段ボール製D51

準特急様の記事に「門鉄デフを付けた段ボール製D51」の新聞記事、と書いたら「どこにそんな記事があるねん!」と質問がありましたのでURLでリンクを張ります。ごらんください!

http://sankei.jp.msn.com/life/news/140501/trd14050117590015-n1.htm

http://livedoor.blogimg.jp/agricoaqua/imgs/0/8/080618dc.jpg

 

都市伝説だったのか?オレンジ色に塗りまちがえられたクモハ32

 「【46552】昭和45年6月27日 高槻電車区見学会」のなかで「車両班見学メモ」にクモハ32が吹田工場で塗り間違えた話があったことが書かれていました。その後に関三平さんの「昭和の電車」でオレンジ色のクモハ32002が紹介されて、“あれあれあれ”という感じで「【46728】まいど!お騒がせの高槻電車区 クモハ32002の不思議」を投稿しました。この投稿に関して井原、藤本両先輩から貴重なコメントをいただきました。

 さて、「まいど!お騒がせ・・・」に書いてある文章を後で読んでみると、何やらぐちゃぐちゃに混乱していて恥ずかしいぐらいです。コメントをいただいてから、このままの状態にするわけにはいけないのでわかる範囲で調べてみました。まず最初にコメントで教えていただいた電車の所属区と所属区の移動について図解しました。図解してみると淀川の002と高槻の001が交換された形跡が見られないように思いました。そして、オレンジ色のクモハ32は001なのか002なのか、それとも・・・。では、推理をしてみましょう。

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「市電ひろば」保存車両の現役時代

My beautiful picture
 伏見線廃止直後の昭和45年4月4日、鉄道友の会京都支部により505号の「お別れ」と「保存決定記念」乗車会が開催された。大西顧問が支部長をされておられた関係で参加させていただいた。

「市電ひろば」がオープンして、長期間保管されていた7両の市電が展示されたとのことで、まずは素直に喜びたい。
個人的には、横浜市のように保存、展示のみを目的とした施設にすべきだったと思うが、美しくレストアされただけでも有難いと思わないといけないのかも知れない。
505のカフェ、703号のショップ等、展示方法に疑問が残る部分が多々あるが、くれぐれも名古屋の「市電広場」の二の舞にならないようにお願いしたい。

29(広軌1形)
明治45年6月11日京都市営電車開業時に新製された車両で、車体は天野工場製、台車はマウンティンギブソン社製の21-EM、出力は25㏋×2である。
最末期は、九条車庫配置でデッキに折戸を設置して伏見線で使用され、客扱い終了後も架線修理車として使用されていた。
昭和49年頃一時的に他の保存車と共に錦林車庫で保存されていた。

錦林車庫/(49-5-18)
29-2 49-5-18
29 49-5

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窓から写した駅・列車 -番外編ー

総本家青信号特派員さんの「窓から写した駅・列車」シリーズに私も参加させていただく。1964年3月31日早朝のことで日記風の記録が手元にある。それによると前夜宝塚からDF5062[米子]牽引の731列車で福知山に向かい、京都発下関行き817列車に乗りかえて米子に向かった。817列車はC5785[福知山]牽引で到着したが、DF5043[米子]にバトンタッチして残念と記録している。満員の列車なので最後部の便所の近くに陣取ったが、回送と思われるD51254[豊岡]が豊岡まで補機に着いた。

早朝5時30分に米子到着。米子機関区ではD51530、D511044、D511129、C5712、C5763、C57101、C57120、C57165、C51260、48697、78637、C119等を撮影。30分間でそこそこの収穫があった。この頃はとにかくできるだけ沢山の蒸機をカメラに収めるのが目的であった。

米子を6時14分に発車する123Dキハ58系に乗車。この列車は松江から折り返し急行「白兎」大阪・京都行きとなる車両で既にヘッドマークが掲げられていた。

※6時21分荒島駅 1回目の交換列車 松江発122D上井(現倉吉)行きキハ0613単行

木次にはキハ07やレールバスもいたが本線にもこんなのがいて山陰地方は面白かった。▼s-64.3.31荒島キハ0613

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まいど!お騒がせの高槻電車区 クモハ32002の不思議

 以前クエ9300に関して西村さんが投稿された高槻電車区見学会のコメントでクモハ32の写真があったと書き込んだのですが、再び少しばかりお騒がせをしたいと思います。まずはクモハ32002の写真からどうぞご覧ください。見学会で撮影したものです。左側に“茶坊主”でなくて、誰かの腕が写っています。

JPG-高槻電車区クモハ32001

 正面の窓はHゴムに改造されています。写真で見る限り塗色は茶色のようです。ところで関三平さんの「昭和の電車 国鉄クモハ32002号 特別塗装の内勤者」ではオレンジ色をしていたとありますが、「【46552】昭和45年6月27日高槻電車区見学会」で「車両班見学メモ」の解説文の中で次のように書いてありました。

「以前高槻には32001、淀川には32002がいたのですが、吹田工場で32001に間違ってオレンジ色に塗ってしまったため淀川の32002と交換したという話が残っています。」

これによるとオレンジ色のクモハ32は001で淀川電車区にあって、多分片町線で走っていたのではないでしょうか。片町線の旧型電車はオレンジ色であったと思います。ところでもう一両のクモハ32003はどこなのでしょうか。手持ちの「電車ガイドブック」には岡山駅で1962年8月と日付のあるクモハ32001(写真の車番がはっきり見えないが活字として記載されている。)の写真が載っています。モノクロ写真ですが色は茶色のようです。行き先表示から宇野線での運用のようです。どないなっているのでしょか。どなたかこの不思議を解いてください。

国鉄クモハ32002大タツ

奇しくも前回のクエ9400で書き込みがあった、高槻区のクモハ32002が今回の主役。
なお、関先生の絵の左側に茶坊主がちょっと見えています。これもなつかしい!
※関先生の、「昭和の電車」が本になって出版されるそうです。お買い求め下さい。お勧めします。詳しくは記事中にあります。
クモハ32002大タツ_NEW クモハ32002大タツ(文)_NEW

賛書は千秋楽を迎えるのか 花巻電鉄の巻

3月下旬、やっと湯口兄のRM LIBRARY 176 花巻電鉄(上)が ネコ・パブりッシングから上梓された。やるぞ!と数年前、いやもっと以前の資料集め段階から決意を聞かされ続けた著作である。地の利を得ての調査によるまとめ、執筆ならいざ知らず、関西から国鉄在来線で1,050余㎞もある遠隔地の小鉄道、歴史をまとめた賛書である。本来1年前に上梓される筈が「新しい資料と写真が見付かった、ちょっと現地へ行って来るから延期!」と言ってきた。それが大当たりとなって「大枚はたいて行った甲斐があった。創業当時の写真の提供もあった。やっぱり行くものやなぁ」と、言ってきた。そしてボタン桜満開のころ、RM 177(中):中卷が上梓された。期待を裏切らない内容で構成され、彼の拘りと努力に敬意を表する次第である。

勝手な言い草だが、上巻刊行の時に紹介しなかったのは、戦前の車両説明が揃ってから講読された方が、車両発達史は理解し易いのではないかと思ったからである。それほどに車両の変遷は例え極少両数であっても老人にはわからない点があり、過去に説明を受けたにもかかわらず車庫火災のところで行き詰ったのである。それらは2巻揃ったところで解決したように思われる。

湯口兄は以前、デジ青【13832】、【13885】で沿線光景を軌道線、鉄道線に分けて紹介されたが、併用軌道でありながら何故あんな酷いところを走っていたのか、そのなぞ解きは上巻で解明された。法事国家である日本では信じられない話が出てくるが、100年前の日本の片隅では法令を無視、いや誤魔化しがまかり通ったのかと思えるが、弱小資本でありながら鉄道敷設に向けての情熱が然らしめたのであると理解したい。それを追う様に詳細な図面が田舎電車でも整備され、貴賓車まであった話しには「参った!」と敬意を表す老人である。そして連結器の解説は興味深く、さすが軽便の虫ならではの視点である。車体形状、車両性能、車内設備等を中心に特急、急行の速度、サービスの話に傾注していた若いころの老人と、世代が一味も二味も違う世界の人のように、湯口兄は見えてくるのである。

この愉快な細面の電車が走る花巻電鉄は早くから知られていたが、その実態となると創業期の事が謎となっていた。しかし、国鉄花巻駅に隣接して乗り場、車庫があり、関東圏の電車ファンは早くから訪れていた。ところが発表がなかったのはどうゆう事なのか?。DRFC会誌「青信号」5号(1960年2月刊)は湯口兄が表紙絵をガリ切りしている。その絵のモデルとなったのは軌道線デハ5号、木造ボギー車の馬面電車であり、興味をそそる車両であった。その彼に花巻電鉄の事を教えられた老人は1959年9月20日に訪問、在籍車両調査結果を京都鉄道趣味同好会誌「急電」101号(1960年7月刊)に掲載している。この時、午前中は栗原電鉄、午後に花巻電鉄を訪問、車庫で竣工図を見せていただいた。そして軌道線は15円区間往復、鉄道線は35円区間往復乗車している。鉄道線が長いのは車庫でのお勧めに従った迄で、終点花巻温泉でゆっくり温泉に浸り旅の疲れを落とすことができたのであった。大きく円形の立派な温泉建屋は、5年前に浸かった道後温泉とは趣の違ったものとして、今も忘れられない。入湯料は5円とメモがあるが、この頃の京都の銭湯は15円であったが、車庫で「花巻温泉に浸かってらっしゃい」と、木の鑑札を渡され番台では5円となった次第である。思い返せばよき時代であった。

さて湯口兄は5月発刊の下巻で執筆終わりだと言っている。まだ八十路に入っていない、元気をださんかい!と言いたい。でも1979年の「簡易鉄道見聞録」以来35年になり、ホッとしたいのであろう。その気持ちは分かるとして、路傍の草のように鉄道趣味者から取り上げられる機会の少なかった田舎の鉄道を探索して回った話を、恒例行事になったホームカミングデイで、DRFCの後輩たちにしてくれないだろうか。老人も拝聴させて頂きたい。

昭和45年6月27日 高槻電車区見学会

どですかでん様

見学会のときの記念写真をご披露致します。あえて皆様の顔にボカシを入れさせて頂きました。普段乗ることがないグリーン車サロ112のリクライニングシートにうれしそうに座っていますね。ぷるぷるさんの顔も見えます。

昭和45年6月27日 高槻電車区見学会

昭和45年6月27日 高槻電車区見学会

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元祖4扉通勤電車の写真発見

 DRFC現役時代に高槻電車区見学会で救援車となった元祖4扉通勤電車を撮っていました。多分、当時見学会に行かれた方も撮影していると思います。「青信号24号」の活動報告の中に6月27日(1970年)高槻電車区見学会14名参加とあります。

高槻電車区救援車001-1

ところでこの写真でいいんですよね?運転台より3枚目の扉が改造されているようです。電車の詳しいことはわかりませんので先輩諸氏よろしくお願いします。

 

鶴見臨港鉄道モハ220型クハ260型

関先生によると、実際にはこんな編成はなかったとのことですが、何か見たことがあるような編成です。
晩年は高槻電車区にいたそうですから、見たのかもしれません。
どなたか、長老か藤本さんになるのでしょうが解説をお願い致します。
鶴見臨港モハ220_NEW 鶴見臨港モハ220(文)_NEW

保存蒸機とその現役時代(27)

福知山の保存機の展示は一風変わっていた。

これまで見てきた保存場所は公園や小学校が多かったがC5856は福知山駅から徒歩約15分の商店街にあるポッポランド2号館にあり、一種独特の感じがした。

C5856 1939年 川崎製 製番2062

2013.8.30福知山鉄道館ポッポランド2号館展示のC5856▼s-13.8.30福知山C5856
1968.12.21 舞鶴線真倉 938列車敦賀発福知山行き C5856[福知山]▼

s-68.3.21C5856_edited-1

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営団地下鉄6000系(第1次試作車)に寄せて

6000-3-2 25-7-25
         6000-3 + 6000-2 + 6000-1 / (25-7-25)  北綾瀬

「昭和の電車」で地下鉄車両が3回に亘り紹介された。

第1回目は2月4日【43934】営団地下鉄丸ノ内線300形(https://drfc-ob.com/wp/archives/43934)
第2回目は2月12日【44377】営団地下鉄千代田線6000系(第1次試作車)(https://drfc-ob.com/wp/archives/44377)
第3回目は2月17日【44575】大阪地下鉄堺筋線60系(https://drfc-ob.com/wp/archives/44575)であった。
営団地下鉄300形と大阪地下鉄60系は既に廃車になっているが、営団地下鉄(→東京メトロ)千代田線6000系(第1次試作車)は現在も稼働中である。

関 三平氏の解説文中の「イラストは43年の第1次試作車登場時の姿。スカートや帯の塗り方なども独特で、これは後日量産車に合わせて改造されてゆき、3連のまま、支線専用で活用された。」と過去形で記されているのは間違いで、「支線専用で活用されている。」と、現在進行形が正しい。

綾瀬検車区には、代替となる元東西線の05系が待機しており、間もなく関氏の記述が正しくなろうとしているので、乗車、撮影等を計画されておられる方は、至急実行に移されることをお勧めする。

イラストからの変化は、足回りを覆うスカートが取り外されたこと、平成6年に車体更新と冷房改造時に屋根上にクーラーユニットが設置されたこと、大型断面の貫通路が通常サイズになったこと等である。

これまでの経過を簡単に触れると、昭和43年サイリスタチョッパ制御の試験車として汽車会社で新製。車体はアルミ合金製で貫通扉を片側に寄せた大きな運転台窓のデザインは、その後登場した京都市や横浜市の地下鉄車両に大きな影響を与えた。
車号は6001+6002+6003のオールM3連で、東西線で各種試験を行った後、45年千代田線綾瀬検車区に回送された。
その際に6001は電装解除され、車号は現在の6000-1+6000-2+6000-3に改番された。また主電動機は5000系用に改造された。
その後もAVF式チョッパ制御装置、VVVFインバータ制御等の試験に使用された。

54年12月20日より綾瀬駅から綾瀬検車区の手前までの間で旅客営業が実施され、環七通りと交差する地点に北綾瀬駅が開業し、この区間の専用車として5000系3連2本と共に使用されることになった。
平成6年に車体更新と冷房化を実施、平成14年3月23日よりワンマン運転が実施され現在に至っている。
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加越能鉄道デ7000形に寄せて

利用促進看板
のりばの看板は「いい加減な電車」/(15-10-15)

3月10日【45074】関 三平氏の「加越能鉄道デ7050形/なんじゃこりゃの窓配置」(https://drfc-ob.com/wp/archives/45074)、に対して、
西村雅幸氏より翌日3月11日【45082】「いいかげんな電車の現役時代」(https://drfc-ob.com/wp/archives/45082)、
1週間後の18日どですかでん氏より【45381】「いい加減な電車の写真があったちゃ。よかったら越ノ潟へ行ってこられ」(https://drfc-ob.com/wp/archives/45381)、
翌々日の20日乙訓の長老より【45465】「いい加減な電車の原型」(https://drfc-ob.com/wp/archives/45465)、
3日後の23日INUBUSE氏より【45586】「いい加減な電車の原型の今」(https://drfc-ob.com/wp/archives/45586)、と発表が続き、それぞれコメントが寄せられ、一昨年7月13日【21925】「富山地方鉄道クハ91と一昔前の万葉線」(https://drfc-ob.com/wp/archives/21925)、でも触れておりこの電車の注目度の高さが伺える。

以上の投稿と重複部分もあるが、モデルになった富山地方鉄道デ7000形を含めて少々補足したい。

富山地方鉄道デ7000形   7001~7023
原型となった富山地方鉄道デ7000形は、都電8000形をモデルに昭和32年から40年にかけて22両(7001~7023/7004は欠番)新製され、35年以降に新製された7012~7023の11両は冷房改造され、7014以外の10両は現在も健在である。
都電8000形は急カーブでの接触防止のため車体の前後が絞られていたが、デ7000形はそれがないため大きく見える。

デ7001~7006(デ7004欠)が32年、デ7007~7011が33年、デ7012~7015が35年、デ7016、7017が36年、デ7018~7023が40年に作られた。メーカーは全車両日本車輌、制御方式は間接非自動制御、駆動方式は吊り掛け式、主電動機出力は50kw×2である。
台車はデ7001~7011が軸梁式N-102、デ7012以降が通常の軸バネ式(7012~7015/N-103、7015・7016/N-105、7017~7023/N-110)である。

デ7001~7006は59年4月1日、西町~不二越駅前間の廃止に伴い廃車、デ7007~7011は平成5年デ8000形と代替で廃車になった。
デ7012以降は59年から平成元年にかけて冷房化が行われ、引き続き使用されているが、デ7014平成23年新型超低床車T100形と代替で廃車された。
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富山の桜

皆様からの各地の桜便り楽しく見させていただいています。特に早川先輩の写真は相変わらずみごとな作品で感激しています。関東地区の桜(ソメイヨシノ)はすでに散り今は八重桜が咲いています。先週の後半 富山の桜は満開で青空に恵まれた11日は きれいでした。朝の太陽に当たった松川の両岸に植えられた桜と2013年3月製の超低床車T100形T102号です。pict-富山DSC_6590
富山地方鉄道市内線 県庁前・丸の内間です。

ワンコイン桜撮り鉄

つい先日桜の開花状況を聞いたと思ったらもう葉桜の時期。今年は金なし、暇なしで片道ならワンコインで行ける近場の桜に照準を合わせた。

4月1日より路線愛称名が東武Urban Park Lineとなった東武野田線藤の牛島の橋梁を行く8000系大宮行き。60000系の入線で徐々に姿を消しつつある。2014.3.31撮影▼s-14.3.31牛島8460大宮行き

同じ場所での新鋭60000系66607大宮行き。強風吹き荒れる悪天候で川面は波立っていたが、桜は満開真近であったため散ることはなかった。藤の牛島は春日部乗り換えでやや遠いためワンコインをオーバー。2014.3.31撮影▼ 続きを読む

札幌市電A830型

大昔、札幌でディーゼルの市電?があると聞いて写真を撮りに行ったことがありました。
なにやらブンブン音ばかり大きな市電だったように思いますが、この市電は覚えがありません。でも、神戸市電に色が似ていたように思います。
札幌市電A830型_NEW 札幌市電A830型(文)_NEW

本の紹介

この度、トンボ出版(大阪市中央区森ノ宮中央2-3-1)より「阪神国道電車」(神戸鉄道大好き会)編著が発行された。阪神間は昔から国鉄、阪急、阪神の高速列車が熾烈な競争を繰り広げてきたことで有名であるが、国道電車となるとその存在すら知られておらず、地味な存在であったといえよう。ところが、今回の発行されたこの本は高速列車に見られない路面電車特有の懐かしい風景が随所に展開されており、心を癒してくれる。地味だと失礼なことを申し上げたが、金魚鉢といわれた超大窓の電車は有名であり、この本の主役でもある。

この本の発行にあたり、当会の運営に精力的に活動されている総本家青信号特派員さんが編集を担当された。総本家さんはこれまでも数多くの鉄道書籍の発行に携われ、編集は御手の物であるが、この本でも数々の秀作を発表されている。また、デジタル元祖青信号に山陽電車、大井川鉄道、東北の蒸機、加太越え等の投稿でご活躍のTsurukameさんが国道電車の沿線育ちということもあり、この本の充実により寄与している。

内容は国道電車の歴史、路線図、車両紹介、全停留所の標識と国道線・甲子園線・北大阪線をメインに、阪神本線の支線である武庫川線・尼崎海岸線まで豊富な写真で網羅されている。大都市間の路面電車であったため、桜や菜の花畑、雪景色等所謂自然的な風景写真はないが、六甲山系、芦屋川・夙川界隈の洒落たムード、酒蔵、神社の鳥居、球児あこがれの地甲子園球場、松並木と武庫大橋、尼崎や大阪等の工場群、生活のにおいのする商店街等々、それに阪急神戸線・今津線、阪神本線、国鉄尼崎港線等との出会い、今風にいうとツーショット等独特のシーンが魅力である。加えて雨の夜景、夕景、女子学生、おばちゃん、おっさん等が出てくるし、一部新旧対比写真もある。とにかく見所多く、見て楽しい。また、途中には適宜沿線在住の神戸鉄道大好き会の皆さんの思い出話が挿入されている。西宮戎神社前では毎年本戎の前後に原健三郎元衆議院議長が奉納演説をしていたとか、阪神タイガース虎風荘で素振りをする選手に声をかけたら、掛布雅之選手であったとか、地元ならではの話が面白い。中でもTsurukameさんは超ベテランの部類に属するのか1945年の神戸大空襲の焼夷弾で自宅が全焼されたこと、近くには野坂昭如氏が住んでおられたことなどを披露されている。高齢者の方はご存じの阪神パークレオポンの話も懐かしい。

本の後半部は国道電車廃止直前の写真レポートや79号保存活動で締めくくられている。最近、書店に行くとこれでもかこれでもかと新しい鉄道書籍やビデオが山積みされているが、懐かしい昭和の車両や風景は一服の清涼剤である。若い人にも、今に続く一昔前のを偲ぶことができるこの一冊である。是非、書店に足を運んでいただきたい。

s-国道表

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交通科学博物館で時空散歩

 今月の6日で閉館する交通科学博物館へ行って、展示物の写真を撮ってきた。展示物のなかで以前に見た自転車を撮りたかったのであるが、今回は残念ながら展示していなかった。それでも写真を撮りながらじっくりと見てみるとなかなか面白く、しだいに忘れていたものが思い出してくる。博物館を見ることの意味の一つとしてこういう点もあったと考えさせられる。

 訪れたのは3月28日(金曜日)でちょうど春休み中であることもあって賑わっていた。今回はまもなく閉館するとあって、年配男子がいつになく多く来ていた。そういう私もその中に含まれるのであるが。館内はそんなに展示物が見られないほどの混雑ではなく、いつもの休日に家族連れが少し多い程度でいい雰囲気であった。

交通科学博物館館内

 撮影をしながら見ていくと「あっ、あの時こんなんあったんや」とか「へ~、こんなぐあいになってたんか」というのがある。そういうものを少しばかり。

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元祖馬面電車より物申す

原産地「小倉」では馬面と命名したようであるが、花巻及び京津の地から本家本元として斯様なお名前拝借は威厳に関わるとして、「箱河豚」を常用とされたい。この電車は1956(昭和31)年東洋工機製造であるが、製造所は電気機器メーカーの東洋電機の子会社で、バス車体構造の鉄道車両などの製造は無理ではないかと思われる。ひょっとしてナニワ工機が車体のみ下請け製作したのかもしれない。呉市電1000型はナニワ工機製でバス車体構造とされており、つい先日まで四国松山で3両が健在であったが、今では1両が故郷に里帰りを果たしたと伝えられている。東洋工機の下請け車体製作を関西で知られているのは、和歌山電軌の連接車2000型連接車2編成で、老人がDRFC現役時代、ナニワ工機に御邪魔した際に鋼体製作中であった。それが翌1960年初夏に和歌山で発見、奥野師匠に口止めされた思い出をもつ。

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「箱河豚」は1980年西鉄北方線廃止に伴い土佐電鉄に1両が買われ301号と命名された。土佐電鉄は1971年2月廃線となった下関・山陽電軌のワンマン改造済の軽量車700、800型を購入しており、その前年から土佐電もワンマン改造を国の補助を得て施工中であったが、たまたま「箱河豚」購入年に事業完了、事業継続を一両のために煩雑な申請手続きを要するため諦め、ツーマンカーとして残された。その際、幼稚園通園、下園電車を始めとする貸し切り電車として活用された。それを各社で導入され始めた「カラオケ、ビール電車」に改造することになり1985年夏に竣工した。従来の床に諸設備の配線を、床をかさ上げ、座席は胡坐を掻いても支障ない高さとなった。最初は扇風機搭載であったが後に冷房化された。窓はベネシャンブラインド取り付け、酒の澗とおでん温め装置、カラオケセット、ビール瓶立て等が設備された。

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2007年301号は廃車になり、西鉄沿線の「かしいかえん」に引き取られ保存されている。301号の後継車は607号が引き継いでいるが、本格的な「カラオケ・ビール電車」とはなっていないように思われる。