河川をわたり、海から遠ざかり、標高2000mを超える山々をバックに、花蓮渓沿いの水田地帯を走行します。その後は、山間に入り、トンネルを抜け、サミットを通過して、いくつもの河川を渡り、また豊かな農作畑の中を南下します。この繰り返しが続きます。

非電化の単線ですので、途中駅では、逆方向の列車との、交換があります。R100型に牽引された無空調のTRK3200型、現存するDCとしては、最古参の東急製DR2700とも交換をしました。
東部幹線の非電化区間は、レトロ車両の宝庫です。車窓も、海・山・農作地と絶妙の調和を見せてくれます。自然と鉄道が一体化しています。しかし、旅情豊かなこの路線も、もう直ぐ電化工事が始まります。電車が走り、冷房がないレトロ車両は、淘汰されるでしょう。

やがて、列車は、広いヤードに入りました。その中に、台東駅がありました。駅前は、これでもかと、思える広さです。花蓮駅と同様に、改軌の際に、町外れの広い土地がある場所に、駅を移しもした。新しい台東駅は、豊かな自然にいっぱいの、公園の中にあります。

 

台東駅での乗継時間に、駅コンコースと、周辺をまわってから、台鐡一番といわれている名物、池上駅弁を購入しました。日本にも輸出されている池上米は、台湾の魚沼産コシヒカリと言われていて、この炊き上げたご飯に、地元産の美味しいたくさんの具材が、敷き詰められた駅弁は、本当に旨かったです。

台東駅からは、R124號に牽引された10両編成の復興號で、高雄を目指します。この列車もほぼ満席状態でしたが、運よく隣の席は、ようやく空席になり、静かに旅情を楽しめると、思ったら、通路反対側に座っていた、女子大生と中学生の姉妹から、やはり、アプローチをかけられました。

私の席は、山側だったので、海側に座っている彼女達に、気兼ねなく写真を撮るには、都合良かったので、誘いにのりました。『親戚の住む台東の、東約33キロの太平上に浮かぶ孤島『緑島』に行って来た。海底から吹き出る温泉もあって、とても素晴らしいところです。おじさんも行きなさい。』と、詳しく、観光案内をした後も、『長い陸橋をわたりますよ。』『海が見えて綺麗ですよ。』等々、沿線案内を続けてくれます。

南迴線は、海に面した断崖絶壁を、はうように走行します。絶景、絶景の連続です。日本の鐡道でも。好んで海沿い乗車しましたが、これほどの雄大な車窓は、ありません。何回も訪れたい路線の1つになりました。途中、下は絶壁の有名な多良駅がありましたが、残念ながら廃駅となったそうです。

彼女達が、静かになったなと思ったら、話疲れたのか、寝ています。高雄駅手前の屏東駅で、『良い旅を続けてね。』と、かわいい笑顔を残して、降りて行きました。

高雄駅での乗継時間に、前々日、開館時間前で見れなかった、旧高雄駅舎に行きました。何か、高雄駅の歴史とか、沿線各駅で見た昔の写真等が展示してあるのかと期待しましたが、中は、鐡道とは、関係のないガラクタだらけです。これなら、ホームで、発着する車両を見ていた方が、良かったですね。

ホームに降りると、すでに列車は、入線していました。かなりの混みようです。指定席に行くと、やはり、無座券を持っての先客が座っていましたが、直ぐに空けてくれました。立席客の多くは、大学生です。台湾に着いてから知ったのですが、明日から端午の節句休みなのです。

日本では、新暦の5月5日と毎年決まっていますが、多くのアジアの国では、旧暦です。こういった祝日は、毎年違っています。今年は、5月28日(木)が、その日で、多くの企業や学校は、29日も休みにして、土日を入れての4連休にしています。このために、授業を終えた大学生が、旅行や帰省で、大挙して、駅に来ているのです。

今日の終着駅、台中駅では、もっと大変な事になりました。降りるのに、一苦労です。マナーの良い学生ばかりなので、出口ドアまで、何とかたどり着けましたが、デッキまで一杯です。降りると、ご覧のとおり、長蛇の列で、乗り込もうとしていますが、とても全員乗り切れません。次の列車を待っていました。

駅の待合室も満席状態です。その待合室奥に何やら、気になる店屋を見つけました。店屋の名前は、『台鐡本舗』です。入ってみると、鐡道関係の書物やグッズの数々が、並べられています。訪台後、街を散策する度に、必ず本屋を見つけては、鉄道雑誌がないか探したり、尋ねたりしていました。嘉義で、蘇照旭著の『阿里山森林鐡路傳奇』と、台北駅売店で、『鐡道旅行』を買えましたが、見つける事はできませんでした。

聞けば、最近オープンしたばかりで、台北駅、高雄駅にもあると言います。結構、駅中は、うろうろしていたのですが、全く気づきませんでした。欲しい物は、山ほどあります。しかし、とても持てそうにありません。とにかく今、即刻欲しい時刻表と、撮影に便利なダイヤグラフを本にしたのだけにして、後は予約を入れて、台中を離れる際に購入する事にしました。

今夜のホテルは、駅近くですが、雨も降ってきましたし、もう夜です。駅前のタクシーに乗って、前回の事のないように、何度も運転手と確認して、向かいました。

そして、今夜の夕食は、勿論、台中の夜市です。何ヶ所かあるので、ホテルのフロントで、1番近い夜市『一中街』を選んでもらって、出かけました。

明日は、ローカル線の集集線と、彰化扇形の機関区の見学予定です。 Part11へ続く

1953年高校生東京へ その8


ロクサン→ナナサン東武版

東京の最後は東武鉄道。荒川鉄橋での撮影である。皆様慰めては下さるが、こんな写真を撮るぐらいなら、杉戸か浅草橋に行き、当時山ほどいた蒸機を撮った方がどれだけよかったことか。


準急

5700系特急

俗称「ネコヒゲ」特急。湘南クハ86の2枚窓妻模倣は私鉄でも早い例だが、ひょっとすると西大寺鉄道キハ8、キハ10に若干遅れをとっているかもしれない

やはりはこうした列車を撮るべきだった
ED451 足元が切れているのは、6×6 15枚撮り手製改造で、次のコマが重なったためである

K.H.生さま 戦前の大連市電の件

大連市電とあれば、出番かなと思って、見てみましたが、戦前の事は、分りません。路面電車博士に聞かざるをえないと、思います。
写真から見ると、ダブルルーフ車のようです。私の知っているのは、日本車両製か、ボロボロの残骸ぐらいで、この車両は、現存はしていません。そこで、ネットからや文献等で、調べました。その頃の絵葉書を集めてみましたので、ご覧ください。

どうでしょうか。ダブルルーフ車が、あるのがお分かりでしょうか。
それと、下記のHPをご覧ください。どうやら、英国製で、特等(定員16名)と並等(定員32名)の2室があったと掲載されています。
http://dalian2006.hp.infoseek.co.jp/page061.html
http://dalian2006.hp.infoseek.co.jp/

大連の市電

戦前鉄道省に勤めていた明治30年生まれの祖父が満州に出張した際の

土産のパンフレットが昭和2年生まれの母を経由して私の手元にいま

あります。

イラスト画に書かれている路面電車のことが少し気になりました。

この電車などについてご存知の方はおられませんでしょうか。

多少の知識でも知りたく思います。

台湾鉄道全線乗車の旅 Part9 高雄→花蓮

第7日目 5月26日

① 技撃館7:12-(MTR)→7:22大寮
② 大寮7:28-(MTR)→7:46美麗島
③ 美麗島7:52-(MTR)→8:08小港
④ 小港8:40-(MTR)→8:42高雄國際機場
⑤ 高雄國際機場9:16-(MTR)→9:36高雄車站
⑥ 高雄車站9:52-(MTR)→美麗島9:54
⑦ 美麗島10:04-(MTR)→10:12技撃館
⑧ 技撃館10:50-(MTR)→10:58美麗島
⑨ 美麗島11:10-(MTR)→11:22左營
⑩ 左營12:00-(台湾高鐡434)→14:00台北
⑪ 台北14:30-(台鐡自強號『太魯閣號』1063)→16:45花蓮

今日は、台湾新幹線太魯閣號に初乗車です。切符は、20日台北駅で、すでに買い求めていましたので、乗車までの間は、昨日に全線乗車できなかったMTRと、保存されている高雄旧駅舎見学です。

早起きして、シャワー後、荷物をホテルに預けて、まずは、橘線の終点大寮駅を目指しました。終点手前で、地上に出ると、車庫がありました。それからは、高架線を走り、大寮駅到着です。駅前を見渡しましたが、まだ開発中のようで、遠方に町並みが見える程度です。

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韓国1971年その3

 慶州、東大邱に続き今回は水原、ソウルの鉄道風景を紹介したい。水原はナローゲージの鉄道が見られたが、これは次回としたい。数年前に水原まで乗り鉄したが、通勤電車が走っており、風景の激変に驚く。この1971年はまだ、夜12時以降は外出禁止令が出されていた。日本では東京都知事は美濃部さんの時代であり、韓国の年配の方は、それを非難し、反共色が強かった。水原駅前には韓国鉄道近代化のあるべき姿のひとつであろうか日本のブルートレインがPRボードに見られた。韓国は客車列車が多く、台湾などと同じようにアメリカGE製のディーゼル機関車がブンブンと大きな音をたてて走っていた。客車の一部には25メートルくらいある米軍が持ち込んだと言われるダブルルーフの客車も結構見られた。

1971.4.26 水原 ディーゼル機関車に牽引される客車列車

 

1971.4.26 水原出発 釜山行き観光号

1971.4.26 水原 日本のキハ20タイプの気動車

1971.4.26 水原 機関車の直ぐ後ろに見える大型ダブルルーフ客車は米軍の持込

1971.4.26 ソウル駅北側 戦前の鮮鉄特急「あかつき」は釜山~京城(ソウル)であったが、急行「ひかり」「のぞみ」はさらに満鉄方面へ、急行「大陸」、「興亜」は北京に向かっていた。

 

 

 

台湾鉄路全線乗車の旅 Part8 高雄地鉄

第6日目 5月25日

嘉義16:10-(区間車3165)→18:03高雄

 台湾鐡路全線乗車の旅も、中盤6日目の朝をむかえた。昨日は、フル稼働だったので、老体を休めなければ、この蒸し暑さには、身がもちません。台湾は、温泉大国でもあります。丁度、バスで、約1時間ほどに、台湾屈指の珍しい泥温泉の、関子嶺温泉がある。平渓線で、CK124を撮影した時に、知り合った若い日本人夫婦も薦めていた。バスターミナルもホテルから、徒歩5分となれば、行ってみるしかない。

ただ、台湾の路線バスの運転は、日本ではお目にかからないほど、すごい。急カーブをもろともせずにタイヤを鳴らしながら、突っ走る。北台湾で経験済みです。ここもそうなんだろうと、覚悟して乗車しましたら、昨日の田野列車に、毛が生えたような、うすのろ走行です。これは、寝るしかないと、運転手に下車駅を言って、揺れるがままに任せました。

車内に響きわたる運転手からの、アナウンスで起こされました。あたりの景色は、市内地から山の中です。川を挟んで、古びた温泉旅館が並んでいます。先まで行くと、さまざまな浴場を完備した、近代的なスパ温泉があるのですが、手短にバス停前の温泉旅館に入ったのが、間違いでした。

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201系「四季彩」引退

【3343】「JRおおみや鉄道ふれあいフェア」でも書き込みした通り、6月28日(日曜日)をもって201系「四季彩」が通常の営業運転を終了し、7月に実施される「お別れ運転」を残すのみとなった。【3343】と一部重複する部分があるが概略を簡単に述べると、車号は 青梅←クハ201-134+モハ201-263+モハ200-263+クハ200-134→奥多摩 で、昭和59年10月近畿車輛で中央線用として新製、武蔵小金井区に配置、中央線用としては最終増備車であった。平成13年7月大井工場で青梅線用の展望電車に改造(車号は変化なし)土、休日に青梅線を中心に定期運行、一般公募により「四季彩」と命名された。現在のラッピングに変更されたのは平成17年6月である。

車内は大きく改造され、奥多摩に向かって進行方向左側の座席を撤去し、奥多摩寄りの先頭車クハ200-134は窓側に向いた折畳み座席を、後ろの3両はクロスシートを設置して、窓は開閉不能の1枚窓に改造された。一方、右側の座席は通常のロングシートで、窓はそのままであるが、シートはパケットタイプのものに取り替えられた。

6月20日、27日と2週連続で出かけたが、撮影者が沿線に分散したのと27日は横須賀線に旧形客車が走り、そちらに行った人が多かったためか、青梅~宮ノ平間の踏切、軍畑の鉄橋等一部の有名撮影地を除けば、人出はさほどでもなかった。

このあと7月11日、12日に立川~青梅間、18日~20日に立川~奥多摩間で「さよなら運転」が実施されるが、「募集型企画旅行商品」として運転されるため一般乗車は不可能である。

クハ201-134/立川寄りの先頭車で春の吉野梅郷と梅の花が描かれている。

 

モハ201-263/2両目で夏の御嶽山と「れんげしょうま」の花が描かれている。

 

モハ200-263/3両目で秋の鳩ノ巣渓谷と紅葉が描かれている。

 

 

 

左側は4人掛けクロスシートになっている。元の座席下に設置された扉開閉機と暖房器を生かしたため、側板と座席の間にデットスペースが生じた

クハ200-134/奥多摩寄りの先頭車で、雪の舞う奥多摩湖と冬に黄色の実を付ける柚子が描かれている

 

 

左側の座席は多摩川の渓谷を見学できるように外側に向いている。座席は跳上式で使用しない時はバネで折畳まれる。

 

日向和田~石神前間を走行する奥多摩行

 

日向和田~石神前間を走行する青梅行

 

二俣尾駅に停車中の青梅行(左側はホリデー快速の回送列車)

 

軍畑~二俣尾間を走行する青梅行

 

軍畑~二俣尾間の軍畑鉄橋を渡る青梅行(鉄橋の二俣尾側、駅から徒歩2分のお立ち台は人が多かったのと逆光のため、一旦谷へ下りて登り返した対岸に行った。同業者はゼロであったが場所は今一つ)

 

[参考]軍畑鉄橋を渡るE233系(駅から徒歩2分のお立ち台)

 

[参考]軍畑鉄橋を渡る73系(昭和49年5月1日撮影)

 

軍畑駅に進入する奥多摩行

 

沢井~御嶽間を走行する青梅行

 

鳩ノ巣駅に進入する青梅行

 

奥多摩駅を発車する青梅行

湯口徹さん受賞祝賀会・開催のお知らせ

今もデジタル元祖青信号で大活躍の「湯口徹さん」、昨年出版された「日本の蒸気動車」が、鉄道友の会選定の2009年「島秀雄記念 優秀著作賞」に、単行本部門で選出されました。

湯口さんは先年、「内燃動車発達史」を上梓され、鉄道趣味界を驚嘆させました。この時はまだ今回の受賞制度がなく、設定2年目の本年に受賞が実現しました。

DRFC設立時からのメンバーであり、クローバー会の推進役でもある湯口さんの今回の受賞を祝う集いを、次の様に企画いたしました。皆さんの参加を待っています。

1.日時:200989日(日曜日)午後530分~午後730

2.会場:大阪梅田・お初天神通り、ニューミュンヘン本店3

  Tel 0663113381

3.会費:御一人5,000円(当日徴収)

4.申込:電話 09036548224FAX  0752118231

  E –mail : dsxhg 814 @ ybb.ne.jp  乙訓の老人コト沖中忠順

5.締切:8月1日(土)厳守。定員20人(先着順)。

呼びかけ人:DRFCクローバー会有志

京成電鉄 創立100周年記念列車

京成電鉄は1909年(明治42年)6月30日創立以来、本年で100周年を迎えた。今年は創立100周年を記念して様々なイベントが計画されているが、その一環として3300形4両1編成(←上野、3356+3355+3354+3353)を往年の青電塗装に変更した。

6月30日(火曜日)「創立100周年記念列車」として、この編成を使用した上野~金町間の臨時特急が運転され、停車駅及び時刻は、上野(1419)、日暮里(1423)、青砥(1439)、高砂(1441)、柴又(1444)、金町(1446)であった。金町に住んで20年以上になるが、京成金町線に特急列車が走るのは前代未聞のことで、是非乗車、撮影をしたいと思っていたが、あいにく多忙な平日の月末であったため諦めていたところ、急遽午後から外出する仕事が入り、辛うじて撮影のみ間に合った。外出先での業務終了後、大急ぎで京成金町駅に行き14時40分の高砂行に乗車、柴又駅到着が14時42分、間一髪で臨時特急と折返しの回送列車を撮影することができた。平日にも拘らず金町には15名、柴又には20名位の同業者がおり、臨時特急は立ち客が出る程満員であった。ポスターに記載されている通り、8月下旬には赤電塗装車が、9月中旬にはファイヤーオレンジ塗装車が運行される予定となっている。余談であるが、高砂、町屋経由で会社に戻ったが、町屋で降りると都電の新車「8801」が三ノ輪橋行で到着、撮影後千代田線への階段を降りかけたところで「8802」が次の三ノ輪橋行で到着した。

3300形は、昭和43年から47年にかけて54両新製され、4、6、8両編成で普通から特急まで各種列車に使用され、京成線のみならず、都営浅草線、京浜急行にも乗り入れて活躍したが、新3000形の増備により、平成19年度から本格的に廃車が始まり、現在は4両編成8本の32両が在籍し、本線、金町線、千葉線で普通列車を中心に使用されている。その他に、北総鉄道に8両がリースされ、印旛日本医大~羽田空港間等で使用されている。

 

柴又駅に到着した上野発金町行臨時特急(3353-3354-3355-3356

 

中間車の3354

 

「特急・金町」の方向幕

 

折り返しの回送列車

 

創立100周年のポスター

台湾鉄路全線乗車の旅 Part7 渓湖糖廠

第5日目 5月24日 その3

阿里山鉄道嘉義車庫を出た私たちは、快速道路1号線から19号線に入り、戦前、台湾を南北に分けた濁水渓に架かる 西螺大へと向かいました。

約1時間で、西螺大橋に着きました。しかし、朝からのバイク相乗りは、初体験もあって、かなり疲れてきました。おまけに、この暑さです。意識が、ぼ~として、走行中でも、眠気が襲ってきます。危険と思い、ここで、しばしの休憩をお願いしました。 続きを読む

橋本工房気まぐれ日記

外径3mmの肉薄パイプを真鍮板にハンダ付けし、加工する。
外径3mmの肉薄パイプを真鍮板にハンダ付けし、加工する。

 久しぶりに工房が再稼働しましたので、投稿します。上の写真、これは何でしょう?相変わらず浮気ばかりで完成車が出場しない当工房に、またまた入場車が入りました。例によって作りかけて何十年というEF64(0番台)です。長い間置いていたため、工作を残したままなのに勘違いして塗装を始めてしまい、それがショックでまたしまい込んでいました。今回、当クローバー会のK先輩のDVDを見せて貰ったことがきっかけとなり、生きている内にけりをつけることにしました。これまた懐かしい、しなのマイクロのバラキットです。

前照灯の庇を付けないまま塗装を始めたことに気づき、しまい込んでいたEF6436
前照灯の庇を付けないまま塗装を始めたことに気づき、しまい込んでいたEF6436

付け忘れていたのは前照灯の庇でした。キットに入っていたのはあまり出来が良くなかったので、肉薄パイプを加工して作ることにしましたが、青色を吹いてしまってからですので通常なら仕方なく塗装剥離するところですが、それも実に面倒なので接着剤かハンダ付けで取り付けて部分塗装でごまかすことに。結局極一部塗装をはがし、ハンダ付けしてしまいました。心配していた熱影響はほとんどなく、未塗装部はエアブラシでピンポイント塗装するつもりです。

何とか庇がつきました。ハンダ付けで!
何とか庇がつきました。ハンダ付けで!

写真ではよく見えないかも知れませんが、鏝を当てたところにハンダの盛り上がりが出来ています。これからキサゲて取り除きます。

ところで次の写真も入場車です。犬山総会に持参していましたので、一部の方にはご覧に入れました。その頃から殆ど進展していませんがブレーキてことブレーキシューのセットが出来ています。これを取り付けたら基本部分は終わりで、エアーブレーキ関係の部品取り付けとパイピングです。これでようやく当鉄道のB6トリオが完成します。(写真のブレーキてこのセットは置き方が逆ですね、失礼しました)

「ところでボクはどーなるの?」と2312

「ところでボクはどーなるの?」と2312

「はよおいでや」と待っている2713と2914

「はよおいでや」と待っている2713と2914

1953年高校生東京へ その7


小田急1301経堂  

小田急経堂車庫にも行った。特に情報や信念?があった訳ではない。単に電車の車庫だというだけの、全くの無自覚無個性無気力ええかげん撮影である。なぜか経堂にDT17台車をはいた国鉄モハ40044がおり、小田急線でテスト走行をしていたようだが、写真は撮っていない。

小田急1457経堂

小田急1602+1656経堂

小田急1703+1752+1704経堂

小田急特急「あしがら」経堂

小田急1801+1851経堂 云わずと知れた私鉄版モハ63だが窓は2段式になっている。関西では南海と、標準軌間の山陽にいた。

小田急1906+1953+1905経堂

小田急急行 経堂

小田急1402藤沢

箱根登山114+102小田原

箱根登山103小田原

台湾鉄路全線乗車の旅 Part 6 阿里山鉄路嘉義車庫

第5日目 5月24日 その2

嘉義市内戻ると、彼は行きつけの庶民食堂に連れて行ってくれました。地元人でないと、こういったところへは、行けません。食事後、顔を洗いたいと、近くの勤め先の、阿里山鉄道嘉義車庫へ向かいました。
日曜日ですので、門は閉まっていましたが、彼は、ポケットからコードレスキーを取り出して、開けて入っていきました。予定には、なかった車庫見学が、実現しました。


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下関駅を想う

写真展が終わって腑抜けた気持ちを引き締めるためにも、せっせと投稿へコメントを寄せていますが、やはりここらで自身の思いも披瀝してみたくなりました。以前のK.H.生さんの寄稿「山陽線西部の117系」のなかの下関駅への思いが心に残ります。
鉄道趣味人生にターニングポイントになった駅、というのがあると思います。私の場合、下関駅がそのひとつになっているのです。

今から40年以上前の昭和40年9月、高校1年生の私は山科の大築堤に立っていた。新幹線開業後で、特急こそ消えたものの、まだ急行列車は健在であった。京津線で御陵まで行き、駅前の道を南下して築堤を駆け上がって行った。今なら築堤に立ち入れば即警察沙汰だろうが、当時は自由に入れて、しかも撮影者はほんの2、3人という状態だった。そのとき、近くにいた撮影者から声を掛けられた。京都の人間だと言うと梅小路のC51の写真を交換してほしいと言う。鉄道雑誌の巻末にも必ず写真交換コーナーがあり、写真交換が盛んな時代だった。
C51の写真を送ってあげると、返礼に写真が2枚送られてきた。そのうちの1枚が、下関駅で撮影されたC62の牽く「さくら」の到着シーンだった。京都からほとんど出たことのない身にとって、彼の地の写真は実に衝撃的に映った。印刷した雑誌では得られない、ナマ写真の迫力は違っていた。135ミリの望遠で下からあおったC62の迫力、朝の斜光線を浴びた20系客車の輝き、手旗を振る作業員の表情、すべてが鉄道への憧れを満たすのに十分な内容だった。「いつかはこんな写真を撮ってみたい」、40年以上も鉄道写真を撮り続ける端緒になったのが、人からもらった下関駅の写真だった。ちなみに声を掛けてきた撮影者は、大阪市在住の広瀬さんという方で、その頃の鉄道ピクトリアルの写真コンクールの常連だった。今ごろどうされているのか…。

人からもらった下関駅のC62「さくら」。今も大事に貼ってある。

 

その1年半後、意外に早く下関駅訪問が実現する。高校2年生のとき、初めて一人で行った長距離の撮影旅行、夜行列車で迎えた早朝に下関駅に下車した。高架のホームから朝陽が昇り始めた関門海峡が望める。こんな大きな駅で海のすぐ側にある駅というのも珍しいことだ。下関は直流区間の終端で、181系特急、153系急行が続発、客車を牽くEF58は下関機関区に39両が集結し、最大のEF58配置区だった。興奮を抑え切れずに駅で写しまくったのは言うまでもない。この日は、門司区、若松区を巡って、初めてのユースホステル宿泊として、市内の火の山ユースホステルに泊まったのも印象深い。
この日のことには後日談がある。下関駅の旧駅舎が建て替えされるのを惜しんで、旧駅の思い出文集の募集があった。この日の印象を纏めて送ったところ、日の出の写真とともに掲載されたのも思い出深い。
K.H.生さんも書かれているように、三角屋根の特徴ある下関駅駅舎は、2006年に放火で全焼した。前述の文集はその建て替えに際して発行されたものだった。1999年には駅の自由通路を暴走してきた自動車に多数の乗客が轢き殺される事件が出るなど、旧駅の末期には不幸な出来事が続いた。

その後、何度も下関駅を通ったが、通過するだけで、駅に降り立つこともなくなった。しかし、下関駅を出て、機関区を眺めながらぐんぐん下っていき、関門トンネルに吸い込まれ、いよいよ九州へ踏み込むという感慨は、本州最西端の下関ならではの思い出だった。

 

ホームから関門海峡に昇る朝陽が眺められた

下関駅で発車を待つ「第一しおじ」。先頭はクハ181-1

多くの人の旧駅の思いが詰まった文集

大鉄道展の案内by琵琶湖のヒマ人

 たまたま京都伊勢丹の中で見つけたパンフレットです。

少なくとも我々がわざわざ行くほどのもんやないと思いますが、一応ご存じない方にと…。生意気にも700円も取りくさるのが、まず気にいらん!

何となく世の「鉄道ブーム」みたいなもんに乗っかって企画しとるようで、あんまりいい気はしませんなぁ~。(関与された方がおられたらお許しの程を…!)

 

 

 

 

琵琶湖のヒマ人さんの投稿を米手作市が代筆いたしました。

台湾鉄路全線乗車の旅 Part5  烏樹林糖廠

続編を投稿するのを、サボってました。今度は、中国本土の鉄道乗車の旅を楽しんでいたからです。何度も乗っていますが、今回も出会いや、発見がありました。詳細については、台湾鉄路の旅が、終わってから、載せますので、よろしくお願いします。

第5日目 5月24日 その1
阿里山鉄路乗車で、出会ったDLの運転手は、約束の朝8時に、愛車にまたがり、ホテルに迎えに来てくれました。ヘルメットを、かぶっての、初めてのバイク相乗りです。走行中に落ちないかと、心配・緊張の連続でした。日曜日とあって、走行する車が少ないので、50~70km/hで、快走します。日本では、真夏と思える日差しを浴びています。生暖かい風を受けての走行ですが、暑さは、やわらぎました。

バイクの多い台湾です。国道を見ますと、バイク専用の車線があります。一路、台湾鉄路(略;台鉄)沿いの快速道路1号線を南下、烏樹林を目指しました。途中で、台鉄後壁駅に立ち寄りました。次回のために、駅前のバス発車時刻を見ておこうと、探してみましたが、案の定、バス停すら、見つけられません。彼が送ってくれなかったと思うと、感謝、感謝です。

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レトロ横濱撮影記

昨日、関東在住のDRFCクローバー会の3名、レトロ横濱を撮影してまいりましたので、ご報告いたします。

前日の土曜日の天気予報では、曇りの予報でした。

当日9時に、東海道線川崎駅下りホーム神戸方先端に集合したのは、準特急さん・新所沢都民さん・小生 デカンショまつり号の3名です。

品川から横浜への回送がまだということで、一旦、東海道線で横浜へ、横浜から京浜急行で一駅品川側の神奈川に戻り、思い思いの場所で、回送を待つこと30分強。いよいよEF641001+旧型客車7両+EF65501の回送が来ました。(一枚目の写真)

その後、京急神奈川駅で、再集合。残り少なくなった京急OLD1000系で上大岡へ、そこから京急自慢の2100系快特で金沢文庫。こんどは、800系の普通に乗換え、次の撮影地の最寄り駅安針塚へ。安針塚へ着いたには、小雨が降り出していました。傘をお忘れの準特急さんは、駅近くスーパーで、ビニール傘をご購入。糧食を補給の上、帝国海軍 横須賀鎮守府がおかれた横須賀軍港時代は、要塞地帯ということで到底、撮影が許されなかったであろう場所で、レトロ横濱1号を待つこと小一時間。この頃には、雨はすっかり本降りに・・・・この雨の中、雨に煙る横須賀軍港を背景に、EF65501をおしりにつけたレトロ横濱1号がやってきました。(二枚目の写真)

さらに、待つことしばし、隣の横須賀で折り返しのEF65501を先頭にしたレトロ横浜2号を撮影。(三枚目の写真)  元来、EF16などを置き換えるために生まれ、イベント用に茶色に塗られたEF641001より、特急専用機として生を受けたEF65501のほうが、いいと思うのは、私だけでしょうか?

ずぶぬれになったあと、安針塚に戻り、再度、京急利用。今度は、600系と、毎回乗車する車が違いました。一駅乗った後、逸見で下車。横須賀のどぶ板通りならぬシャッター通りを通って、雨の中、横須賀駅へ。

この後の撮影も躊躇するくらいの雨でしたので、3・4号は、安置欲に駅撮りすることに一同異議なし!上り横須賀線の車中の人になり、ロケハンしながら大船へ。長時間停車する大船は、既に大勢の鉄に占拠されていました。再度、流浪の民となり、東逗子に戻り、ここで、3・4号を迎え撃つことにしました。

雨の中、東逗子駅久里浜側先端でレトロ横濱3号を待ちました。四枚目は、帽子をかぶった準特急さんとEF641001のツーショットです。私の本命は、EF65501のお尻でした。準特急さんすみません。

今度は、東京方に移動し、レトロ横濱4号を待ちます。駅員の方から親切にも、ちょうど15時10分の通過時刻は、下りの電車とかぶるよというアドバイスをいただきましたが、もうここまで来たら動けません。運を天に任せて、レトロ横濱4号を待ちました。運よく横須賀発が1分の延。かぶられず撮影することができました。五枚目・六枚目。

撮影終了した頃、同じくクローバー会の逗子在住のシグマ太郎さんが長靴姿でご登場。しばしの逢瀬を楽しみました。

以上、レトロ横濱撮影記でした。