イラストの電車が、どちらも同じグループだとは知りませんでした。
中学時代、叔父が甲子園口に住んでいたので休みによく行きました。家の前が線路で、夕方は枕木の柵の間から顔を出すと、夕焼けを背景にして喫茶店の扉がついた電車が走ってくる。魅力は入り口ごとについたステップの車幅灯の列。飛行機が飛んでくるような錯覚が楽しくて、いつまでも眺めていたことを思い出します。
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第67回企画展【船と鉄道】、高松市歴史資料館
今年も四国善通寺へ行った。目的は87歳の義兄の話相手になり、昨年知った善通寺市観光交流センターが「戦前の琴参電車」の写真所蔵を知り、それの複写許可であった。
出発は6時54分、郵便局前からバスでJR長岡京に向かった。7時7分快速に乗車、高槻7時27分新快速に、姫路到着するやそば一杯、9時10分普通に、相生9時33分西行普通の座席争奪戦はなかった。岡山10時53分快速に、11時45分高松到着で4時間38分の電車の旅となった。趣友K氏に電話したところ土曜サービス出勤で瓦町駅14時30分の出会いとなる。時間つぶしは電車に限ると、昨年は志度線往復だったので今年は長尾線とした。抹茶ドーナツとアイスコーヒーの昼食となったのは、「さぬきうどん」がない琴電高松築港駅だからだ。
京急黄色い電車
京急はその走りっぷりから「赤い稲妻」と言われているかどうか定かではないが、本年5月1日から「黄色い稲妻」イェローハッピートレインが走り始めた。既に趣味誌やデジタル情報でご存知と思うが、INUBUSEさんの[47966]「あじさいの花咲く世田谷線」へのコメントでその黄色い電車について言及したところ、「(まだ見ていないので)お目にかかりたいものだ」とのリプライをいただいたので早速発表する。運行状況については京急案内センター(03-5789-8686平日7:30~21:00、土日祝9:00~17:00)で教えていただける。なお、京急には「青い稲妻」ブルーインパルス、正式には京急ブルースカイトレインもあり、昨年撮影の京王井の頭線の紫陽花電車と共に関連投稿した。
2014.6.16 新馬場(新馬場のホームで撮影するも列車の位置は800m先に見えている青物横丁との中間である) 快速特急青砥行き 1064~1057(アルミ車8連) ▼ 続きを読む
保存蒸機とその現役時代(29)
近鉄モ400型+特別付録
あじさいの花咲く世田谷線
梅雨の晴れ間の東急世田谷線 先月藤本先輩と写しに行ったとき「あじさい」はまだつぼみでしたが 6月13日にもう咲いているのではないかと思い立ち行ってみました。朝からきれいな青空で、宮の坂駅の「あじさい」はきれいに咲いていました。
宮の坂駅ホームからの写真です。車両は300形306号でレリーフイエロー 世田谷線はすべて300形で10編成すべて違う色となっています。中でも黄色のこの編成は「幸せの黄色い電車」と一番人気の車両のようです。
宮の坂から下高井戸方面に歩き途中たくさんの花が咲いていましたが 山下–松原間でもきれいに「あじさい」咲いていました。 続きを読む
ハルカスその後
お久しぶりです。あべのハルカスも全体開業後は大変な混雑ということで展望台まで行く気は起きなかったのですが先日決心して行ってきました。金曜日の午前中ということもあり、日時指定の入場券をゲットしていましたので待ち時間なしですんなりと入場できました。これまではハルカスを見上げていましたが今回はハルカスから見下ろした写真を紹介します。全てガラス越しとなりますがこれは仕方ないですね。まず東側から下を見ますと、JR環状線・阪和線・大和路線・近鉄南大阪線が全て見渡せます(当たり前ですが)。JRの3線の繋がりが一目瞭然です。
三江線 全線復旧へ
昨年8月の豪雨で大きな被害を受け、現在代行バスが運行されている江津・浜原間は、7月19日に運転再開の運びとなり、陰陽連絡線が1本復活します。今朝の中国新聞の記事をご紹介します。
神足 早暁
梅雨入りし、早速大雨が来襲した今日この頃であるが、昨年のこの時期に総本家青信号特派員さんがデジ青に[34990]「梅雨の晴れ間は近場で撮る<2>」と題して地元長岡京付近をの早朝に走るスーパーレールカーゴ(SRC)を発表された。その際に私も当時は神足であった長岡京に住んでいたことがあり、夜明けの列車を撮ったことをコメントしたところ、それなら載せよと言われ、本日総本家さん投稿と同じ6月8日に拙作を投稿させていただいた。何れも神足(現長岡京)~山崎間での撮影である。
最も早い時間に撮影したのは富山21時40分発の寝台急行「金星」で大阪着は5時である。神足は4時半頃に通過、後部に3両の2等座席指定車を連結している。
西武鉄道 モハ241に寄せて
モハ134+クハ1217/ (42-7-22) 彦根
彦根のお寺でゼミの勉強会があり、始まる前に鉄鈍爺氏と北陸線の田村~坂田間で撮影し、その後彦根車庫を訪れた時に撮影した。
「昭和の電車」は、路面電車が6回続いた後、鶴見臨港鉄道の4扉車、国鉄クモハ32と続いたので4扉車が続くのかと思いきや予想に反して遠州鉄道モハ1が登場した。
その後は東武鉄道デハ5、今回の西武鉄道モハ241と続いているので、今後は戦前の古豪が順次登場するのかも知れない。いずれせよ今後の展開が楽しみである。
田野城会長が「近江鉄道に移籍してからの姿が見たい」と言われているので取り急ぎ記述した。
車両についての解説は、関 三平氏が記述されておられる通りであるが、少し補足すると昭和3年川崎造船所で新製され、当初の車号はデハ5561・5562、サハ5661・5662で、旧西武鉄道を吸収合併し、新西武鉄道発足後の改番でモハ241・242、クハ1241・1242となった。
以前紹介された近鉄モ5201形(旧吉野鉄道モハ201形)は、この車両の影響を強く受けている。
【19154】全鋼車 近鉄5201系 (https://drfc-ob.com/wp/archives/19154)
【19667】吉野鉄道モハ201形→近鉄モ5201形について(https://drfc-ob.com/wp/archives/19667)
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秀書紹介 和久田康雄さんの労作
鉄道ファンのための私鉄史研究資料
老人は幼い頃から辞典を見るのが好きで、父親の書棚にあったものを引っ張り出し見ていた。ある日、富国房大辞典の中に「地図」と命名されたものを見付け開いてみると、大日本帝国鉄道全図と名付けられた折り畳みのものがあった。開いてみると当時(昭和一桁)の鉄道路線図があり、官設鉄道は黒、私鉄電化線は赤、私鉄非電化線は青で分類してあったと記憶するが鉄道名の記入はなかった。これでは片手落ちで、私鉄名のあらましを知ったのは中学生になってからであった。それは北大路通で始まった夜店に月遅れの交通公社時刻表が並んでおり、それを買って私鉄名と区間がノートに整理可能となった。高校生となり京都鉄道趣味同好会の一員に加えてもらい、奥野さんから年刊書「私鉄要覧」を教えて貰ったのは同志社入学の1957年で、購入すると共に電鉄の項に夢中になった。
1965(昭和40)年春、鉄道ピクトリアル170号(1965年5月号)から【資料・日本の私鉄】の連載が始まった。執筆者は和久田康雄氏である。ピクトリアル誌を購読するようになったのは中学2年、1952年・通巻№.13号からだが、今回の執筆者の名前を誌上で認識したことがない。どのような経歴の持ち主なのだろうかと関心を抱いたまま毎号が楽しみになった。まえがきでは「過去にわが国にはどのような私鉄があったのかということは、これから研究をはじめようとする方や地方に住んで資料の入手の困難な方には、なかなか解り難いことと思われる」。と記されている。安楽マニアを決め込んだ老人にはもってこいの資料となり、日常生活に追われる中で有難く拝読させて頂いた。内容は日本の営業鉄道として馬車軌道から起され、人車軌道、蒸気軌道、内燃軌道、電気軌道、蒸気鉄道、そして内燃鉄道、電気鉄道、特殊鉄道の順であった。掲載は210号(1968年6月号)迄、この間20回に及んだ。
この労作は連載終了と共に冊子となり、【資料・日本の私鉄】と名付け鉄道図書刊行会から上梓された。老人は即座に飛びつきオーム社書店に申込んだ。奥付を見てびっくり、著者は1934年生まれ、運輸省の方で赤門鉄路クラブ会員とある。ありゃ「てっちゃん」ではないか、老人より4歳上のお兄さんで、どんな方だろうか、との思いを持つに至った。上梓された図書には第2部として都道府県別私鉄分布表、年度別私鉄増減表、50音順私鉄名称索引、地方別私鉄路線図、日本の私鉄参考文献が添えられており、中でも私鉄名称索引はとても嬉しかった。
1994年正月、恒例行事となっている老人の生家、京都市下鴨の実兄宅に新年の挨拶に出向いた。杯を重ねるうちに「君らの同好会も認知されたなあ……」と、兄は【私鉄史ハンドブック】を取り出した。「あれ、何処で仕入れてきたの?オーム社書店が店を閉めたのでピクに申し込もうと思っていた」。「暮に梅田の旭屋書店に立ち寄ったら、店頭にあったので買ってきた。知っていたのか?」。「ピク586号に郵便振込みの申込書があり、近く払い込む予定にしていた」。「19ページ冒頭に湯口徹「三菱鉱業美唄鉄道」(急電101)となっているぞ」。以下、湯口兄18、田口4、重沢兄2、沖中16鉄軌道で参考記事枠に名前を連ねていた。
この時のハンドブックは、先に和久田氏が上梓された【資料・日本の私鉄】を推敲されたもので、地方運輸局管内別に整理番号を付与され、当該私鉄の誕生からの経過を辿ったもので、1968年版を更に進化させたものであった。以来、この書は老人の座右の書となり、今日に至っている。また、老人は1988年に日本路面電車同好会に入会、和久田氏がこの会の重鎮である事を知った。
2000年早春、総本家こと福田君共にJTB Can Books「京都市電が走った街 今昔」を制作した。発売されるや和久田氏から来信があった。「27ページ、東山三条西入ルの耳鼻咽喉科は鶴岡医院と思われるがどのような関係なのか、そうであるなら縁類に当たるように思うが……」と。老人はびっくりした。従姉妹である鶴岡夫人に尋ねたら、和久田氏の奥さんが鶴岡先生と従兄弟関係になると教えられた。後に鶴岡先生の告別式で、実兄と共に挨拶に向った。ハンドブックについてはその後、内容についての正誤表、追補を2度に亘り和久田氏から頂戴している。
そして今回【鉄道ファンのための私鉄史研究資料】が電気車研究会から上梓された。氏から「1993年に刊行した【私鉄史ハンドブック】を全面的に書き改めたものであり、その前身は1968年に刊行した【資料・日本の鉄道】であります」、との書状が送られてきた。1968年に刊行された時、「東大在学中で大学図書館に保存されている書類を写し取ったのが最初だ」と、あとがきに記されていた。それから勘定すれば60年余取り組んでこられたことになる。書状には「私自身が今年80歳を迎えたことを祝う意味を込めて……」とも書き添えられている。
さて本書は1882 to 2012年の私鉄が取り上げられている。日本最初の私鉄は日本鉄道1883年3月28日開業で、区間は上野-熊谷(現JR東日本・高崎線)である。最新の開業区間は名古屋市(地下鉄)櫻通線(6号線)2011年3月27日開業で、区間は野並-徳重4.2kmである。関西では阪神電気鉄道(西大阪高速鉄道)2009年3月20日開業で、区間は大阪難波-西九条3.8kmである。これらは1887年の私設鉄道条例、1890年軌道条例に始まり、現今の1987年施行の鉄道事業法に括られた日本の鉄道事業のすべてを収録されたものである。当然のことながらJR旅客鉄道、日本貨物鉄道、第三セクタ-鉄道も含まれているが、JR旅客及び貨物の内容は(省略)となっている。参考文献も私鉄ごとに紹介されており、現今は勿論、後世に名を残す名著として皆さんに推薦させて頂く次第である。
発行所:(株)電気車研究会、定価:本体2,685円+税、書店にない時は申し込めば入手可能である。
老人は体調不良のため皆さんに紹介するのが1ヶ月遅れとなってしまった。乞うご容赦!
阪急51型
C58239 私も撮っていた1969年の勇姿
C58239の現役時代の写真が珍しいそうで、奥山さんとTsurukameさんが撮影された写真が「とれいん」6月号に掲載されて話題になっていますが、私も撮っていましたのでご覧にいれます。
昭和44(1969)年8月18日、688列車を牽引するC58239を茂市-蟇目で撮影しました。
当時、鉄道同好会の同期に「三好茂助」という名前の男がいて、なんとなくついふらふらと茂市で降りてしまったのです。近辺をうろうろしても良い撮影場所がなくて、しょうがなく「C58ばっかりやな」と思いながら撮ったうちの1枚です。総本家青信号特派員さんのおっしゃる「もの好きな?人間」の、奥山さんTsurukameさんに続く3人目ということになります。
このあと、区界に移動し、松草-区界の草原に寝転びながら持参したラジオで第51回全国高等学校野球選手権大会決勝(松山商VS三沢)を聞きました。松山商の井上と三沢の太田との投げ合いで白熱した戦いになり、ついに延長18回0対0引き分け翌日再試合という球史に残る名勝負でした。終盤には、「どちらも点を入れるな、引き分けになれ」と思いながら最後まで聞いたら陽が傾きかけていました。
西武鉄道モハ241系
お知らせ
掲示板への高負荷により昨年末から閲覧数制限が入っていることが判明したため、レンタルサーバ企業に連絡し、昨日規制解除されました。
この度は気づくのが遅れた結果、掲示板利用者の方にご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありませんでした。 管理人 小西
東武鉄道デハ5
クローバー会2014年春「北近畿タンゴ鉄道(KTR) あかまつ・あおまつに乗りに行こう」ツアー開催 次期会長公募について
クローバー会では「2014年春、北近畿タンゴ鉄道 あかまつ・あおまつに乗りに行こう」ツアーを、5月10日(土)~11日(日)の1泊2日にて20名参加で開催させていただきました。当日朝は昨日からの雲が晴れずでしたが、集合場所の西舞鶴駅に着く頃には晴れて、開催2日間は絶好の好天に恵まれました。
西舞鶴10:15(丹後あかまつ1号)→12:51豊岡14:01(丹後あかまつ2号)→15:39宮津
西舞鶴で集合後に豊岡まであかまつに乗車、豊岡では下車して各自で街角散歩。宮津まではコミュータ車に乗車して宮津へと向かいました。
宮津到着後は、KTR本社会議室にて幹部の方々との会合を開催しました。会合では上田清和社長より直々の現在KTRが置かれている現状と、上下分離方式による運営会社公募の結果、ウィラー社を選定した理由説明がありました。
遠州鉄道二俣線
関センセの遠州鉄道二俣線木製モハ1型が出た。この線に関しては乙訓ご老人が、古くは1960年の急電101号に「遠州鉄道二俣線」、その38年後の1998年には「ちょっと電車を見に行こう―元気印の遠鉄二俣電車線」として、鉄道ピクトリアル657号に書いて御座るから、須磨老人の出る幕などない。しかしそれでも1958年に何枚か撮っていることを想い出し、5コマだけ諸賢のご笑覧に供することにする。撮影はいずれも1958年8月3日。
関センセもお書きの通り、この線は大日本軌道浜松支社、軌間2呎6吋の蒸気軌道であった。1919年遠州軌道に譲渡後、遠州電気鉄道として1923年4月1日3呎6吋に改軌・電化されたが、その日で一旦軌道を廃止し、同日地方鉄道として開業という手続きを踏んでいる。1943年遠州鉄道に。
浜松鉄道(戦後合併し遠州鉄道奥山線)とは板屋町で接続し、極度に狭い市街のため国鉄浜松駅には達し得ず、かなり手前の遠州浜松を始点としていた。遠州馬込まで0.7kmを1924年2月1日延長し、2呎6吋、軌道のままの仲ノ町線と接続した。しかし浜松駅とはかなり離れているため、遠州馬込-旭町(浜松駅前だが国鉄駅とは接続なし)間を3呎6吋に改軌しなお馬込は国鉄浜松駅のヤード東端北側で、貨物受け渡しはここでやっていた。
旭町の本格ターミナル化は1927年9月で、晴れて電車が浜松駅前発着になったが、それも一旦東進して馬込でスイッチバックし、改めて西北に向かい、遠州浜松から北東にという運行は戦後も長らく続いた。この区間は30分毎だが、仲ノ町線の単端式ガソリンカーが実に15分ヘッドのため、電車の合間にその0.7kmのみ、日車製双頭スタイル(両方にボンネットを突き出してはいるが機関は1個、当然逆転機あり)30人乗りガソリンカーレカ1が終日ピストン往復していたのである。旭町の新浜松への改称は1953年8月1日で、その後周知のように新浜松は高架化され、馬込での折返しもショートカットで消滅している。
遠州鉄道モハ1
157系「こだま」号
総本家青信号特派員さんがデジ青[47114]50年前の撮影地を歩くー2-で京都駅高倉陸橋から撮影された替えダマ153系「こだま」号を発表されておりました。151系の復旧までのピンチヒッターで153系を12日間使用した後157系が後続の繋ぎで1か月近く走りました。私が157系の「こだま」を撮っていることをコメントに書きましたら、それを載せろとご本人からの要請がありましたので掲載します。代行運転使用日数の差および準急・急行用車両の特急使用ということで記録的希少価値としては153系に軍配が上がりますが、当時既に準急用から特急用にグレードアップして臨時特急「ひびき」に使用されていた157系は151系に近い設備等のイメージもありましたので「替えだま」に続く「似だま」としてコメントし、これも記録として今回掲載しました。撮影は1964年4月24日大阪駅です。▼