尋ね人

子供の頃、ラジオから「北支派遣軍第○○部隊におられた●●さんをxxさんがさがしておられます。・・・」という声が流れていたのを記憶しています。乙訓の老人や須磨の人間国宝などはリアルタイムに聞かれたはずです。それではありませんが事情があって下記の方を探しています。

会員で、78年に法学部法律学科に入学した方を探しております。知っている方がおられればご一報下さい。よろしくお願いします。

CRHの旅Ⅲ Part3 北京北駅

CRH2-300運行廃止の悲しい報告をした後に振り返ると、復路に乗車したCRH3の座席ポケットには、初めて見るCRH3編成案内パンフレットが、入っていました。今までの中国鉄路にはなかった、ちょっとコケティシュなパンフレットです。ご覧下さい。朝日新聞の記事は、Webにも掲載されていますので、ご覧下さい。
http://globe.asahi.com/feature/090202/03_2.html
http://globe.asahi.com/feature/090202/03_1.html


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モハ33、34

澤村達也様よりモハ33、34についての質問があったので、今回はこの系列の解説をする。モハ33形は昭和7年山手線用として2両(001、002)モハ34形は、モハ33を両運転台付にしたタイプで、昭和8年、中央線、山手線(赤羽~池袋間)、横浜線の増結用として、26両(001~026)作られた。【1678】でも書いたが、関西地区ではすでに20m車が投入されていたが、東京地区は受入れ準備が整っていなかったため17mとなった。

戦時中モハ34011~026の後部運転台を撤去してモハ33に編入する工事が計画されたが、実施されたのは9両であった。両運で残った3両と片運に改造したモハ33の1両が戦災のため廃車となった。戦後木製荷物電車の廃車補充のため、モハ34、10両、更に片運改造したモハ33の内5両を両運に戻して荷電に改造し、形式を1形式1両のモニ53に編入して002~016となった。

その結果、片運のモハ33はオリジナルの2両と、モハ34の片運改造車9両の内、戦災廃車1両と荷電改造の5両を差引いた残り3両の計5両、モハ34は片運改造車9両、戦災廃車3両、荷電改造の10両を差引いた残りの4両が残った。

昭和28年6月の改番でモハ33はモハ11300番台となり、11300、301~307の奇数、モハ34はモハ12000番台となり、12000~12003となった。また、荷電に改造されたモニ53は、番号はそのままでモニ13となった。

 クモハ11300番台

最終配置は300が中原、301と307は弁天橋、303は北松本、305は陸前原ノ町で、307が昭和48年11月、それ以外は昭和42年8月までに廃車された。305と307の2両は、元50系のクハ16559と共に昭和36年に大井工場でモデル更新車として、内装のビニールクロス張りハードボード化等の近代化改造が実施されていた。

 クモハ12000番台

最終配置は、000が大垣、001は北松本を経て構内入換及び牽引車として沼津、002と003は陸前原ノ町で、001は昭和58年に、他の3両は昭和42年中に廃車された。000は廃車後昭和44年に伊豆箱根鉄道に譲渡され、最後は大雄山線の事業用車であったが、平成9年まで使用された。

 

クモハ12001(長キマ)/昭和8年汽車会社製、旧車号はモハ34005で、新製時の配置は三鷹であった。戦後、中野に転属し、品川、弁天橋を経て昭和26年5月に北松本に転属、昭和48年8月まで大糸線で使用されていた。同年9月1日付で沼津に転属して入換、工場への入出場車の牽引車、控車として使用され、関東地区にも顔を出していたが、昭和58年に廃車された。大糸線時代の昭和41年11月、下り向きに霜取り用パンタを増設して2丁パンタとなり、下りの朝一番電車の先頭車に使用されていた。その後のダイヤ改正で一番電車が新宿発の急行「穂高」に変わった時にクモヤ90803と交替したが、霜取りパンタは沼津に転属するまで残された。

この写真を撮影した時点では大糸線の17m車はこの車両1両のみで、まさか撮影できるとは思っていなかった。この日は物凄く寒い日で信濃大町駅の温度計は零下15℃を指していたが、この車両を見た途端に寒さは吹っ飛んだ。(昭和48年1月14日 信濃大町) 

伊豆箱根鉄道モハ66←クモハ12000(名カキ)/前述の通り元クモハ12000で、昭和44年1月に伊豆箱根鉄道に譲渡され、三島~修善寺間の駿豆本線に配置された。譲渡の対象は車体のみと云われ、台車はDT11を履いている。廃車後、譲渡までの間は浜松工場に保管されていたと思われるが、車体のみを伊豆箱根に運んだとは考えにくく、恐らく売却の対象になったのが車体のみで、実際には足回りも付いていたのではなかろうか。ちなみに同時期に車体新製の新車1000系3次車(モハ1005-モハ1006-クハ2003)が作られている。昭和52年1月大雄山線に転属、平成4年4月27日付で工事車コデ66に改造され、平成9年3月24日付で廃車となった。尚、パンタ側の乗務員室は通常は3両編成の連結面となるため営業運転で使用されることはなかったため扉は撤去され窓に改造されていた。(昭和62年6月23日 大雄山)

③ クモニ13002~016

荷電に改造された15両は、東京地区と大阪地区に配置され、長く新聞輸送等に使用され、大半の車両が昭和50年代後半まで在籍した。特に007は廃車後も東京総合車両センター(旧大井工場)に保管されているが、昨年の一般公開時に見たところでは、痛みが激しくなってきており早急な補修が望まれる。(旧掲示板8月25日付【1550】参照)

クモニ13013(南シナ)/昭和8年日車製、旧車号はモハ34013として作られ、昭和19年3月大井工機部で片運化してモハ33005、昭和26年4月大井工場で両運化の上荷電に改造された。昭和56年1月廃車された。(昭和50年12月31日 大森~蒲田)

クモニ13009(大タツ)/昭和8年日車製、旧車号はモハ34011として作られ、昭和23年10月汽車会社で荷電に改造された。昭和24年4月、品川より宮原に転属、後に高槻に転属し、昭和54年12月に廃車された。003、008も関西入りしたが、配給車に再改造クモル23003、010となった。(昭和42年2月20日 大阪)

クモル23010(大タツ)/クモニ13008からの改造車で、昭和8年日車でモハ34010として作られ、前述の009と同様に昭和23年10月汽車会社で荷電に改造、昭和27年5月に関西入りして、昭和36年12月に配給車に再改造された。廃車は昭和57年1月であった。(昭和46年1月15日 大阪)

【質問に答える】

【1678】澤村達也様からの質問の回答

.1 [前文省略]謎はその車体に1両だけ「クハ」と書かれていることです。Wikipediaのモハ33系電車を見てもクハが存在したとは書かれていません。窓配置はモハ34と同じですので、モハ34として作れば良いようなものですが、気になって安眠できません。

.1 「クハ」と書かれている車体をお持ちとのことですが、モハ33系にクハは存在しません。

.2 制御器サイドの床下がわかる写真はないでしょうか。

.2 探したのですが残念ながらありません。旧形国電関係の知人、友人のHPも見たのですが、皆さん同じ向きで撮影されており制御器サイドはありませんでした。代わりにモハ31系のクモハ12052の写真を貼り付けましたので参考にして下さい。

                                (昭和47年5月1日 大川)

.3  連結器を自連に取り替えたことはありませんか。

.3  昭和26年大糸線に転属時に自連に取り替えられています。前身の信濃鉄道買収車が廃車になった時点で密連化されますが、貨車引いていたクモハユニ64000の予備車を兼ねていましたので、同車が検査入場時等に一時的に自連に取り替えられたことがありました。

40年前のカラー写真(パクリ版)その2

一枚目は春の休日に横須賀を散歩したときの撮ったものです。渡し船ですが今でもあるのでしょうか。どことどこを渡していたのか、撮ったことも覚えていません。

横須賀にて

横須賀の渡し船

二枚目と三枚目は京浜急行を撮ったのですが、京急には全く興味が無くいい加減な撮り方でした。

京浜急行、撮影場所不明

撮影場所不明

 

次は都内に帰ります。夕暮れの都電を撮ったものですがこれも撮影場所が分かりません。これは東京支部の方にお助けいただく必要がありそうです。

 

次は多分新宿駅。注目は道床に張られた金網。若い会員には知らない人が多いでしょうがこの前年、10月21日に世に言う「国際反戦デー」があり新宿駅は全学連に占拠、破壊されました。その後全国の主要駅は砕石をとられないように網を張ったりアスファルトで固めてまるで市内軌道のようになったのでした。

http://www.youtube.com/watch?v=mnrgvmxEkdQ

 

線路上の防護網

 これからの4枚はクイズです。新宿であるのはお解りでしょうが、さて今のどのあたりでしょうか?昭和44年の新宿は戦後の闇市と新時代都市が交錯していた時代でした。

新宿1

新宿2

新宿3 これは分からないでしょうから正解を。建設中の京王プラザホテル

新宿4 これが分かれば新宿王!

続きます。

40年前のカラー写真(ぱくり版)その1

ほぼ同名の記事がありますが、これは似て非なるもので通称「ぱくり」、関西では「パッチもん」ですからそのつもりで見て下さい。そして教えて下さい。

というのは学生時代(実は今も全く変わりません)から写真は撮るだけ、あとは野となれ山となれでほったらかし。整理しながらどこで撮ったものかいつ撮ったものか分かりません。分かった方は教えて下さい。

時代は私が東京にいた昭和43年から45年にかけてです。北海道は昭和40年頃です。またサクラカラーリバーサル、フジクロームとエクタクロームを使っています。色の退色具合からどれかも判断してみて下さい。

たぶん原生花園

上記と同じ場所でキハ04

上と同じ場所でキハ04

壮瞥付近ではないかと思う

壮瞥付近ではないかと思う

保線区の人から「京都から汽車を見に来るとは奇特な人」と褒めてもらった。

さてこれがどこか分からん

これも・・・

これも・・・

そしてこれも・・・多分同じ駅だと思う。

これは分かるぞ!

続きはまたいつか・・・・

CRHの旅Ⅲ Part2 京津城際鉄路 『はやて』 運行激減の理由

1週間前から、京津城際鉄路の記事をまとめて投稿しましたら、本日2月2日の朝日新聞朝刊のGLOBEに下記の記事が出ていまして、びっくりしました。CRH2-300についての記事を転載しますので、お読み下さい。 続きを読む

CRHの旅Ⅲ Part1 2009年の京津城際鉄路

タフとパワーが売りでしたが、さすが病魔には、勝てずで、定年後の勤務続行を急遽断り、自由人となる決意をいたしました中国特派員です。

リハビリと静養を続け、ようやく担当医からOKが出ましたので、1月中旬、機上の人となり、大地を目指しました。今回の訪中は、12月末まで務めていた会社からの、最後の社命です。

関空から北京へのJAL便は、定員232人に対して、わずか38名の乗客です。最近は、殆どこんな搭乗率で、不況による影響は、搭乗客減に直結していると、アテンダントのお姉様方は、嘆いておられました。しかし、機内サービスは十分で、呑み助には最高でした。

鉄道と違って、乗客数に応じて、編成車両数を調整出来ない飛行機は、大変です。この分では、また便数が減ると思っていたら、先日JAL,ANA共、休航や減便発表がありました。両社共、劇的に搭乗客が増加しない中国線に、競うように増便を重ねた結果です。これでもまだ多いと思いますので、第2段が続くでしょう。


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しつこく江若鉄道と法勝寺のこと

江若鉄道のキハ12が何とか完成し、先に完成したキハ5124と塗装を残すのみとなりました。キニ9のエッチング板をオークションで入手したものの、車両製作はひと休みとしましょう。(オハ27 3両の完成が先・・・) キハ12は棒型モータを床下にぶら下げ、ユニバーサルジョイントで駆動することにしたのですが、あえて1軸駆動にしたため動き始めは音ばかりで加速が悪く、またモーター付のキハ15などと連結運転すると 引っ張られたり押したりと実物そっくりの状態で うれしい限りです。

さてレイル67号に藤本先輩の法勝寺の記事があるとのこと、三原市内の本屋に行ってみたものの、三原の田舎に格調高い「レイル」があるわけもなく、その代わりになぜこんな本がという「鉄道連隊」の本があって これを買って帰りました。日の丸法勝寺の現役時代には訪れたこともなかったのですが、この正月休みに米子を訪ね、保存車両には会ってきました。南部町法勝寺の西伯小学校に保存のデハ203も米子市元町商店街に保存のフ50のいずれも状態は良く、当時を彷彿させてくれました。

ところで 木次線の亀嵩-出雲三成間の線路脇の空き地になぜかワキ10073と10120の2両が放置されていてびっくり。空気バネ台車を履いた高速貨車がなんで出雲の山の中にあるのか 夜も寝られません。どなたか事情を知っておられる方は薀蓄をかたむけてください。

汽車住宅や江若鉄道でお騒がせ致しておりますが、毎夜この掲示板を開くのを楽しみに正業にも励んでおります。明治村には行けそうになく残念至極でありますが、皆様とつながっていると実感しながら 鉄分補給しています。

少し前の飯田線 Ⅱ

前回は17m車を解説したが、今回から20mに入り、以降80系まで続けたいと思っている。飯田線に在籍した車両から旧形国電の概略を掴んでいただければ幸いである。時期は原則として昭和52年3月末現在の車両配置を基準にした。

(3)戦前形2扉車

戦前形2扉車は、大きく次の3グループに別れる。

  17mモハ32(前回解説したクモハ14000番台)と同一グループのクハ47000番台(事故復旧名義で車体を新製した011も含む)、050番台、サハ48、サハ45(旧サロ45)

元関西国電のクモハ42、43、53、クハ47100番台(元クハ58)

  元関西国電、流電グループのクモハ52、53、クハ47150番台(元サロハ66)、サハ48(034、1両のみ)

今回は①のモハ32と同一グループのクハ47、サハ48、サハ45を紹介する。

このグループの昭和52年3月末時点での配置は次の通りである。

クハ47 009、011、069、070、074、076(全車両伊那松島区配置)

サハ48 021、024(全車両豊橋区配置)

サハ45 昭和52年3月末は配置はないが、昭和43年9月まで012が配置され、富士電車区に転属した。

1.クハ47000番台

横須賀線の付属編成用として昭和6年に10両製造、全車両偶数(下り)向きであった。戦時中4扉化が計画されたが、004と010の2両が実施されたのみで終戦となった。この2両は後に関西に転属して、最後は片町線で終焉を迎えた。残る8両は戦災に遭うことなく終戦を迎えたが、70系の進出により身延線に転属。この時、静岡局の電動車偶数向き、制御車奇数向きの方針により、奇数(上り)向きに方転した。002と009は飯田線に転属したが、002は3扉化の上、クハ68200となり長岡区に転属。009のみが伊那松島区に残り、昭和58年8月に行われた、お別れ運転の先頭に立った。

 

クハ47001/昭和6年日車製、本来47009を掲示すべきであるが、良い写真がないため、トップナンバーの001を掲示した。(昭和48年5月6日 富士電車区)

2.クハ47050番台

横須賀線のサハ48を70系進出に伴い、ローカル線に転用するにあたりクハ化したものである。サハ48は28両作られた内、16両がクハ化されている。一部の車両はサハ時代に戦後代用2等車としてロングシート化されていたが、クハ化の際もシートはそのままであった。000番台との外観上の相違は殆どない。074と076は一時期(昭和36年頃)新前橋区に配置され、湘南色に塗られてクハ86と同様に使用されていた。鉄ピクNo.768(2005/11)のP38に準急「軽井沢号」(上野~横川間・横川~軽井沢間はバス連絡)に使用中の写真が掲載されている。

余談になるが昭和36年7月、安中市の新島 襄先生の所縁の場所を見学する学校行事があった。大阪14時55分発姫路発東京行の普通列車(144レ)で出発、当日中に東京に到着すると思ったら大間違いで、到着は翌朝の4時51分であった。ちなみに現在では15時発の新快速で出発すれば楽々当日中に到着する。上野から快速新前橋行に高崎まで乗車。車両は3枚窓のクハ86で、停車駅は赤羽、大宮、熊谷、深谷、本庄、高崎あった。車窓から畑ばかりの関東平野を見て、関西との違いを実感した。この時、上野駅で湘南色のクハ47とサハ48を見て、「何だ、これは」と思った。

クハ47069/昭和6年汽車会社でサハ48015として製作、昭和31年日車支店でクハに改造。(昭和48年3月26日 伊那松島)

クハ47070/昭和6年に日車でサハ48010として製作、昭和31年東急車両でクハに改造。(昭和52年5月4日 沢)

クハ47071/昭和6年汽車会社でサハ48017として製作、昭和31年汽車会社でクハに改造。昭和43年8月29日、平岡付近を走行中に崩壊した土砂に乗り上げ事故廃車となった。画像は豊橋区で湘南色の時であるが、廃車時の所属は伊那松島区であった。(昭和41年3月23日 中部天竜)

3.クハ47011

昭和27年豊川分工場で、昭和25年8月身延線内船~寄畑間のトンネル内で失火全焼したモハ30173の改造名義で作られた車両で当初クハ47023を名乗り、昭和34年12月の改番で47011となった。改造とは名義だけで、台枠、車体は完全な新製で座席は当時の湘南形と同じものを使用した。台車は廃車となった豊川鉄道の買収車サハ1、サハ2が履いていたTR11を流用したが、後にクハ16011のTR23と振り替えた。

(昭和40年3月20日 豊橋)

 

(昭和45年11月23日 辰野)

4.サハ48

昭和6年と7年に28両製作され、70系が登場するまで終始横須賀線で活躍した。戦後6両が代用2等車としてロングシート化された。戦災と事故で各4両、計8両が廃車、16両がクハ47に改造され、サハ48として残ったのは、18、21、24、27の僅か4両であった。21、24の2両は一時期宇都宮区に配置され、湘南色に塗られてサハ87と同様に使用され、後に豊橋区に転属し、30番台の4連運用に使用された。18と27は昭和39年2月まで横須賀線に残ったが、伊東線の元クロ49改造の48040、41と共に岡山区に転属した。

サハ48021/昭和6年汽車会社製(昭和48年7月28日 豊橋)

 

サハ48024/昭和7年日車製(昭和48年9月1日 豊橋)

5.サハ45

昭和5年と6年に横須賀線専用形式車として13両製作。戦時中の昭和19年4月、2等車廃止により、4扉化してサハ78に編入する改造が行われたが、沿線に海軍基地があり、要人の乗車を考慮して8月に復活、4、5、7、8、12の5両はサロのまま残ることになった。4扉改造車は4両が戦災廃車となったが、未改造の5両は70系登場後もサロとて活躍した。昭和39年から40年にかけてサハに格下げとなり、4、5、7、8は富士区に、12は豊橋区に転属した。

サハ45012/昭和6年日車でサロ45012として製作、昭和39年8月に格下げでサハとなった。豊橋区では湘南色に塗られ、30番台の4連運用に使用されたが、後に富士区に転属した。(昭和43年4月4日 豊橋)

【質問に答える】

【1487】でH.Kさんよりの質問の回答

.1 関西の国電は20m級が基本であったが、関東はおそらく院電からのなごりか鋼製車両や鋼体化車両の時代になっても17m車が作られた理由。

.1 関西地区で国電(当時は省電)が運転されたのは昭和7年12月1日、片町線の片町~四条畷間の電化開業に合わて、省電初の20m電動車としてモハ40、モハ41が作られた。鉄道省が半鋼製車を製作したのは大正15年で、東京地区では昭和8年前期のモハ33、モハ34まで17m車で作られた。これは車両基地の設備の準備が整っていなかったことが原因とされ、この問題が解決した8年後期からは20m車が投入され、以降は17mの新製車はない。鋼体化車は50系のことと思われるが、17m木製車の台枠以下の下回りを始め、使えるものを流用して作られたので、必然的に種車と同じ17m車になる。戦時中の昭和19年度から20m車化することになり、クハ79001~025の25両が計画されたが完成したのは8両であった。当件については、昨年11月に発売されたネコ・パブ社のRM LIBRARY「鋼体化国電モハ50系とその仲間たち」に詳しく解説されているので参照いただきたい。

クモハ11307/昭和8年新潟鐵工製、両運のモハ34036として誕生、昭和19年5月大井工機部で片運改造でモハ33018、昭和28年6月の改番でモハ11307となった。(昭和43年4月7日 弁天橋)

.2 横須賀線の電車化に際し初の2扉大型電車が作られたが、T車、Ts車、Tc車が20m級の設計であったのにMcのモハ32形(後のモハ14)はなぜ17級で作られたのか。

.2 モハ32形が作られたのは昭和5年で、当時20m車体の電動車は昭和3年製の大阪鉄道デニ500形(後の近鉄南大阪線モ6600形)位しか存在せず、車体延長による重量増加に対する従来の主電動機(MT15A)への不安、台枠、床下機器配置の新設計が間に合わなかったこと等が理由とされている。

.3 クハ77とモハ62は身延線用に作られた限定車両と推察されるが買収車や他の17m級国電を配置換えせずにわざわざ異端の新製車を作る理由はあったのか。

.3  身延線の前身、富士身延鉄道は、運賃が日本一高いと言われながらも赤字続きの経営難で、昭和13年10月1日国営に移管、昭和16年5月1日「輸送力増強をはかるため十分な改良を加えたい」という名目で買収された。(赤字の原因は、建設費及び電化工事費の多額の借入金金利の支払いと思われる)富士地区には、大規模な製紙工場や肥料工場があり、これらの工場が軍需産業への転用に伴う通勤者の激増で車両増備の必要性に迫られていたが、時節柄、電車運転線区は全国的に同じような状況のため、他線からの転用もままならず、鋼体化改造車の一部を身延線用に振向け、セミクロス、トイレ付きで製作したものと思われる。その意味ではこの車両も転用車である。

汽車住宅物語を拝借して

西村氏の投稿画面を見て驚いた。鋼製車体の元電車らしい汽車住宅ではないか。こんな電車があったのかな? あれば知らない電車となる。時代は戦後、老人の目の届くところでこんな電車が走っていたのだろうか。鋼製車体にリベットがあるが、大正時代でも、終戦直後のものでもなさそうだ。扉窓の下線が客室部分より低く、扉部の客溜まりも客室より低いようだ。台車はブリル21E、モーターは高床車用のものなのか。正面窓の巾は狭いようだ。と言うことは車体巾2m位? ならば軽便電車規格かな、と解釈してみた。ここまで頭に画いて地図を出し、若い頃の日本の電車を思い出してみた。思い当たるものがない。仙台市電43形についてひねくりまわした時もこんな電車は考えつかなかった。第2次世界大戦中、鋼製車体は完成したのに電装が出来ず、達磨さんとなっていたものが各地にあったとか。京都市電600686695の車体は九条車庫に戦中に搬入されたが、終戦を迎える迄そのままであった。仙台市電43形増備車3両は戦後になってやっと陽の目をみて、秋保と伊予で職場にありついた。こうしたことが実現できなかった汽車住宅がどこかにあったのか。

 大戦中の日本鉄道界のことを回想してみた。統制品である鉄道車両は武器の一つに位置づけられ、軍需工場や鉱産物採掘地帯での輸送用以外の新造は認められなかった。そこで先ず、軽便規格から目をつけたのは東武鉄道日光軌道線である。ここには戦時中、大分交通別大線から木造4輪電動車が送られていた。これを鋼製車体に取替えのためのものかと思った。早速ピク135号を探し出してみた。別府形テ20形3両、簡易鋼体化の車体はダブルルーフのまま。関係なし。別の戦時形5両はシングルルーフの木造車で、窓配置、数も異なり2段窓である。5両共に戦後、部品をかき集め電装したとある。全て当て外れとなった。考え直さねば……。

 

西村氏から汽車住宅物語が送られてきた。表紙絵の説明では「写真は1950年代の栃木県日光市にあった電車住宅を撮影したものである」とある。当たりである。だがピク135号掲載の写真に該当する電車が見当たらない。老人が初めて日光を訪れたのは1958年春のことである。この時すでに開業以来の旧型車は、1953年新造の100形、1955年新造の200形に取り換えられており、なにも残っていなかった。もう一度ピク誌の小林さんの紹介記事と写真を点検してみた。トレーラー、ハ5761の車体形状がもう一つ分からない。昭和4年汽車会社製造のボギー車となっている。これではないかと思ったが、確証がない。どなたかご存知の方、老人の探求欲を叶えさせ毛下さい。御願いします。

 

125日、長岡天神駅で2238分発河原町行きを待っていた。目の前に停車した梅田行き快急は93058Fである。耳にした話では9300系は6本で終わりだとか。

4本目からロングシート部の背もたれが50ミリ高くなり、最初に乗った時に気になった「しゃっくり」も収まり完成度は高くなったと思っている。細かいことを取り上げるといろいろ言いたいが、少なくとも京阪3000系より、老人の評点は高い。

 1年前にニュースを入れた都電の新車、2年度で5両を2回の新造。これで7500形を追放するのだそうだ。何時登場するのか聞き忘れた。

 伊予鉄に貰われの井の頭線3000系の残党、VVVF化して海を渡るのだとか。

 今回も写真がなくてごめんなさい。

EF55 さよなら運転

1月19日の【同軌講717】でロギング太郎さんよりご報告の通り、1月18日の「さよならEF55横川」号をもって営業運転を終了した。10月18日【738】でEF55の営業運転終了についてお知らせをしたが、最終日には是非見送りたいと思っていた。「さよなら運転」は12月に5回、1月に入って5回、計10回行われ、そのうち3回出かけたので、その時の模様等をお知らせしたい。

12月13日(土曜日)

この日は「さよならEF55みなかみ号」として高崎~水上間を運転された。たまたま高崎で仕事があり、先方とのアポが11時のため、新前橋~井野間で撮影した。赤羽駅7時過ぎの電車で出発したが、車内は一目で「鉄」とわかる乗客でほぼ満席、団塊の世代位の人が多く、中には「親子鉄」とおぼしき人もいた。高崎で107系や115系を少し撮影後、新前橋まで行き、井野寄りの陸橋で撮影した。EF55は単機で「磐越物語」用の12系客車を引いて通過した。時間があればもっと奥まで行きたかったが、今回はここで我慢せざるを得なかった。翌14日は水上まで行く予定をしていたが、朝から悪天気のため断念した。この日の水上は吹雪であったそうである。

 

         「さよならEF55みなかみ号」 新前橋~井野

1月16日(金曜日)

この日は、翌日上野発横川行で運転される「さよならEF55碓氷号」の送り込みが行われた。先頭にはEF641001が立ち、EF55は次位であることは判っていたが、たまたま休みが取れたので出かけた。赤羽駅を7時過ぎの電車に乗ったが、沿線には早くもカメラの列が見られた。取りあえず岡部で降り、通称「岡・本」で撮影しようと思ったが、激込みの様相であったので、深谷方面に戻った陸橋で撮影することにした。通過まで2時間以上もあるのに陸橋上には、すでに20名位の人がいた。電車や貨物列車が結構頻繁に通過するので退屈はしなかったが、電車にカメラを向けていた人は殆どなく、貨物列車にも無関心の人が多かった。人それぞれであるが、大半の人は「送り込み列車」の撮影のみが目的なのだろう。通過時刻が近付くにつれて、ますます人が多くなり最終的には80名位になり、パトカーが巡回する始末であった。

 

   翌日上野発の営業最終列車「さよならEF55碓氷号」の送り込み列車

 

                   赤羽駅通過

1月17日(土曜日)

この日は、上野発のEF55の最終日であった。EF55は戦後長く高崎線で活躍し、いわば「高崎線の機関車」であったので、以前から高崎線内で撮影しようと思っていた。(但し高崎線内は逆光)昨日と同じ電車で出発したが駅のホームの端や沿線には早くもカメラの砲列ができていた。どこで降りるか迷ったが、結局昨日と同じ岡部~深谷間の陸橋の反対側から撮ることにした。この場所は光線状態が今一つのため、人出は20名位であった。多くの人は順光で撮影できる信越線内に行ったのであろう。

その後、帰りの回送を撮影するため、信越線に移動した。群馬八幡で降りて、安中方面に歩き、碓氷川の「お立ち台鉄橋」の手前まで行ったが、今一つパッとしないため、結局引き返し、駅の近く踏切で撮影した。また、この日は、総本家青信号特派員さん、ロギング太郎さん、早川昭文さんが安中~磯部間で撮影され、その後、新島 襄先生の生家を訪ねられたそうである。ちなみに私は京阪沿線の中学校の時に「安中教会」と共に学校行事で訪ねている。撮影後、時間があるので久しぶりに両毛線を回って帰ろうと思い、211系5連の小山行きに乗車した。途中の下新田の車両基地には京浜東北線から引退した209系が4連と6連に組み直されて数本停められていた。トイレを設置して107系と115系の置換えに使用されると言われているが明らかにサービスダウンである。小山到着後、日光線の107系を見て帰ろうと思い宇都宮まで行ったが、発車まで30分以上あったので一旦駅の外に出た。宇都宮駅前には、地元資本の関東自動車、東武系の東野交通、JRバス関東の3社の路線バスが乗り入れているが、本数は関東自動車が圧倒的に多い。その関東自動車につい最近まで大阪市内を走っていた大阪市バスが入っておりビックリ。その他、元都バス、横浜市バス、川崎市バス、中扉両開き引き戸の京浜急行バス等が入り乱れて走っており、バスの博物館の様相を呈していた。話が横に逸れるが、7年位前は、関東自動車に元京阪宇治交通、東野交通に元京阪バスがおり、宇都宮駅前に両車が並び、樟葉の駅前のような光景が見られた。バスに見とれているうちに暗くなり、日光線は諦めて通勤快速で帰途に就いた。

         在りし日の思い出の高崎線を走る  岡部~深谷間

 

             折返しの回送列車   群馬八幡

1月18日(日曜日)

いよいよ営業最終日となり、赤羽をいつも電車で出発した。何処で撮影するか迷ったが、光線状態等を考慮し、安中~群馬八幡間の「お立ち台鉄橋」にした。今日は総本家青信号特派員さんが来られている筈で、高崎駅到着直後に携帯に電話すると「今コンコースにいる。同じ電車に早川さんと山川さんも乗っている筈」とのこと。エスカレーターを上がると特派員さんがおられ、暫くすると早川さんと山川さんとも合流することができた。満員の横川行(107系2連)に乗り、安中で下車。かなりの人が降りたが、行き先は全員「お立ち台鉄橋」である。約15分歩いて到着すると、既に150名位の物凄い人であったが、撮影場所は確保した。10時50分、定刻に営業運転の最終列車が通過した。上りの回送列車は、新島学園の先で撮影しようということになった。ここから現地までは4キロ以上の距離があるが、喋りながら歩いていると時間の経過を忘れてしまう。15人位の先客がいたが、なかなか良い場所であった。エンジン付きのパラグライダーで空から撮影していた人がいたのには驚いた。やがてDD51の引く回送列車の最後尾のEF55が目の前をゆっくりし通り過ぎて行った。

駅に戻り、「碓氷峠鉄道文化村」に行かれる、早川さん、山川さん、総本家青信号特派員さんとお別れして帰途に就いた。

久しぶりに皆さんと一緒に撮影して、楽しい一時を過ごさせていただき、時計の針が40年前に戻ったような日であった。 

             群馬八幡~安中(通称お立ち台鉄橋)

 

          安中~磯部間を行く最終営業列車の回送

かくしてEF55の「さよなら運転」は終了したが、自分でも不思議に思うくらいに拘った。昭和61年7月、営業復活運転の初日に撮影したことが原因かも知れない。

EF55に続く後ろの客車がいただけなかった。茶色の客車が既にないのならば致し方ないが、スハフ32、スハフ42、オハ47、オハニ36が現に在籍しているにも拘らず、12系が使用されたのは残念であった。昨今の諸情勢を考慮すると、安全性の見地から仕方がなかったのかも知れない。

EF55は、今回の復活運転に際し、大宮工場に入場して相当なお金と手間ひまをかけて整備をしており、このまま鉄道博物館に入れてしまうのは実にもったいない。もし、可能ならば、旧形客車を引いた元気な姿を再度見たいものである。

[番外]西北の杜号

平成5年3月7日早稲田大学鉄研の創立40周年記念列車で、上野~水上間を往復した。全区間EF5869が引き、高崎~水上間は先頭にEF551が連結された。編成は次の通りである。

←水上 EF551EF5889 +スハフ322357+オハ472261+オハニ3611+オハ472246+オハフ332555 (EF551は高崎~水上間のみ)

                  新前橋~群馬総社

掲示板記事が『レイル』に載る!

このたび発売されたプレス・アイゼンバーン『レイル』67号に、当クローバー会の重鎮、藤本哲男さんによる「法勝寺訪問記」、「山陰本線の客車たち」が24ページに渡って掲載されています。
特集テーマ「米子」にちなむ掲載で、「法勝寺」は昭和42年の自身の訪問記が記され、「客車」は山陰本線京都駅に出入りした客車が、藤本さん独自のカメラアイで綴られています。
「法勝寺」と聞いて思い出すのは、この掲示板に載った藤本さんの法勝寺の記事、そう、事の発端は、この掲示板を見ていた出版元のM氏が、須磨の老人を通じて、原稿依頼されたのが真相なのです。掲示板もクローバー会だけの連絡網でないことを改めて実感しました。趣味界のオピニオンリーダーもしっかり閲覧しているのです。
この出版の話を聞いたのは、先日、信越線へEF55の撮影に藤本さんと同行し、列車の通過を待っている間でした。鶴首して待っていた特派員は、昨日書店で発売を確認、値が張って普段は立ち読みで済ますものを、真っ先に買い求め読みふけりました。特派員も同じ年に法勝寺を訪れており、たいへん懐かしい気持ちでした。
同誌の「あとがき」で客車の例をとらえて、M氏は「日常のこまめな記録の成果」と述べています。事実、掲載されている客車は因縁のある車輌ばかりで、相当通い詰めなければ撮れないものばかりです。このスタイルを小学校の時から貫いてきた藤本さんは膨大な記録をお持ちです。掲示板でもすでにお馴染みですが、さらに出版界でもその一端が窺い知れたのです。

買って読もう『レイル』67号

 

DD16とEF55 そしてまたもや江若

       ぷるぷる様

EF55とDD16の完成ご同慶の至りです。DD16は私も多分同時期に買って いまだに完成しておりません。この調子でゆくとレールの上を走る日は来ないような・・・。    EF55もみごとな出来栄えで 工場長の力量に感服しきりです。あの台車を自作する元気は私にはとてもとても・・・。昨今は 度々この掲示板をにぎわしております江若鉄道シリーズの粗製乱造の一環として 先日キハ07キットの改造でキハ5124が一応出来上がり、現在キハ12にかかっているところです。特にキハ12は あの独特のマスクに手こずりました。屋根の曲げに失敗し、たたいて直しているうちに戦災復旧の70系客車のようにボコボコになって これからゴマカシ修理が必要です。これが終われば 次には仕掛かり中のオハ27 3両を完成させて復活シリーズは小休止しようかと思っていた矢先、Yahooオークションでキニ9のエッチング板が手に入りそうなので キニ9までやっつけようか、さりとてあの多くの窓抜きはうんざりだし・・・といったような具合です。そして車両復活はこれぐらいにして いよいよ高島町駅の復活に手をつけようかとネタ集めをしております。先輩諸氏からのアドバイスのおかげで まず日野BT31バスの図面ができました。そのうち 初めてのバス製作もやってみようと思っているところです。ジオラマ製作は全く経験がなく、わからないことだらけだけに かえって楽しい時間が過ごせそうです。それでは 橋本工房さんのご盛況ぶりに刺激されて当方も工場長の尻をたたくことにします。                         

守口の廃車体 ほか1点

拙老の投稿に早速反応があり、気をよくした老人は時間に追われ多忙中(極めて稀にそんな時もある)にも拘らずいそいそと次なるスキャンに取り掛かった。今度は住宅でなく、京阪守口にズラリ並んでいた廃車体である。番号は控えてあるが、二重三重に記されたものもあり、落書き?と思しきインチキ番号もあった。禿筆を以っていい加減な事を書くより、解説はそれこそ乙訓老人の出番であろう。撮影は1955年9月22日。

もう1枚。これは京阪と全く関係がないが、1958年3月27日伊田、ハ2618だったと思うのだが、こんな廃車体があり、半世紀たった現在でも印象深いので押し付けご紹介に及ぶ。これは2本通ったロッカーレール(縦梁)のみが鋼材、端梁は木材で、車体は鋼材上に根太を組み、隅柱、間柱を立て、その上部は長桁で押さえ、と全く当時の木造建築物同様の構造車体である。廃車時売れる鉄は外し端梁を残したが、その高さ分下に古枕木でもかましておけばいいものを、宙ぶらりんにしたから、当然ながらかくも見事に湾曲した、と推定。ごく当たり前の、但し屋根は食パン風ダブルルーフ(雨漏防止で多少加修している)の側戸式3等車である。

客車住宅

拙老も撮っています。時は1957年3月6日、場所は名鉄大江の近辺。バックの架線柱は名鉄常滑線です。大江にズラリ並んだボギー、2軸、木製半鋼製車の一群はかつて諸兄のお目を汚したことがありますが、その際行きがけの駄賃で撮影したナハ22802(仙ココ)の車体ハウスです。当時60系鋼体化改造の種車(といっても使うのは台枠と台車、連結器のみ)にするため、国鉄は全木製車を現車調査し、車体はその程度をAからDまで4段階に評価。Aが最もいいもので、妻面に丸で囲んでA、B、C、Dと白ペンキで記入していました。この住宅の妻にはBとありました。決してスラムではなく、周囲も住宅?自体も綺麗に保たれているのがお分かりでしょう。

かような住宅代用は電車もバスもあり、路面電車廃止時期には各地で幼稚園や公園の自治会集会所等に足を外した車体が流用されていたのは周知の通りです。国鉄では食堂や倉庫、組合事務所にもいっぱいありました。しかもスチーム地域暖房(そのエネルギープラントは蒸機のボイラー)が行き届いていたものも少なくありません。大和鉄道では電化・改軌で不要になった日車製単端式ガソリンカー車体が住宅になっていた由で、その住宅模型を作った奇特な人もいました。

拙老はその時期佐竹先輩とせっせと情報を交換し合い、かような「ハコ」―といっても主目的は旧2軸客車や雑型ボギー車ですが―を撮っていました。

工房便り–EF55引退報道

 

完成間近で後回しにされていたEF551

完成間近で後回しにされていたEF551

橋本工房では昨年末にデナ21が完成間近となり、後回しになっていたDD16が完成に近づきました。しかし、なぜDD16を着工したのか工場長の私も良く分かりません。後回しになるのはどこか面倒な工作を残していたり、パーツの入荷待ちとか、単なる気まぐれのこともあるでしょう。そんな話は良くあることなので工場長としては全く気にしていませんが、入場中の車両が引退となると心穏やかでは居られませんね。

このEF55もあまり多く工作を残していないのにいつの間にか片隅に追いやられていました。懐かしい鉄道模型社製のバラキットで、流線型の前頭部と後部運転台の妻部分は銅の電鋳品です。前頭部はあまり出来の良い鋳物ではない上に両サイド、ボンネット、前面窓、屋根と、5つに分かれており、組み立てた後、曲げ済みの車体中央部に合わせるのに苦労しました。台車枠はエッチング抜きが不正確で使い物にならず、1mmの厚板から自作しました。動力装置は天賞堂製で、EF58の動力装置を取り替えたときに発生した旧品を流用しています。 

何も未完成のままでご紹介する必要も何もないのですが工房便りが暫く途絶えていましたので、このような理屈をつけてご笑覧いただくことにしました。これも気まぐれと言うことでお許しの程を。下の写真は1972年頃しなのマイクロ社から発売のエッチング板キットを組み立てたものです。当時はこういった手がかかるけれど安価なキットが結構売られていて制作に熱中したものでした。2両分買った内、1両は作られずに永い間眠っていたもので、動力装置もそろっていたのが幸いしました。エンドウのDD13用を小改造しています。

完成に近づいたDD16だが、細部に工作間違いが発覚し手直しを迫られている

完成に近づいたDD16だが、細部に工作間違いが発覚し手直しを迫られている

「汽車住宅物語」という写真集をご存知ですか

汽車住宅物語の表紙

汽車住宅物語の表紙

K.H生さまへ

大分交通の客車住宅の写真を見て、「汽車住宅物語 / 乗り物に住むということ」という小さな写真集が書棚にあるのを思い出しました。渡辺裕之著   1993年3月30日発行の INAX ALBUM No.13   A5版48ページの写真集です。終戦直後の住宅難の時代に客車や電車の台車を外して 住宅や教室に転用した風景の記録です。ナハ22000の車内を4世帯の住宅にした平面図もあります。表紙だけをスキャンして添付してみました。 ご興味があれば お知らせ下さい。小さな本ですので、簡単に送れますので お貸し致します。

記憶の中の京阪電車 Ⅲ

京阪電車について過去2回書込みをしたが、よくよく考えると当クローバー会には、乙訓の長老を筆頭に京阪に超詳しい諸先輩方が多数おられるし、また、同社の元役員、社員の方、現役の方も多数おられるため、私如きが出る幕はないが、まあ8年間も乗っていると、たまには、珍しいこと、思いもかけないことに遭遇するものである。そんな思い出等をあと少しだけ書込みしたい。

1900の試運転

1900については、小林純爾氏が「青信号」やJTB Can Books「京阪特急」の中で詳しく解説されておられるので今更という感じであるが、昭和39年3月23日に撮影した「試運転」の写真が出てきた。1950+1913の2連が枚方市を発車したところであるが、周りの景色も何処となくのんびりしている。

 

 

706と並んだ1950

1800の急行

新1900形と交替して1800系はロングシート化され、一般車となったが、塗装は暫くの間そのままであった。1803-1881+1804は最初からロングシートで作られ、主に急行に使用されていた。

 

1809他5連の急行   昭和41年2月19日     丹波橋

 

最初からロングシートの1804  昭和41年2月15日     丹波橋 

スカートの無い2200

2200を初めて見たのは、昭和40年1月8日、3学期の始業式の日のことである。この日は授業がなく午前中に自宅に帰れるので、午後は京都駅で臨時列車の撮影を計画していた。電車が深草を通過した時、東側の留置線に停まっている車両(2205+2255)を見て、昼食もそこそこにカメラを持って深草に引き返した。最初見たときは2000と変わらないと思ったが、初めて営業運転で見たときスカートが付いていたので、逆に吃驚した。

 

 

昭和40年1月8日  深草

宇治線の300形3連

昭和39年頃の宇治線の朝ラッシュ時は殆ど300形3連であった。六地蔵辺りで満員になり、桃山南口、観月橋では超満員、ただでさえ小さな木製車体ははち切れんばかりであった。特に着膨れシーズンともなれば車掌さんは正に命がけの勤務であった。

 昭和39年3月20日  中書島

1000系5連の急行

昭和39年頃、1000系もよく急行運用に入っていた。この編成は中間に1200形を挟んだ綺麗な貫通編成であるが、それ以前は500形がよく入っていた。 

 

昭和39年11月3日   滝井

過渡期の1000形

1000形と1100形は運転室側にジャンパ線がなく、編成の中間には連結できなかったが、運用上不便なため昭和40年頃からジャンパ線の取付け工事が始まった。写真の1005は、準備工事としてジャンパ線の取付座が設置されたところである。

編成の先頭の1204は正面の窓枠がアルミサッシ化され、貫通扉が金属製のものに取り替えられている。

 

昭和41年1月15日  丹波橋

天然色写真で巡る40年前の九州 (10)

最後は筑豊本線

九州の締めは、また筑豊である。九州に入ってまず筑豊で撮り、夜行を駆使して九州各地を転戦したあと、最後は筑豊へ戻ってくる。「筑豊に始まり筑豊で終わる」である。
そのメインラインである筑豊本線、勾配区間で狙うなら、筑前内野~筑前山家間の冷水峠を置いて他はない。両側から25‰勾配がサミットとなる冷水トンネルまで続き、多くの列車に補機が付く。旅客列車では、普通列車の大部分がC55の牽く客車列車である。白眉は、朝に峠へ向かう急行「天草」である。先頭はDD51であるが、飯塚~鳥栖間には、D50またはD60の後補機が付く。
この列車は、筑豊本線経由で熊本へ向かっている。つまり博多を通らない急行列車である。距離だけで見れば、博多経由より若干短いのに加え、沿線の直方、飯塚の下車客の配慮もあったのだろう(当時、博多~飯塚間の篠栗線は全通していない)。今のように博多に一極集中している列車体系からは考えも付かない設定である。

加えて、当時の特急「かもめ」でさえも、小倉で長崎・佐世保編成を分割、長崎行きが鹿児島本線経由、佐世保行きが筑豊本線経由で運転され、両者が再び合流する原田~鳥栖~肥前山口では、2列車が10分の違いで雁行していた。

DD51が牽き、D60が押す「天草」。客車も興味深い編成(昭和44年3月22日)

さて、峠近くの高台から「天草」を迎え打ったのが上の写真。右に見える青年は? なにを隠そう40年前の特派員そのものである。当時は、モノクロとカラー、2台のカメラで写していた。モノクロは手持ち、カラーはヘナヘナの三脚に据え、レリーズを押して写していた。本人を避けてカメラを据えたつもりが、しっかりと画面に入ってしまったという次第。
並行する国道は2、3年前までは未舗装だったが、改良工事で車線も広げられて舗装された。その際に真っ白なコンクリートで山肌が固められてしまい、随分様相が変わってしまった。
いっぽう、貨物列車は、飯塚に集結した石炭列車は、若松や苅田港へ送られるので、この区間を通ることはないが、それでも一時間に一本程度は上下列車が通過する。まだD51はごく僅か、ほとんどがD50、D60だった時代である。

大型の門デフを付けたD5090が、菜の花畑の横を下って行く

 

須磨浦公園で見つけたロープウエィ

新春に走る583系(京都車)の臨時列車を迎撃しようと友人と語らい、
須磨浦公園へ来ました。 動画で撮影しましたので、
http://www.ec583.org/~y_square/temp/tetu290104.htm
にて
ご覧になれます。 ところでロケハンの途中で、こんなもの ↓ を見つけました。

駆動装置は山上に設置されている様で、峰には中間鉄塔らしき構造物が
遠望できます。砂防ダムの建設資材の運搬用に設置されたと思いますが、
人間は乗せず、資材を引き上げたり伐採した樹木を下ろしたりするもの
でしょう。施錠されているので近寄って見られませんが、まだまだ現役の
様にも見えます。

カゴの上部(油溜め?)の縁には「一 コケ」なんて表記もあります。
詳細をご存知の方、フォローを頂ければ幸いです。