三江線と乗降場

三江線の廃止問題が島根・広島両県の地元での大きな関心事となり、地元紙面では毎日何かの記事が載っています。すべてデジ青に載せるのは大変なので控えていますが、JR西日本と地元が存廃を一旦白紙にして協議を始めることになったとの記事が載りました。そもそも高齢化、過疎化が進む中山間地における公共交通機関とはどうあるべきなのかという難問ですから、いくら白紙とは言え そう簡単に答えが出るとは思えませんが 今後の動きを注視してゆきたいと思います。

平成28年2月7日 中国新聞朝刊

平成28年2月7日 中国新聞朝刊

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2年半ぶりの水島臨海鉄道

久しぶりに水島を訪ねました。行きがけにJFE福山に立ち寄ったのは前報通りです。初めて訪問したのはDRFC現役時代の昭和44年で、まだ倉敷市営鉄道と呼ばれていた時代で、中国鉄道や芸備鉄道の買収気動車がまだ現役でした。以来4回訪問し、今回が6回目の訪問です。水島コンビナートの貨物輸送にも支えられ 旅客列車も数多く走っていて比較的元気な非電化私鉄です。以前は国鉄からキハ10やキハ20が入線し活躍していましたが、近年キハ30やJR久留里線で活躍していたキハ37、キハ38が入線しているので近況を見たくて訪ねてみました。

キハ37103 平成28年2月6日 倉敷貨物ターミナル駅(機関区)にて

キハ37103 平成28年2月6日 倉敷貨物ターミナル駅(機関区)にて

平成25年に老朽化したキハ20などの置き換え用としてJR東日本からキハ30やキハ37、38が6両入りました。キハ37101,102は水島臨海色に、キハ37103とキハ38104は国鉄色に塗られています。キハ37のトイレは閉鎖されているそうです。

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またしてもJFE福山

昨年9月以降4回にわたってJFEスチール福山製鉄所の専用線についてレポートしました。本日は水島臨海鉄道訪問のついでに立ち寄りましたので変わり映えしませんが、ご覧下さい。撮影場所が非常に限られたこの専用線ですが 今回は工場の出口で待ち受けることにしました。昨年10月3日 63884で山の上から見下ろした様子をご紹介しましたが、今回は同じ場所の線路ぎわです。

平成28年2月6日 7:49  工場出口の門は閉まっている

平成28年2月6日 7:49  工場出口の門は閉まっている

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乙訓の長老様へ

乙訓の長老様、
ご投稿の中に、関三平先生の「昭和の電車」についてのご質問がありましたのでお応えします。

一昨年の5月に投稿した「遠州鉄道モハ1」の文末に産経新聞社からプレゼントのお知らせと、作品に関しての告知がありました。但し、小さい囲み記事でしたので見落とされたのでしょう。もう一度載せますのでご覧下さい。なお、プレゼントは終了しておりますのでお買い求め下さい。

遠州鉄道モハ1(文)_NEW

名鉄3780系

名鉄は我が人生の中で最も縁のない大私鉄です。東京への行き帰りに名古屋近郊で見かける程度の関係でした。DRFCで八百津線の廃止前に乗りに行ったのが最初で、その後は無縁です。ですから何も言う知識はありませんが、こんな色をした電車があったのでしょうか?名鉄はオレンジバーミリオンという色をしているとしか記憶が無いからです。

名鉄3780系_NEW

備後路の117系

都落ちした117系が山陽路で115系に交じって活躍しています。私はあまり電車を撮らないのですが、何かのついでに撮っていた数コマをご紹介します。

平成25年3月25日 福山駅にて

平成25年3月25日 福山駅にて

福山駅の上りホームに停車中の福山発岡山行き快速サンライナー3726Mです。うしろの福山城は桜の名所で お花見用の提灯が見えます。

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国鉄117系

この記事は1月21日に掲載されていましたが、関先生からお手紙が来たという連絡を受けたので投稿を控えていたものです。
先生からお許しが出ましたので投稿いたします。

さてこの117系にはいささか思い出があります。記事によると昭和54年の登場とか。ちょうどこの頃から大阪へ行くのは京阪を使うことが多くなり国鉄に乗る機会は無くなりました。でも見ることは多く、113系の通勤電車タイプとは異なる新快速専用のクロスシート車に憧れていました。この電車に乗ったのは遙か後の、DRFCクローバー会で名鉄に乗りに行った帰りでした。木目調の落ち着いた車内になぜか納得したのを覚えています。最近では緑坊主となって湖西線か草津線を走っているようです。

この絵は遠くに阪急の特急らしきものが描かれているので大山崎近辺と思われるが、いかがでしょうか?

国鉄117系_NEW

今冬の撮影

早いもので今日は立春。昨日は豆まきで鬼の役をやられた方もおられたのではなかろうか。今年は暖冬でスキー場がまいったようであるが、このところ雪不足も解消してきたようである。このような中、老骨に鞭を打って近くなくなる津軽海峡線の主に特急列車等を日帰りで撮影してきたので退屈しのぎに御覧いただければ幸いである。

2016.2.1 蟹田-中小国 4011M函館行き「Super白鳥11号」789系6連 ▼s-16.2.1蟹田1334

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夢を追った人にあやかる

関さんがデジタル元祖青信号に登場したのは2010年11月8日だそうだ。それも京阪1900型を背負っての登場であった。どうやらデジ青には京阪電車に関心を寄せているマニヤが大勢いるようだと思って配慮されてのことなら嬉しい。ところが新聞登場は11月8日より以前の事らしい。でも藤本君と老人が名指しされたのは「あたり!」である。DRFCでは京阪と阪急を巡ってはクラブ創設当時から両電鉄を対象に口角泡を飛ばして論争と言えばおこがましいが、ののしり合いがあったのは事実である。その根源は、戦争中の統制で京阪が阪急に合併させられたが、戦後の分離にあたり阪急側が手前味噌を並べて新京阪線を併合したことに端を発している。分離後の京阪電鉄中堅社員からも愚痴を聞かされた結果、阪急は「こすい」となったのであろう。このようなことが拡大してクラブを2分しての罵り合いがあったのは紛れもない事実である。

関さんは限られた鉄道のデッサンだけではなく、広く日本全国の電車を取り上げていらっしゃるのは、それだけ津々浦々を歴訪されたのではないかと推察している。老人はそれにあやからせて頂いているのである。中には雑誌で見ただけのものもあるが、その時はあんな電車が走っているのかとなり、夢の中身は一段とさえるのであります。

話変わって老人は関さんより2学年先輩となりますが、貴兄の母校である京都工芸繊維大学の事を今も覚えています。生家が下鴨であった、洛北高校卒業生と言ったことだけではなく、老人の兄は工繊の建築科1953年入学です。同級生に寺内信(まこと)さんがいらっしゃり、大変な鉄道ファンでした。兄は4年で卒業しましたが、寺内さんは新設の大学院に残られ、後には大阪工大の教授になった方です。老人の中学時代に鉄道車両のイロハを教えてくれた方でした。貴兄が工芸繊維大学在学中、寺内さんは院生だったと思いますがご存知ありませんか?大阪人でとても気さくな方です。意匠科と建築科は製図室が隣り合わせであったと記憶しています。両学科はとても仲良しで、寺内さんや兄を探しに行ったときは両実習室を覗きに行きました。

ところで貴兄の電車の作品集が出版されているようですね。昨2日に丸善じゅんくで探そうと思い尋ねましたら定休日の札があり、すごすごと帰宅しました。正確な書籍名を教えて下さいませんか、ブックファースト桂で申し込みます。

老人は京阪馬鹿と名乗り関西鉄道研究会で1987年、てっちゃんに復帰しました。関東人に馬鹿とはなんだ、ふざけるな、と言われて馬鹿をひっこめました。幼いころから「アホ馬鹿、すっぽん、まぬけ」と言い習わしてきた関西語です。この言葉には凝性(こりしょう)という意味も含まれているようです。京阪凝性よりバカの方が語呂よしと思ったのですが・・・。ところで老人は現在「新京阪沿線の住人です」。住家を向日町に決めた時、「裏切り者!」という怒声が当然飛んでまいりました。

ところでクローバー会役員さん、関さんの席を用意して下さるようにお願いします。デジ青の愛読者です。コメント会員として自由にあやからせていただきましょう。

関三平先生からお手紙が・・・

先日、奈良の駅名研究家氏からメールで、「大学のBOX宛で関三平先生から米手先輩に封書が来ています」と連絡が来ました。ついに来るものが来たか!と召集令状を受け取ったような感慨を持ちました。
関先生の新聞に連載されている「昭和の電車」シリーズをデジ青に掲載していることを知られた先生から「著作権の侵害だ!」とお叱りを受けるものと覚悟をして手紙の転送を待ちました。

現会長は米手作市なる人物が誰かを知らず、尋ね廻った様子で、手元につくまで二週間を要したことになります。また、文面を拝見したら昨年にも送られたそうなのですが、昨年は私には連絡が無く、一年の延着となってしまいました。重ね重ねの失礼をしていたわけです。

さてお手紙を恐る恐る開けて拝見しますと、なんと関先生は当初よりデジ青の記事をご存じで、乙訓の長老や藤本氏などの投稿を詳しく読んでおられたようなのです。
「昭和の電車をデジ青で取り上げて頂き、”その筋の権威”の方達の解説・・・コラムに書く前に知っておきたかった事が一杯・・・京阪を採り上げる時には怒られへんやろかとビクビクしつつ・・」などと書いて頂いていました。(下記原文参照)
つまり抗議のお手紙では無かったのです。
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2016台湾の旅(後編)

 打狗鉄道故事館はMRT橘線終点の西子湾駅の2番出口を上がったすぐのところにあり、旧高雄港駅で、開業時は打狗駅と言う名前であった事から打狗鉄道故事館と呼ばれています。一昨年ぶんしゅう様が行かれた後、2014年4月19日に新しくDL2台、貨車1台が展示されました。
IMG_4538k▲林口発電所で使っていた1970年日立製HG60BB型ディーゼル機関車、動態保存なのか訪れた時はエンジンがかかっていて、2人の係員が何やら触っている。広いヤード跡は緑地になっていてこの日は何かのイベントかタコがたくさん上がっていた。

翌10日は早起きして太麻里に向かいました。太麻里駅で金崙温泉で宿泊して先行されているデカンショまつり号さんに電話して、場所をお聞きし、駅から約30分坂道を歩くと上の方からブギウギさんの呼ぶ声がして、無事に合流することができました。 続きを読む

お引き取り頂ける方はいらっしゃいませんか

湯口も相応の年齢に達し、余命を片手で数えることになり、身辺の整理が必要になりました。ついては本の整理から始めますが、手始めに次のものをお引き取り下さいませんでしょうか。勿論無償ですが、年金生活=かなり生活困窮中ですので「宅急便着払い」でお願いしたいのです。

ネコ社2004~2007年刊、寺田祐一著『消えた轍1~4』1=北海道、2=東北・関東、3=甲信越・東海・北陸、4=近畿・中国・四国・九州

同2010~2011年刊、寺田祐一著『新・消えた轍1~10』1=北海道、2=北海道・北東北、3=東北、4=関東、5=上信越、6=中部、7=北陸、8=近畿、9=中国、10=九州・四国

以上14冊ひとまとめでお願いしたいのですが。

もう1件は交通公社時刻表で、A4版になった最初の1967年から1978年までの各10月号。この12冊もひとまとめでお引き取り下さる方はいらっしゃいませんか。やはり「着払い」でお願いします。

 京都市電 余話 その3

岡崎公園にも京都市電

少し旧聞になったが、昨年12月に京都市左京区の岡崎公園内に、京都市電1800形1860号を改装した観光案内所「岡崎・市電コンシェルジュ」がオープンしたので、本日、午後から見学に行って来た。岡崎地域には、文化・芸術施設や寺社など観光地が集積しているが、今まで観光案内所がなく、情報発信ができていなかった。市電の案内所では、観光客に多くの施設を巡ってもらうためモデルコースなどを提示して、地域内の周遊性を高めようと言うもの。
152sy陽が落ちて、車内灯が洩れると、なかなかのムードになってくる。同志社前あたりで、御所をバックに発車待ちをしているようにも見えてくる。

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撮影地今昔 生瀬・道場間(1)に寄せて

tsurukame氏の廃線跡レポートを拝見して思い出した記事をご紹介します。1968年(昭和43年)11月発行の「鉄道模型趣味 No.245」に掲載された坂本衛氏著「忽川の工臨」という記事です。廃線跡レポートの起点である生瀬駅と一つ手前の宝塚駅の間にあった忽川貨物駅の現地レポート記事です。      最近では砂利を敷かないスラブ軌道という方式もありますが、線路には砂利がつきもので、各地に砂利採り線や砂利積込み設備がありました。川砂利採取が禁止され、砂利採り線は姿を消し、採石場に隣接した砂利積込み設備も殆ど見ることはできなくなりました。この記事は当時各地で見られた光景や工臨列車を詳しく記録された貴重な記事だと思っています。坂本氏や機芸出版社には無断で恐縮ながら、全文をご紹介することに致します。

TMS No.245から引用

TMS No.245から引用

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阪急2800系

2800が登場したのは大学に入った年でした。
高三の昨年、四条河原町延長工事が完成して、大宮から河原町まで特急が京都の中心部を文字通り貫通したのでした。明るい近代的な河原町駅に2800系の特急と、2300系の急行が止まっている様は梅田駅にもまけない堂々たる駅で満足したのを思い出します。
阪急2800_NEW

加太始発列車-1966年7月

デジ青読者の皆様、新年おめでとうございます。本年もどうかよろしくお願い申し上げます。

大晦日発、青信号特派員さんの『初の加太行き』を拝見しました。記事に加太始発列車の話題が出てきました。これに即座に応じるのが加太会員とばかりに早速用意しました。ただご覧の通り、雨の早朝とは言え、かなり下手くそな写真です。新年早々ご辛抱下さい。

特派員さんご想像の通り、亀山からD51のバック・プルで加太に到着。駅上りホームの西側に入線、客車を解放後、駅南のポイントから、上り本線を通り、亀山 方向に向かい、駅北のポイントでバックして、再び客車最後尾(加太に来る時)に連結すると言う段取りでした。駅員2名が信号手を努めていました。1966年7月24日でした。

▼機D51841【竜】駅南側ポイントから上り本線を順行、ホームを通過して北側のポイントに向かうところ
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都電荒川線に新車登場

8902-3 27-10-18
8901と8902の並び/(H27-10-18) 荒川車庫

秋から冬にかけて都電の新車8900形が4両(8901~8904)登場した。
平成21年から22年にかけて登場した8800形(8801~8810)に比べると、スッキリとした直線的で、中々感じの良いスタイルである。
性能的には60kwの主電動機×2、WNドライブ、IGBT-VVVFインバータ制御と8800形と変わらない。
オレンジ色の8901、8902が9月18日より、ブルーの8903、8904がそれぞれ12月8日と9日から営業運転に就いている。
また、来年早々にもローズレッドの8905、8906、イエローの8907、8908が登場する予定である。
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生き残った田園鉄道は弘南鉄道

三山電鉄紹介後、間をおいて山形県電鉄訪問記を果たし肩の荷が下りたようだ。1959年東北旅行はこれよりバックオーライで青森県に移ろう。福島、山形から仙台を経て北上が一気に十和田に跳んだ結果、林檎の国での電車訪問記となった。理由は後で明かすとして、ノート中心に「急電101号」、ピク誌「私鉄車両めぐり」を脇に置いて話を続けよう。

弘前には9月21日、盛岡16時03分発DC準急「八甲田」で20時42分到着となった。弘南鉄道には、昭和17年3月南海電鉄に併合された加太電鉄の車両が譲渡されていると奥野師匠に教えられ、どんな電車が走っているのか楽しみであった。翌朝、国鉄弘前駅の跨線橋を下りると木造客車改造の制御車を連結した編成が停車中であった。平賀車庫で書類や図面を閲覧している間に晴天はどこへやら、暗い画像もありで申し訳ない。撮り損なった車両は高松で見つけた同型車で補うことにさせて頂く。弘南鉄道は昭和2年9月7日、弘前~津軽尾上間を蒸機牽引で開業した。昭和23年7月1日に電化(DC600V)された。さらに路線延長を進め、黒石まで延びたのは1951年7月1日、これが現在の営業路線となっている。その後、架線電圧は昭和29年4月1日に750Vに昇圧された。

京都から追いかけてきた甲斐あり、加太電車はこれ!

京都から追いかけてきた甲斐あり、加太電車はこれ!

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