札幌市電A830型

大昔、札幌でディーゼルの市電?があると聞いて写真を撮りに行ったことがありました。
なにやらブンブン音ばかり大きな市電だったように思いますが、この市電は覚えがありません。でも、神戸市電に色が似ていたように思います。
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本の紹介

この度、トンボ出版(大阪市中央区森ノ宮中央2-3-1)より「阪神国道電車」(神戸鉄道大好き会)編著が発行された。阪神間は昔から国鉄、阪急、阪神の高速列車が熾烈な競争を繰り広げてきたことで有名であるが、国道電車となるとその存在すら知られておらず、地味な存在であったといえよう。ところが、今回の発行されたこの本は高速列車に見られない路面電車特有の懐かしい風景が随所に展開されており、心を癒してくれる。地味だと失礼なことを申し上げたが、金魚鉢といわれた超大窓の電車は有名であり、この本の主役でもある。

この本の発行にあたり、当会の運営に精力的に活動されている総本家青信号特派員さんが編集を担当された。総本家さんはこれまでも数多くの鉄道書籍の発行に携われ、編集は御手の物であるが、この本でも数々の秀作を発表されている。また、デジタル元祖青信号に山陽電車、大井川鉄道、東北の蒸機、加太越え等の投稿でご活躍のTsurukameさんが国道電車の沿線育ちということもあり、この本の充実により寄与している。

内容は国道電車の歴史、路線図、車両紹介、全停留所の標識と国道線・甲子園線・北大阪線をメインに、阪神本線の支線である武庫川線・尼崎海岸線まで豊富な写真で網羅されている。大都市間の路面電車であったため、桜や菜の花畑、雪景色等所謂自然的な風景写真はないが、六甲山系、芦屋川・夙川界隈の洒落たムード、酒蔵、神社の鳥居、球児あこがれの地甲子園球場、松並木と武庫大橋、尼崎や大阪等の工場群、生活のにおいのする商店街等々、それに阪急神戸線・今津線、阪神本線、国鉄尼崎港線等との出会い、今風にいうとツーショット等独特のシーンが魅力である。加えて雨の夜景、夕景、女子学生、おばちゃん、おっさん等が出てくるし、一部新旧対比写真もある。とにかく見所多く、見て楽しい。また、途中には適宜沿線在住の神戸鉄道大好き会の皆さんの思い出話が挿入されている。西宮戎神社前では毎年本戎の前後に原健三郎元衆議院議長が奉納演説をしていたとか、阪神タイガース虎風荘で素振りをする選手に声をかけたら、掛布雅之選手であったとか、地元ならではの話が面白い。中でもTsurukameさんは超ベテランの部類に属するのか1945年の神戸大空襲の焼夷弾で自宅が全焼されたこと、近くには野坂昭如氏が住んでおられたことなどを披露されている。高齢者の方はご存じの阪神パークレオポンの話も懐かしい。

本の後半部は国道電車廃止直前の写真レポートや79号保存活動で締めくくられている。最近、書店に行くとこれでもかこれでもかと新しい鉄道書籍やビデオが山積みされているが、懐かしい昭和の車両や風景は一服の清涼剤である。若い人にも、今に続く一昔前のを偲ぶことができるこの一冊である。是非、書店に足を運んでいただきたい。

s-国道表

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交通科学博物館で時空散歩

 今月の6日で閉館する交通科学博物館へ行って、展示物の写真を撮ってきた。展示物のなかで以前に見た自転車を撮りたかったのであるが、今回は残念ながら展示していなかった。それでも写真を撮りながらじっくりと見てみるとなかなか面白く、しだいに忘れていたものが思い出してくる。博物館を見ることの意味の一つとしてこういう点もあったと考えさせられる。

 訪れたのは3月28日(金曜日)でちょうど春休み中であることもあって賑わっていた。今回はまもなく閉館するとあって、年配男子がいつになく多く来ていた。そういう私もその中に含まれるのであるが。館内はそんなに展示物が見られないほどの混雑ではなく、いつもの休日に家族連れが少し多い程度でいい雰囲気であった。

交通科学博物館館内

 撮影をしながら見ていくと「あっ、あの時こんなんあったんや」とか「へ~、こんなぐあいになってたんか」というのがある。そういうものを少しばかり。

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元祖馬面電車より物申す

原産地「小倉」では馬面と命名したようであるが、花巻及び京津の地から本家本元として斯様なお名前拝借は威厳に関わるとして、「箱河豚」を常用とされたい。この電車は1956(昭和31)年東洋工機製造であるが、製造所は電気機器メーカーの東洋電機の子会社で、バス車体構造の鉄道車両などの製造は無理ではないかと思われる。ひょっとしてナニワ工機が車体のみ下請け製作したのかもしれない。呉市電1000型はナニワ工機製でバス車体構造とされており、つい先日まで四国松山で3両が健在であったが、今では1両が故郷に里帰りを果たしたと伝えられている。東洋工機の下請け車体製作を関西で知られているのは、和歌山電軌の連接車2000型連接車2編成で、老人がDRFC現役時代、ナニワ工機に御邪魔した際に鋼体製作中であった。それが翌1960年初夏に和歌山で発見、奥野師匠に口止めされた思い出をもつ。

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「箱河豚」は1980年西鉄北方線廃止に伴い土佐電鉄に1両が買われ301号と命名された。土佐電鉄は1971年2月廃線となった下関・山陽電軌のワンマン改造済の軽量車700、800型を購入しており、その前年から土佐電もワンマン改造を国の補助を得て施工中であったが、たまたま「箱河豚」購入年に事業完了、事業継続を一両のために煩雑な申請手続きを要するため諦め、ツーマンカーとして残された。その際、幼稚園通園、下園電車を始めとする貸し切り電車として活用された。それを各社で導入され始めた「カラオケ、ビール電車」に改造することになり1985年夏に竣工した。従来の床に諸設備の配線を、床をかさ上げ、座席は胡坐を掻いても支障ない高さとなった。最初は扇風機搭載であったが後に冷房化された。窓はベネシャンブラインド取り付け、酒の澗とおでん温め装置、カラオケセット、ビール瓶立て等が設備された。

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2007年301号は廃車になり、西鉄沿線の「かしいかえん」に引き取られ保存されている。301号の後継車は607号が引き継いでいるが、本格的な「カラオケ・ビール電車」とはなっていないように思われる。

都電7000形、8000形

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7051と7052の行違い/(47-8-19) 竪川通~大島三丁目

関 三平氏の「昭和の電車」は、地下鉄が3回続いた後、路面電車シリーズになったようである。
次の加越能鉄道デ7050形、鹿児島市電500形に繋がる都電7000形、8000形の解説を試みた。

7000形
昭和28年から31年にかけて93両新製され、年度によりスタイルが多少異なる。
スタイルは正面2枚窓、前中扉と従来の車両とは大きく異なり、中扉の下半分のガラスが近代的感覚を感じさせた。
全車庫に分散配置され、8系統(中目黒~築地)を除く全系統で使用されたため都内各地で見ることができた。
現在も新製車体に載せ替えられた19両が荒川線で活躍している。

土佐電鉄600形、鹿児島市電500形は7000形をモデルに作られた。

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よみがえった大阪顔をした電車の写真

 阪堺電車に鹿児島の市電など大阪顔の原型ともいえる3001型のカラーポジ写真が以前に家を片付けている時に見つかった写真の中にありました。大阪顔の電車の話がでてきたのでデジタル化をしてみることにしました。しかし、ほかの写真(以前公開した加古川線、南海の緑の電車など)もでしたが保管が悪く、カビカビで赤く変色している部分があります。以前と同じように 何とか見入ることが出来るように画像処理ソフトを使用して修復を行いました。修復作業は根気よく、しかも時間をかけてじっくりしなければなりません。この作業はあまり長い時間を続けてすると目が疲れます。よって少しずつしかできません。今回はカビの被害が少なかったので何とか短い期間で2枚の写真が公開できるようになりました。ひどいものを修復するときは1か月以上もかかります。南海電車の写真はとにかくひどいもので苦労しました。

 修復した写真をよく調べてみるとどうも守口で撮ったようです。

大阪市電3001形-1

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三山電鉄の不思議

先日、山形交通三山線の昭和34年9月訪問記を投稿したところ、後追いで廃線になるまでを哲夫君が紹介してくれ感謝している。これで一件落着の筈が、紹介した以外の三山電鉄があったらしいので頭を悩ましている。それは1996年10月に鉄道資料保存会から配本された【日車の車両史:写真集-創業から昭和20年代まで-】に掲載された一葉の写真(下に掲載)とキャプッションなのである。曰く【三山鉄道 大正15年11月 1~3 おとなしいスタイルの路面電車 後の山形交通モハ100形】とある。

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これからすれば、全く異なる電車を見て撮影(再度掲載)してきたことになるので悩んでいるのだ。まして鉄道資料保存会にはクローバー会メンバーが2人いらっしゃる。なにかあれば老人の耳に入ってきそうなものだが、今に至るまで沈黙を守ったままである。

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事の発端は【おとなしいスタイルの路面電車】の窓下に画かれた○の中に山三つがあるようだが、これが基で日本車両鉄道同好部の方がどこかで、ボタンの掛け違いをなさったようである。そこで大正15年11月製の【おとなしいスタイルの路面電車】を、和久田康雄氏の調査資料中心に探してみたのだが、今のところ行き当たらない。何処にあるのだろうか、真相はどうなのでしょうか、デジ青ファンで電車好きでお気づきのお方さま、悩める老人にお教え下さるようにお願いします。

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鹿児島市電500型、600型

路面電車はなんでも人気がある、と思っていましたが、やはり人気者と不人気者があるようで、阪堺電車より加越能のほうに多くの書き込みがあったのには驚いております。折しも梅小路公園には京都市電の展示が始まり、路面電車に話題が集まりそうです。

今回は最南端の市電、鹿児島市電です。
関三平先生によると、市電のデザインには“大阪顔”と“東京顔”があるそうです。
私個人は“京都顔”が一番だと思います。
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万葉線の話題

北陸新幹線を約一年後に控えた今年1014年3月29日 高岡ステーションビル完成に伴い 万葉線はそのビルの一階まで延伸する予定です。昔の風情ある電停も今は無く仮駅での営業となっています。その先の線路も完成しているようで説明によりますと2線での営業となるようです。当日より駅名も「高岡駅前」から「高岡駅」に変更になるようです。3月6日~7日に訪問した時は ビルはほぼ完成していましたが駅前ロータリーあたりは急ピッチでの工事中でした。pict-高岡夜景1005
2014年3月6日の夜の仮駅に停車するMLRV1000形1005号です。雪が残り寒い夜でした。2両分の長さがあり 右方向に新駅への線路が伸びています。通常は1両しか停車しませんが朝の時間帯2両停車することがありますので 新駅は2線となっているようです。

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いい加減な電車の原型の今

45465 「いい加減な電車の原型」の現在の状況をお伝えします。デ7000形の1期車はすでに無く 2期車はデ7012~7023の内7014を除く11両が活躍しています。記事にある写真のデ7013はグリーン系の広告電車で冷房車となり活躍しています。(2014年2月19日)
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デ7000形の仲間のうちデ7022は今年1月27日より「レトロ電車」として運行されています。きれいな外装と共に木材を使った床や椅子テーブル、つり輪など乗ってビックリ 手間のかかったきれいな車内です。(2014年2月19日)
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「レトロ電車」に改装される前のデ7022の写真です。左はデ7019でともに標準色です。デ7000形は全面広告の電車は少なくほとんどこの色です。
(2012年5月12日)

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いい加減な電車の原型

タイトルからどんないい加減さであったか、この電車の原型をお目にかける。最初の7013号は2期車デ7012~7023(1960、1961、1970年・日車本店製)の第一陣のものであるが、これをええ加減に作ったのが加越能に入線したのである。この2期車は1期車7001~7011(欠番7004)と比べると乗り心地の良いものであった。なんでも1期車の台車は都電8000型の軽量タイプの設計をそのままに採用したところ、縦横ともに揺れがひどいものとなった最悪のボギー車であった。老人も最初、びっくりしたのであった。写真2枚目は台車構造が少し見える1期車の写真としたので、構造の一端を知ることが出来ると思う。加越能に来たのは2期タイプで、窓配置はええ加減でも、乗り心地はええ塩梅であった。

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どですかでん氏の話に出てくる庄川ダム建設工事で活躍後、富山と福井に引き取られた電気機関車4両はザリガニ型で、80馬力4個の出力であった。

加越能鉄道デ7050型

この電車は知らないが、加越能鉄道と書かれた観光バスを京都市内でよく見かける。
加賀・越中・能登を中心にした鉄道だろうと推察されるが余り興味がなかったせいで乗る機会はついに来なかった。でも、今の万葉線だと言うことだから、今からでも乗ってみたい。
でも、こんないい加減な電車は一度写真でも見てみたい。
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「出羽三山東麓・電車とバス」に寄せて/昭和40年代の三山線

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羽前高松に到着した朝の3両編成(モハ105+モハ106+モハ111)/(43-8-31)

乙訓の長老より2月17日【44556】にて昭和34年9月15日訪問された時の状況を画像と共に報告いただいき感激している。
電車も貴重であるが、当時のバスの記録は非常に珍しく「超貴重」で本当によく撮影されたと思う。
私自身三山線は現役時代の昭和41年9月2日、43年8月31日、社会人になってから46年5月27日と3回訪れている。

1回目は、上野22時45分発奥羽本線経由青森行(411レ)に乗車、ほぼ全駅に停車し、最終列車、一番列車、朝刊配達等を兼ねた列車であった。
糠ノ目で降りて高畠線を往復後、羽前高松から間沢を往復した。間沢の車庫は電車の停車位置が悪く良い写真は撮れなかった。

2回目は、朝のラッシュ時に羽前高松で三山線と左沢線の両方撮影しようと思い、上野駅21時30分発急行「おが」に乗車、山形で左沢線の初発列車に乗換え羽前高松で撮影した。
両線の発着時刻が接近してあり中途半端な撮影になってしまったが、左沢線、三山線双方の通勤通学列車を撮影した。
その後左沢に行き入場券購入後、羽前高松に戻り間沢を往復して次の目的地尾花沢線に向かった。

3回目は、社会人になってからで、仕事を終えて新大阪20時頃の新幹線で東京に向かい、上野駅23時54発急行「あずま2号」に乗車、福島で奥羽本線初発の普通列車に乗換え糠ノ目で降り、高畠線を往復後三山線に向かったのであるが、ダイヤ改正(改悪)で昼間の運行本数が大幅に減少したため羽前高松での接続がなく、寒河江で降りて駅から少し離れたバスターミナルから間沢行のバスに乗車した。

バスは山形始発でほぼ満席であった。 要するに昼間バスを増発する代わりに電車を減便して鉄道廃止の布石を築いていたのであった。

三山線沿線の乗客の流れは、寒河江、山形に向かっており、羽前高松で乗換えを要する電車より寒河江、山形に直行するバスの方が沿線住民にとっては利便性が高いのも事実で、運賃は羽前高松~間沢間はバスの方が高いが、国鉄に乗り換えると新たに国鉄運賃が加算されることになり、バス運賃と変わらなくなるのと、目的地が駅前ならともかく、市街地に入るとバスはこまめに停車するため、この点でもバスの方が有利であった。

以前梯子付きのモハ103を撮影した羽前宮内で降りて再度撮影する予定であったが、この日は間沢で入庫していたため撮影できず、40分待って電車で間沢に行った。
間沢では前回、前々回とは異なり、車両はまずまずの位置に停まっていた。 長老の解説と重複する部分があるが、訪れた時に在籍した車両を紹介する
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「窓から移した駅と列車」に倣って

総本家青信号特派員さんに便乗して、私も数枚を。
同志社に入学の年、54年前の話です。夏休みに神戸三越のお中元アルバイトを約1ヶ月。それでカメラを買いました。それまでは父親のツァイスイコンを使っていましたが、戦前のカメラは使い難くい代物でした。買ったのはヤシカミニスター、簡易露出計付でして、今もこの露出計は作動していますが、果たして撮影できるかどうか。
さて念願のカメラを手にして出かけたのがこの姫新線。野山で蒸機曳く列車を撮るなど思いもよらず、もっぱら乗り鉄で、窓から、あるいは停車中のホームから撮るくらいでした。00202

▲ 姫新線815レ 姫路駅 機C58258【津】 1960.08.28  00202
8月も末の28日、姫新線-因美線-山陰線-福知山線経由の乗り鉄1日、815レで出発。00203    続きを読む

ドイツ103型電気機関車に寄せて

準特急先輩の103型電気機関車の投稿を拝見して、古い資料を探してみました。コメント欄にも書かせていただいたのですが、1973年2月28日から4月3日まで初めての海外旅行でヨーロッパを廻りました。行きはロンドンに到着、パリまでの数日間はホテルも決まったグループ行動、パリからは、ユーレールパスを使っての自由旅行、3月末にローマの指定のホテルに集合して一緒に帰国するという自由度の高いツアー旅行でした。大まかな旅程は決めていましたが、途中のホテルは行き当たりばったり、トーマスクックの時刻表を頼りにイギリス、フランス、スイス、ドイツ、オランダ、イタリアなどをめぐりました。同行者は鉄道に興味ないので観光地中心の旅でしたが、移動の方法は時刻表を持っている私に任されましたので、有名列車を選んで行程に組み込みました。その中でラインゴールド号にも乗車しました。フランクフルト中央駅で撮った103型の写真が1枚見つかり、これがラインゴールドを牽引していたのかと思っていました。

1973.3.18フランクフルト中央駅の103型

1973.3.18フランクフルト中央駅の103型

ところが資料の中に旅行中のメモ書きが見つかり、それによると乗ったのは、ジュネーブからベルンまでの1時間半あまりの間だけでした。当時始発はジュネーブでアムステルダム行き、バーゼルからドイツに入った列車はライン川沿いにマンハイムからマインツに抜けフランクフルトにはよらず、この写真は後日乗ったラインプファイル号(ラインの矢号)だったようです。

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ドイツ103型電気機関車

デジタル元祖青信号も永く続いており、そのアクセス件数も凄い数に達していると聞いている。デジ青をいつも見ている私の友人で熱烈な京阪ファンからたまにはヨーロッパ物を出してはどうかと言われた。この友人はヨーロッパに関しては右に出る者がいないと言われるほど実力者でファン誌でも度々登場しており、私が今更と思うが約束であるので今回、ドイツ103型電機を取り上げさせていただいた。

当時の西ドイツではTEEの200km/h運転に対応する機関車として103型交流電機を1965年に試作機4両、その後、1970年から74年にかけて量産機145両を製造した。有名な「ラインゴールド」を始め各種優等列車の先頭に立ち、その優美なスタイル、性能から抜群の人気を博した。

1991.8.31 オーストリアウィーン西駅でのEC(EuroCity欧州国際特急列車) 22列車「ヨハンシュトラウス」ウィーン発ケルン行き ▼

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91.8.31ウィーン西1

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