京都市電写真展のWeb記事ご紹介

先に総本家青信号特派員様からご案内があった、7日から開催されている京都市電写真展の話題が、京都新聞のWeb「まいどなニュース」で紹介されていました。昨日私も行ってきましたが、懐かしい写真に加えて、記念切符等、貴重な資料を見ることができます。その中で、京都から大阪行きのバスが結構な頻度で走っていた時刻表も展示されていました。子供のころ大津から大阪内本町行のバスが走っていて、そのバス停が自宅近くの国道1号線にあったのをぼんやりと覚えていましたが、なぜこんな路線があったのかと思っていました。この時刻表を見ると、京都発着のものの内、一日4本が浜大津まで延長されていたことが載っていて、長年の疑問が解決しました。

写真展は明日まで開催されます。Webの記事は下記からご覧ください。

桜と共演の路面電車や、葵祭とすれ違う電車も 京都市電の懐かしの写真が一堂に(まいどなニュース) – Yahoo!ニュース

 

 山科人間国宝、マルーンさん、IMUBUSEさんら     続々ご来場!

 

新緑が鮮やかになってきた高瀬川には野鳥も飛来する。今日は、サギがギャラリーの横に来て写真を見学(?)

京都・高瀬川畔の「京都市電写真展」、昨7日(水)から開いています。さすがに平日、まだ媒体での告知も少ないため、一般のご来場は少なく、大部分が顔馴染みの方ばかり。まったりとアノ話コノ話をしながら時は過ぎていきます。昨日はINUBUSEさんが、出張の途中にご来訪、居合わせた初対面の模型ファンの方とは一時間も話し込む熱の入れよう、“つぎはマツモトへ行く”と行って去って行かれました。今日は、2階で弁当を食べていると、下から懐かしい声が聞こえてきます。そこに、あのマルーンさまのお顔が。勘秀峰さんと三人で話に花が咲いていました。会場からの窓辺の眺めを見て「逆瀬川より、高瀬川のほうがエエ」と誉めていただきました。そして、ひと息入れた頃に、なんと山科人間国宝ご夫妻がご来訪。奥さまからは「伺います」とは聞いていましたが、まさか人間国宝さまも来られるとは‥。会場はバリアフリー構造ではないため、苦労の末に会場に入っていただきました。“私が最初に好きになったのは京都市電でした”と小学校の時、市電に乗って通学したこと、中学になると、市電+国鉄の定期を使うようになって、京都駅で撮影したことの思い出など聞かせていただきました。この時期だからこそ、メールやラインではなく、実際に会ってマスク越しの会話の楽しさを改めて思いました。

京都市電の時はまだ生まれていなかったと言う女性のお客様も熱心に見学。▲▲佐竹さんからは、小さい頃の京都市電の思い出をお聞きしました。

明日9日(金)は、クローバー会行事の見学会も予定しています。また皆さんとお会い出来ること、楽しみにしています。

 京都市電写真展、7日(水)から開催します!

高瀬川の桜はまだ咲いています!そのたもとで、京都市電写真展「春、そして夏へ~四季をめぐる京都市電」を7日から開催します。

 

デジ青掲示板の読者の皆さまには急なご案内ですが、-本日7日(水)から5日間、写真展「春、そして夏へ~四季をめぐる京都市電」を開催します。

2021年4月7日(水)~11日(日)11~18時(ただし10日(土)は15時から開場します。ご注意ください)

「高瀬川・四季AIR」京都市下京区西木屋町通仏光寺下る天満町456-27

(河原町通仏光寺を東へ、一筋目の細い道を南へ、数軒目左手)

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湯口さん、米手さんの写真に 感謝の言葉を頂きました

デジ青に掲載された写真が、思わぬところで社会に役立っていることは、以前に「伝言板」で“社会に貢献デジ青写真”として、私の仲介例として3回にわたって紹介しました。そのうち2月9日付の①では、埼玉県の大森一史さんが著わされた「参宮線六軒駅構内列車脱線転覆事故 機関車乗務員無実の証明」に、デジ青に掲載された、亀山機関区に裁判証拠物件として置かれていた、湯口徹さん、米手さん撮影の六軒事故機C51の写真(左)が掲載されたことを記しました。その大森さんから先日、一度お会いしたいと連絡があり、新たな調査研究で九州へ行かれ、埼玉へ戻られる途中に京都で下車していただき、本日午前にお会いしてきました。

大森さんは、私と同じ生まれ年の70歳で、東武鉄道東上線の運輸運転部門ひと筋に来られた方です。修学旅行の途中に事故で犠牲になった東京教育大学付属坂戸高校の慰霊碑に、偶然に出会います。事故は、下り快速の前補機C51203の機関士の信号見落としが原因と結審し、機関士は禁固刑に服し、その後亡くなられ、言わば、動かすことのできない過去の歴史に疑念を持ち、事故の真相を究めたいと、事故現場の六軒はじめ、三重県下の各地を実に20回に渡って調査、取材されました。事故の当事者は、ほとんど物故されていて、墓碑銘を調べるため、墓をひとつひとつ調査されたり、事故当時の出発信号の見え方を検証するため、事故と同じ日、同じ時刻に現場に立つなど、たいへんなご苦労をされて、著書をまとめられました。

本日、大森さんにお会いして話を聞くなかで、単に文字で著わすだけでなく、湯口さん、米手さんが撮られた事故機の現役時代や、亀山に置かれていた事故後の写真が、本書の重要な訴求となったと力説されました。デジ青のなかで、お二人の写真を見つけたときは、感動で震えが止まらなかった、この写真で本ができる確信を持ったと言われます。改めて、写真の持つチカラを思うとともに、貴重な写真を投稿してたいただいたお二人に対して、感謝の言葉を申し上げます。

 宇治で京都市電トーク 改めて奥山先輩をしのぶ

本日、宇治鳳凰ロータリークラブからお招きを受け、例会で卓話(スピーチ)を行いました。このロータリークラブには、二人のクローバー会メンバーがおられます。一人は、「おられました」と言うべきですが、昨年、旅立たれた奥山直秀さん、もう一人は吉田冨夫さんです。その奥山さんから、卓話の依頼を受けたのは、もう一昨年のことになります。当初は昨年3月の予定でしたが、ちょうど、コロナ禍の蔓延がはじまった頃で、集まりも延期、その後、再開の依頼があったものの、再び事態が悪化して再延期となっていました。そんななか、奥山先輩が、9月にお亡くなりになられると言う、信じられないことになりました。直前まで、電話や手紙をいただき、延期になったことを丁重に詫びていただいた矢先のことでした。

そして、ようやく事態も改善の兆しを見せて、今度は吉田先輩のお世話で例会に招いていただき、卓話をすることができました。テーマは“京都市電”として、30分の限られた時間でしたが、カラー写真をご覧いただきながら、皆さんの前で思い出を語りました。宇治市の集まりではありますが、皆さん何かしら京都市電に関わりがあるようで、“北大路テストを受ける時、初めて市電に乗った”とか“運賃は13円やった”など、懐かしい話を聞かせていただきました。吉田先輩には今回お世話になりました。そして、奥山先輩の優しい心遣いを改めて思いました。

奥山さんが2018年のクローバー会写真展に出展された「夏の思い出」、夏空のもと宇治川橋梁を渡っていく103系、本日、奈良線ではまだ103系が頑張っていたが、宇治川橋梁は、複線化の工事が進んでいて、このような風景は過去のものとなった。写真展のキャプションには次のように書かれていた。「真っ青な空、湧き出る雲、清流の宇治川を渡って行く 103 系電車は、宇治の代表的な光景 だった。まもなく見られなくなることを思うと、いっそうの思いが込み上がる。奥山直秀」。

 あの感動をもう一度 限定 早いもの勝ち!

このたび勘秀峰さんと組んで、高瀬川畔で京都市電の写真展を行うことになりました。その詳細は、先に伝言板で勘秀峰さんからお知らせしたとおりで、期間中、クローバー会行事としてギャラリートークも行います。そして、もうひとつ、期間中に講演会も開催します。講演者は、一昨年のホームカミングデーでお話をしていただいたJR東海相談役の須田寬さんです。須田さんならではの深い知見は、われわれに深い感動を与えてもらいました。このたび、つぎの日程で、再び須田さんからお話を聞く機会を設けました。

「須田寬さまに京都市電の思い出をお聞きする会」

日時 4月10日(土) 12時30分までにご集合ください 14時30分ごろ終了予定

会場 高瀬川・四季AIR (京都市電写真展と同じ会場)

参加費 資料代として500円を徴収させていただきます。

ただ、会場が狭く、ほかの参加希望者もおられますので、クローバー会の枠が3、4名程度しかありません。

心苦しいのですが、ただいま午後0時から先着順で受付いたします。ご希望の場合は、コメントに投稿ではなく、福田まで直接メール dkcwi802@gaia.eonet.ne.jp

でご連絡ください。折返し詳細を連絡します。早いもの勝ちです!

2019年11月ホームカミングデー 須田寬さん講演の様子

 

江若鉄道開業100年

1921年(大正10年)3月15日江若鉄道の三井寺-叡山間が開通しました。ちょうど100年前の今日のことです。滋賀県の湖西地方に鉄道を建設することは、住民の長年の夢でした。江若鉄道の建設については、その株式を沿線の市町村に割り当て、多くの住民がその株式を購入しました。自分たちの鉄道という意識が強かったのでしょうか、1969年10月31日に廃止となった後も江若鉄道への思慕の思いは強く、その節目ごとに当時をしのぶイベントが開催されています。当会の西村雅幸氏が造られた浜大津、三井寺下、白髭などのジオラマが展示された大津市歴史博物館の特別展などは記憶に新しいことでしょう。一昨年の廃止50年の際にもミニ展示が行われたのですが、残念ながら開業100年に当たる今年はコロナ禍の影響もあるのか、イベントの話は聞いていません。ただ先日会員の方にも協力いただいた旧近江今津駅舎保存運動など、みなさんの記憶にはまだまだ江若鉄道という名前は残っています。私はかろうじて廃止の前年くらいから撮影しただけですが、最初の始発駅であった三井寺駅(大正14年に三井寺下と改名)、三井寺下機関区を撮った写真を載せてみました。

↑ 浜大津側から三井寺下駅ホームを見る。浜大津から来た線路は大きく右にカーブし、ホームの一部はカーブしていました。 続きを読む

京阪大津線オリジナル塗装の終了

先の京津線800型のオリジナル塗装の終了に続いて、最後まで残っていた709+710が2月3日を最後に運行を終了しました。若草色と青緑のツートンカラーで、物心ついてからずっと長年なじんでいたこの色がなくなるのはちょっと寂しいものがあります。ここ何年か何かの記念と称して塗り替えられた車両もありました。これらを浜大津交差点付近で撮った写真をご紹介します。

何年か後に復刻色として、この若草色と青緑のカラーに塗り替えられた車両も走ることがあるのでしょうか。↑ 2012年9月26日より大津線100年記念として旧特急色に塗られた600型、2016年3月21日まで走りました。

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 さよなら 近鉄特急色 〈6〉

近鉄特急色を見直す

しつこく同じテーマのことを書きますが、これで最後とします。私が近鉄特急色について、強く印象に持ったのは、中学生の頃に読んだ鉄道ピクトリアルで、「電車の色いろイロ」と題した、東京大学の学生が著わした記事がありました。昭和38年のことで、暗色の時代から、湘南電車、101系、こだま型と、カラフルな電車が続々と出現していますが、主流は上下二色塗りで、そのほとんどは、窓廻りはクリームなどの明色、下部は暗色に塗られています。

たしかに安定感のある塗り分けではあるのですが、窓部そのものは暗いため、窓周辺を明るく塗ると、視覚的なバランスを欠くと指摘しています。逆に、窓廻りは暗色、下部を明色にすると、暗い窓部が同化して一体感、軽快感が出るとしています。その代表が「こだま」であり、私鉄では、近鉄の新ビスタ101100系が挙げられてていました。特に新ビスタは、斬新な外形とあいまって絶賛されていました。当時のピクと言えば、電車の性能、来歴などの小難しい記事ばかりでしたが、はじめて外部色に言及した内容で、近鉄特急色が中学生の心に残ったのでした。今までの紹介は広軌線ばかりだったが、狭軌線の南大阪・吉野線にも近鉄特急色が走っている。いちばん華やかなのは、何と言っても𠮷野の桜が満開の頃だろう。山全体がピンクに染まった𠮷野駅、16000系が花見帰りの満員の客を乗せて発車して行く。 (2003年4月)

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 さよなら 近鉄特急色 〈5〉

塗装変更された ほかの特急車(1)

「近鉄特急のイメージが大きく変わります!」と近鉄がニュースリリースを配信したのが2015年11月でした。汎用特急のうち、主力の22000 系86 両の車内設備をリニューアルするとともに、カラーリングを変更し、クリスタルホワイトに、ブライトイエロー・ゴールドを加えた新塗装になるという内容でした。最初のリニューアル編成は、まもなく営業を開始し、22000系以外の汎用特急についても、同様のカラーリング に変更しますとも添えられています。しかし車齢の高い12200系だけは、このリニューアル、カラーリング変更の対象から外れ、将来、廃車となる予告がされたことを意味しています。今回は、12200系以外で、同じ近鉄特急色をまとっていた特急車両を見ていきます。12410系が山間部を行く。33パーミル区間を、異形式を連結した長編成が弓なりになって高速で駆け上がるのも、近鉄特急ならではの魅力。三本松(2002年3月)

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新型気動車登場!

今日、梅小路公園を散歩中、鉄道博物館駐車場に「新型気動車」が停まっていました。ナンバーが東京だったので「JR東日本」の所属?らしいです。
その写真がこちら!

キニ3321

種車はホンダの軽四輪。
型式他、この表記にはいろいろご意見があるのでは?ご同輩!

 さよなら 近鉄特急色 〈4〉

ギラリの12200系

先回も書きましたように、明日30日(土)から、近鉄特急の運休本数が一段と増加し、土休日は半減となります。改めて、明日からの時刻表をネット眺めると、京都~奈良特急は、奈良8:28発、京都17:30発のたった一往復だけ、難波~奈良は、完全運休のグレー色に塗りつぶされています。平日も運休が多く、残っていた12200系の活躍も、おそらく本日で終了したのではと推測します。

12200系の近鉄特急色も天候や時間帯によって、印象はさまざまに変化します。なかでも、私の好きなのは、夕方の斜光線に、オレンジ色が輝きを増す時間帯です。文字どおり、12200系が輝いていた時代でした。

 

 

 

 

 

ギラリを撮るのに、いちばん適した区間は、鶴橋~今里~布施の複々線区間だ。何よりも本数が多いから、スポットな時間帯でも、うまく列車が来るし、上本町・難波行きは、どの季節でも、真正面に陽が当たる。鶴橋(2002年11月)

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広島短信(続報)

先日、旧芸備鉄道の面影を残す西三次駅が取り壊される予定との新聞記事を転載しました。今朝の中国新聞朝刊にも、再度関連記事が載りましたのでご紹介します。

令和3年1月29日 中国新聞朝刊

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広島短信

広島市は一時 準非常事態宣言対象地域になりかけましたが取りやめとなり、その後少し落ち着いてきています。とは言え油断大敵と私は巣ごもりを続けております。今朝の中国新聞朝刊に芸備線西三次駅に関する記事が載っていましたので、ご紹介します。

令和3年1月26日 中国新聞朝刊

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 さよなら 近鉄特急色 〈2〉

12200系の行くところ

最近の情勢を踏まえて、鉄道各社では、優等列車の本数削減、終電の繰り上げなどが行われています。近鉄でも、一度リリースがあったあと、昨日、特急に関しては、さらに踏み込んだ運休計画が発表されました。なかでも驚いたのが、土・休日の特急半減です。土・休日の特急運転総数446本のうち222本が運休と、文字どおり半分が運休です。身近なところでは、観光乗車の多い京伊12本→6本運休、京橿56本→22本運休はまだしも、衝撃的だったのは、京奈61本→59本運休と、一日たった一往復の運転に。さらに阪奈に至っては、32本すべてが運休と、奈良線の土・休日は特急ゼロ線区になってしまいます。

ここ数年、近鉄特急の乗車率の低下は、身を持って体験していますが、いくらコロナ禍と言っても、これほどの運休とはホントに衝撃的でした。「当分の間」と書かれていますが、もう完全に元に戻らないのではと危惧します。それだけに、満員の乗客を乗せて、近鉄特急色の12200系が縦横に走り回っていた、つい最近までの状況が、もう何か遠い別世界のように感じられます。今回は、いかにも近鉄らしい風景とともに12200系を見ていただきます。

薬師寺西塔を見て、橿原線西ノ京付近を行く。西塔は昭和の再建だが、朱塗りの仏塔のすぐ近くを12200系が行くのは、いかにも奈良らしい光景。一角だけ田んぼが残っていて、真横から撮れたが、いまは大部分が駐車場に変わってしまった。

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 さよなら 近鉄特急色 〈1〉

12200系

久しぶりに気合いを入れて(?)投稿します。すべての活動が止まってしまった、この時期ですが、鉄道界では春のダイヤ改正に向けて静かな進化を続けています。身近な関西私鉄で見ますと、京阪(新)3000系の「プレミアムカー」、近鉄「ひのとり」増備などが目玉でしょうか。私など「プレミアムカー」も「ひのとり」も乗ったことも無いのに、もう増備が完了です。不透明な時期にも、つねに前を向いて進む鉄道事業者には敬意を表します。ただ、その影で、消えていく風景もあり、京阪、近鉄とも親しまれてきた塗装が見られなくなりそうです。

近鉄では、特急の主力車輌として活躍してきた12200系が姿を消すことになり、同時に、近鉄特急の象徴でもあったオレンジと紺の旧塗装が消えてしまうことも意味しています。まだ正式なリリースはありませんが、2月12日のダイヤ改正で姿を消すようです。この塗装の起源は、昭和33年、世界初の二階建て電車10000系ビスタカーだった。オレンジとダークブルー(当時の呼称)に塗られ、ブルドッグノーズの強烈なスタイルとともに近鉄特急の地位を確立した。最初は、窓部をオレンジ、上下がダークブルーだったが、新ビスタカー10100系に合わせて、逆転させて現在のような配色になった。以来、多少の濃度を変更をしながら、60年以上に渡って、近鉄特急を象徴するカラーリングになった。大和八木(2002年3月)

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阪和電鐵全通90周年企画展

冬季企画展として下記のような展示会が行われます。自宅待機のお触れがでている時節ですが、阪和線支線の鳳~東羽衣の乗りつぶしも出来ますのでいかがでしょうか。
東羽衣で南海電車に乗り換えて汐見橋線に今のうちに行っておくのもよろしい。
冬季企画展 1月16日~3月28日
泉州を貫く軌跡ー阪和電鐵全通90周年
大阪府立弥生文化博物館
JR阪和線信太山(しのだやま)駅600米
通信員高齢のためチラシの添付はできませんので、おのおの方で検索いただき詳細をご覧ください。
お詫びとして復刻版の阪和電鐵封筒をご覧いただきます。郵便番号が五桁のころに手に入れたものです。大阪の終点は阪和天王寺駅で四天王寺の五重塔も描かれてるのに、南側近くに隣接の大阪鐵道(今の近鉄南大阪線)の終点あべの橋と印刷されてるのは何故でしょう。