1954年3月 北陸から長野、三重 その4


松本電鉄ハニフ1 国電の始祖とされ現在大宮の鉄道博物館で復元展示

先回が10月14日のアップだから、半月空いてしまったが、その4を続けさせて頂く。

ともかく寒かった長野でのステホは、高校生たる小生に、断固寝袋装備=そのためのアルバイトを決断させたが、その活用は1年後になる。3人はいかに少ない出費で空腹を満たすか談合し、味覚や栄養等を一切無視すれば、食パンが最もコストパフォーマンスに優れることで合意成立。1本を求めて1人が裸のまま小脇に抱え(袋に入れる習慣はまだなく、古新聞で包むのがせいぜい)、篠ノ井線列車で松本へ。先頭の木製客車に乗ったら、これが行商人専用車で、これから稼ぎに行く「ガンガン部隊」=元気で実にたくましい、モンペに地下足袋姿のおばさん・婆さんの意気盛んな一団が、お喋りと情報交換に精を出していて圧倒される。小さくなった3人は無言で食パンをちぎっては食べ、ちぎっては食べ。物理的に腹は満たされるが、バターもジャムもなく、空腹でも正直すこぶるを通り越した、実に不味いパンだった。おばさんの1人が、食パンのみをひたすら食べ続ける若者3人を見かね、確か塩コブか何かをくれたと記憶する。

松本ではまず松本電鉄新村へ。庫内に納まっているハニフ1がお目当てだったが、連結器が外してある。聞けば撮影にやってくる人が庫外に引き出しをせがむのがうるさくて、とのこと。致し方なくそのまま撮影。この車両はその後も保管され続け、半世紀後やっとJR東が引取って修復し、現在は大宮の鉄道博物館にある。

甲武鉄道が買収で鉄道院に引き継がれ、中央線で働いた後客車として佐久鉄道や三河鉄道、信濃鉄道に散っていった2軸電車の成れの果て。このハニフ1は信濃鉄道から1922年松本電鉄にやってきた2両のうちの1両で、甲武ハ9→院デ968→信濃ロハフ1が経歴である。電動車としては自重10.9t、45馬力×2、定員53(内座席32)人だった。写真の反対側妻には出窓様の運転手用窓(ベスチュビユールというのが一般的だが、これは日本での実務家・ファン独特の表現らしい)が残っている。車体は甲武鉄道飯田町工場製である。


松本電鉄デワ2 新村

デワ2は天野工場1918年製、伊那電気鉄道からの購入である。屋根の両端はかつては丸かったらしいが、改造でいかにも貨車、といわんばかりである。


松本電鉄クハ16

クハ16は国鉄クハ29013の購入で、信濃鉄道買収車モハ20003の電装解除・制御車化したもの。諸兄モハ20系というと、ビジネス特急「こだま」の一統か、あるいは阪和電鉄買収車を思い浮かべる方が多いと思うが、初代の20台は信濃鉄道買収車だったのである。

その後大糸南線を「ひと覗き」し北松本区へ。上記松本電鉄クハ16の仲間が一山、元気に働いていた。モハ20、モハユニ21、クハ29が買収後の型式だったが、1953年改番でモハ1100、モハユニ3100、クハ5100の型式になっている。モハユニ3100は後電装を解き、クハユニ7100に。


国鉄クハ5101 北松本

国鉄モハ1101 北松本
国鉄モハユニ3100+モハ1102+クハ5101 松本 1954.3.25 3型式全部が揃った編成 パンタはPS13に変っているが、原型を良く残す

なお前回コメントを2件忘れていた。どちらも北陸鉄道金沢市内線で、2003の方は、画面右側の鄙びた商家にパチンコの看板がある。この当時派手な看板のパチンコ屋もないではなかったが、大方はかような「質実剛健」ぶりで、出玉はオール15(それでも10から15になっていた)だった。勿論玉は自分の手で挿入し、自分で弾くのである。台の後ろには人間1人が通れる隙間があり、アウト玉を人力で台上部に戻していた。それを積み過ぎると台が傾いて玉が当り穴に入りにくくなるそうで、「コラッ、アウト下ろせ」と怒鳴ると、中から「空打ちせんといて!」とやり返す風景が至極当たり前に展開していた(とのことである)。

次の2103の写真も右端に「帰国の皆様 お待ちしていました」との垂れ幕がある。1954年にもなれば、外地からの旧軍人引き上げ(帰国)はほぼ終わっており、残るのはソ連シベリア抑留者であった。日本敗戦のどさくさに、60万人といわれる軍人、民間人をシベリアに抑留し続け、過酷な労働と気候で6万人が死んだ。

これはロシア革命の際、列強各国がチェコ兵救出を名目にシベリアに出兵し、我国も参加。要は露骨な革命干渉だったのだが、わが国も1919~1925年の間に死傷者5,000人、戦費9億円を費やしながら、何一つ得るものはなかった、というのが「シベリア出兵」である。

我国の「シベリア出兵」を深く怨んだスターリンが、四半世紀後その報復に60万人を抑留した、とされている。「岸壁の母」もそうだが、舞鶴港にも、かなり遅くまでシベリア帰りの復員船が到達していた。その名残を伝える垂れ幕なのである。           

43年前の美祢線と大嶺線(1)

 デジタル青信号読者のみなさん、お久しぶりです。
 893-2さん、美祢線の写真をありがとうございます。お陰さまで刺激を受け、43年前を思い出し、投稿しました。小生のホームページに美祢線も掲載予定で、枠を設定しているのですが、現在は東北地方を作成中、それも最近は進捗ままならずの状態、中国地方にとどくのは一体いつ頃か皆目見当もつかない状況です。
 でも、タイムリーなことも必要かと、先にデジタル青信号に投稿することにしました。ご覧ください。

 撮影は、1966(昭和41)年 8月14日、43年前でした。フィルムは TRI-X と AGFA です。

  夏の朝6時前に厚保(あつ)駅から、松ヶ瀬信号所方向に徒歩で南下。線路と厚狭川と細い道路が一体で、奥畑地区まで約1km続く。奥畑に到着した頃、川面の霧がようやく晴れ、早速オール・セキの石灰石輸送列車が通過して行きました。
 先の貨物と、松ヶ瀬信号所で交換した、空車のやはりオール・セキ車、美祢行きが通過。早朝ゆえに蒸気が白い。D51のバック運転です。 
空車の轟音が耳をつんざくばかり。線路脇の狭い空間から風圧で飛ばされそう。       

 約30分後、やはりセキの一辺倒。空は曇り空、熱くなくて助かるがやはり青色でないと。   

 先の貨物と厚保駅で交換した、上り客車。長門市発です。美祢線の客車列車はたったの1往復しかありません。下り列車は夕方6時以降の運行、夏でも撮影は困難でしょう。

 間髪をいれずに、セキと無蓋・有蓋車の混合編成が通過。

ここで、厚保駅方向に戻る。見下ろせる高台を登ったり降りたり。厚狭川と山に挟まれた狭い空間に線路があり、なかなか広く見渡せるところが無い。二つのトンネルに挟まれた鉄橋で撮る。

 厚保駅手前、左のトンネルを越えるとすぐに駅。

駅手前で下り貨物を。  

厚保駅に戻る。藁ぶきの大きな屋根の民家が右に見える。

 戻ったのが丁度13時。この間の7時間で撮影した貨物は上下16本でした。なにしろ6時から18時までの12時間で30数本のセキ・ホキ貨物が通過する幹線です。少し見難いのですが、中国支社昭和41年10月1日改正、41年3月25日補訂のダイヤを掲載します。上下二段に編集ししています。拡大してご覧ください。 

 厚保から、729Dで南大嶺へ、さらに633レで大嶺に向かいました。次回は大嶺駅構内や、ボタ山の写真などをご覧ください。

DD91の取扱説明書

中学校時代 亀岡から通学していた友人が 時々遅刻するので理由を聞くと DD91が故障して列車が遅れたとのこと。DD91はC57と重連で運用されていたような印象があります。ところでこのDD91の取扱説明書の表紙をお目にかけます。残念ながら表紙しかなく、中身は持ち合わせていません。

飛鳥山公園モノレール

7月17日(金曜日)JR京浜東北線王子駅近くの飛鳥山山麓と山頂を結ぶモノレールが運行を開始した。

飛鳥山公園は八代将軍徳川吉宗が享保の改革の一環として桜を1270本植え、江戸の花見の名所とした所である。当時、上野公園等他の桜の名所で禁止されていた「酒宴」が容認されていたこともあり大いに賑わったといわれている。現在も桜の名所として多くの人が訪れ、桜と都電を撮影する人も多い。私も会社帰りに夜桜と都電の撮影を試みたが、露出不足で失敗した。

最寄駅はJR京浜東北線、東京メトロ南北線の王子駅か都電荒川線の飛鳥山停留所であるが、王子駅から歩くと公園が山頂付近にあるため急な階段を登ることになり、高齢者や小さな子供連れの人は大変であった。これらの人も気軽に公園を訪れることができるように東京都北区が国交省の「まちづくり交付金」を活用してモノレールが設置した。ちなみに飛鳥山電停からは階段少し上がるだけであるが、都電は王子駅前を出てJRのガードを潜ると急勾配で飛鳥山に向かう。

モノレールの概要は次の通りである。

(1) 運行者  東京都北区

(2) 形 式  自走式モノレール

(3) 延 長  レール延長48m(傾斜角度24度)

(4) 車両定員 16人乗(座席6人・立席10人)

(5) 走行区間 飛鳥山公園入り口~飛鳥山山頂

(6) 走行速度 30m/分(片道所要時間2分)

(7) 標高差  17.4m

(8) 運行方法 無人運転(押しボタン運転方式)

(9) 運転時間 10時~16時、第1木曜日10時~12時は点検のため運休。

(10)運 賃  無料

(11)メーカー 嘉穂製作所

(12)その他  防犯カメラ車内1基、乗り場2基設置。車いす、ベビーカーも利用可。乗り場にホームドア設置。

メーカーの嘉穂製作所は、7月24日投稿【3734】「1080見学記」で書いた、「1080号機のオーナー企業であった日鉄鉱業」の関連会社で、特殊モノレールのメーカーとして国内外で約150基の納入実績がある。五能線深浦駅近くの「ウエスパ椿山」、北九州市皿倉山展望台、天橋立ビューランド等は比較的有名で、国内のみならず韓国にも相当数が納入されている。

社名の「嘉穂」は本社所在地「福岡県嘉穂郡」から命名されたが、平成18年3月26日飯塚市との合併で消えてしまった。現在の住所は飯塚市大分567番地で、「大分」は「おおいた」ではなく「だいぶ」と読む。場所は篠栗線の筑前大分駅と筑豊本線の上穂波駅のほぼ中間地点である。「上穂波」といえば我々の年代の方にとっては懐かしい駅名ではないだろうか。

飛鳥山公園内には、D51853とかつて荒川線を走っていた6000形6080が保存されており、荒川線の撮影に来られた際には、これらの見学と併せてモノレールにもご乗車いただきたいと思う。

 

飛鳥山公園入り口駅と運転中のモノレール/全長僅か48mのため山頂駅が見えている。

営業案内

 都電を見下ろしながら登ってくるモノレール

間もなく山頂駅に到着

 

山頂駅に到着

 

公園入り口駅に比べるとシンプルな山頂駅

 

標高25.4mの飛鳥山山頂

 

都電6080

 

荒川線で現役時代の6080

 

D51853/角型ドームの戦時形D51であるが、都電共々ここまでの運搬はさぞ大変であったと思われる。

教えて!なんでも探偵団(その2)

藤本先生、解説をありがとうございます。

少しずつ思い出しております。年代は間違えてないようでした。ただ時間に関しては記憶と誤差があります。ご覧のように西を向いている機関車の正面からの光線ですから午後、それも記憶では16時頃だったように思います。ご高察をお願いします。

教えて!なんでも探偵団(その2)

古い写真を整理していたらこんなモンが出てきよりました。

これはなんでっしゃろ?撮ったのは昭和も華やかなりし頃、そうや37、8年の初秋やったと思います。どなたかご存じでしたら教えてやっとくれやす。

福知山機関区の所属になっていた。

DD911 福知山機関区の所属になっていた。

京都駅山陰線ホーム機回し線

 

2009年 秋の中国一人旅 Paet10 鉄媒鉱務局 調兵山へ

第9日目  9月25日

今日も、モーニングコールより早く、4時に起きました。外はまだ真っ暗です。バスタブにゆっくりと浸かって、全身を目覚めさせました。

5:00に大明へ向けての、回送列車の始発があります。列車番号は、Hを頭につけたH111です。夜間撮影を試みましたが、前照灯が明るすぎて、ハレーションを起こしました。失敗です。真っ暗の中、出発していきました。
▲ 111が出発後の静かなホーム
▲ ようやく、薄明るくなりかけた、5:32に王千に向けて、YS1772牽引のPC5両の回送列車H211。出発直前まで連結せず、入念な検査を続けていました。 続きを読む

西武トレインフェステバル2009in横瀬・秩父鉄道見学記

10月4日(日曜日)西武鉄道秩父線横瀬車両基地で「西武トレインフェステバル2009in横瀬」が開催され、昨年に続いて見学した。年に1度だけ横瀬車両基地に保存されている機関車を屋外で見学できるチャンスで、1度見れば良いというものではなく、良いものは何度見ても良い。機関車の並びは毎年変わり、昨年停車位置が悪かった車両が撮影できるチャンスでもある。今年は西武秩父線40周年ということで、西武秩父駅を第2会場としてE34+E32+E31を中線に展示し、旧塗装に復元したクモハ271-クモハ272の2連を横瀬~西武秩父間の臨時電車として9往復半運転された。昨年は初めての見学でもあり、見学・撮影に3時間以上費やしたが、今年は1時間半位にして秩父鉄道に行くことにした。

朝から国分寺まで出かける用事があり、会場には予定より少し遅れて10時40分頃到着した。途中武蔵丘信号所で「銀河鉄道999」のラッピング車と交換し、次の飯能発西武秩父行に充当されるので撮影することにした。会場では元特急車クハ5504が10000系、4000系、本日運転された臨時快速急行の241F+243F編成と並べられて展示されていた。構内は大変な賑わいで、子供や孫をデッキに乗せて撮影する人が多く中々撮影できない。E61のデッキで長電話をするおやじまで現れ、さすがにこれには撮影者の一人が降りてもらうよう頼みに行った。但し、12時前後の撮影タイム以外はデッキに上がってもかまわない。途中で先程のラッピング車を撮影のために駅に戻ったりしたが、時間が経つのを忘れてしまい、秩父鉄道の蒸機列車の撮影に間に合う電車に乗り遅れてしまった。臨電で西武秩父に行き、中線に停められていたE34+E32+E31を撮影した。

西武秩父線車両の並び

 かつての特急「レッドアロー号」クハ5505

ED102/昨年は停車位置がやや悪かったが今年は広い場所で撮影できた。国鉄時代の塗装と車号に戻されているが、個人的には西武時代のままでもよかったと思う。他の電機は旧掲示板【617】を参照いただきたい。

 

モハ505/昭和29年西武所沢工場製の17m車である。その後クモハ355に改番され、平成2年多摩湖線を最後に廃車された。旧車号、旧塗装に戻されて保存されている。昨年は停車位置が悪く全姿が撮影できなかった。この場所は架線がないためパンタを上げられないのが残念である。

 

モハ505の台車

「銀河鉄道999」のラッピング車で、上からクハ3011、クハ3012、モハ3211、モハ3212

 

横瀬~西武秩父間の臨時電車/クモハ272+クモハ271

 

クモハ271とE34の並び

 

E32+E31+E34

秩父鉄道お花畑駅に行き、12時30分発の電車を待っていると、入線時の塗装に変更後、昨日から営業運転を開始したばかりの1007編成が来た。途中浦山口と武州日野で上り電車と交換し、三峰口に13時3分に到着した。5月4日に準特急氏、ロギング太郎氏、シグマ太郎氏、デカンショまつり号氏とご一緒した時と同じ時間帯の電車である。三峰口到着後、乗客が降りるとすぐに留置線に引き上げ、蒸機列車と西武の4000系に挟まれた位置に停められてしまった。蒸機列車を白久で撮影後、再度三峰口に戻れば撮影できるので、上り電車に乗り白久で下車。場所探しが面倒なのと曇天のため、5月4日と同様、駅から徒歩30秒の所で撮影したが、線路脇の草は綺麗に刈られていた。三峰口には先程蒸機列車が停車していた3番線に到着したため、またしても撮影は不可能であったが、今回は天候が良くないので蒸機諦め、14時56分発羽生行で出庫する1007編成を撮影することにした。撮影後15時2分発西武4000系の池袋行快速急行で帰途に就いた。横瀬車両基地ではD16が展示車両を庫内に入れる作業をしており、来年も是非見学したいと思った。秩父鉄道は旧塗装に変更した1002編成こそ撮れなかったが、1007編成が撮れたので大満足であった。

 

ターンテーブルを出るC58363/ターンテーブルの周りには柵があり、方向転換を見学することが可能である。

 

白久駅徒歩30秒の踏切/線路際の雑草は綺麗に刈られていた。

 

下り向き先頭デハはダブルパンタになりイメージが変わったが、上り向きクハは原形のイメージに近い。中間車は冷房改造されていないので原形のままである。上からクハ1211+デハ1111+デハ1011 ・ クハ1201+デハ1101+デハ1001 ・ デハ1101

 

 西武クハ4011とデハ1007の並び

 

入換中の1007編成

2009年 秋の中国一人旅 Part9 再び、鉄媒鉱務局 調兵山へ

第8日目  9月24日

旅も終わりに近づくと、ようやく緊張感が出てきました。遅すぎた感がありますが、5時のモーニングコールよりも早く起きられました。2日後に同じホテルに宿泊しますので、荷物は預けて、最小限の荷物を持って、チェックアウトしました。
6時30分発、調兵山行きのバスは、発車を待っていましたので、急いで、屋台の朝食を買い込んで、乗車しました。さすが、この時間に渋滞はありません。運賃は、25元(325円)、タクシーの10分の1以下です。

▲ この中型バスですが、最後部右座席前の席が、撤去してあり、広々とした特等席があります。乗車される方は、お薦めします。8:10には、調兵山駅から少し離れた、長距離バスターミナルに着きました。所要時間1時間40分です。
 鉄と同様タイプの、綺麗な調兵山バスターミナルです。
▲ チェックインした駅前ホテルの部屋から見た調兵山駅です。地平線には、ボタ山も見えます。


この時間ですと、大明・王千・大青から到着する列車3本を撮れます。タクシーで、駅に向かいました。まず、駅2階の旅行社で、2日分の撮影料を支払い、許可証を受け取りました。

天気も上々です。今日は、調兵山から、出きる限り徒歩で行こうと、線路沿いを歩き始めました。
▲ まず、やってきたのは、YS1770牽引の、大明から8:34着の104列車。

▲ 続いて、バック運転ながら、YS1771牽引の、王千から8:45着の204列車。日本では、こんな場所からの撮影は、今はできません。ここでは、線路=生活道路でもあります。機関手も慣れたもので、手を振ってくれます。気持ちよく撮影できるのが、鉄媒鉱務局線のいいところです。ただ、遅れたり、ダイヤの分らない貨物や業務車両も走行していますので、十分な注意が必要です。

▲ この後、調兵山~三家子間にホームもあり、全列車停車するのに駅無の無い駅に着くと、撫順炭鉱線で見たのと同じような業務用DCが走行してきました。
▲ 大青からの308列車は、東風4型7721が、5両のPCを牽引してきました。

一服後は、調兵山から、大明・王千へ向けて、走ってくるのを待ち受けます。朝のこの区間は、直線で、やや斜めからの順光で、バッチリですが、今日は、天気は良すぎて、温度が高く、SLは出発後には、直ぐに力行を止めてしまいますので、肝心の煙が出ません。やはり、冬場が良さそうです。
▲ 調兵山~三家子間の無名駅を出発する、YS1770牽引の、王千行きの203列車

▲ 次発のYS1771牽引の、大明行きの103列車

調兵山駅にも近いお薦め撮影地です。約3キロ、徒歩で40分程度です。邪魔ものもなく、直線が続いています。



その後、三家子から大隆まで2キロを歩きました。大隆では、東風5B型0039牽引の石炭貨物がいました。客車列車だけでなく、DL牽引ですが貨物列車も結構走行しています。

ここで、一旦、バスで調兵山に戻り、ホテルにチェックイン後、余分な荷物を置いて、しばし休憩しました。昼食後にタクシーで暁南駅に向かい、13:22発車の206列車を狙いました。
 ここでは、朝に大青から308列車を牽引していた東風4型7721が、単行で来ていて、206列車の10分前に発車しました。

▲ この7721号機は、大隆から14:45に橋南を通過して、暁南に戻りました。そして、15:40に15両の石炭貨物を牽引して、橋南から大隆へと向かいましたので、多分、大隆からは、渡り線を圣由して、中国鉄路の大青操作場へと行ったと想像できます。

これが、この機関車の運用なら、もし308列車が、SLの場合、貨物牽引も有りかも知れません。もう少し、機関車の運用を調べる必要が、ありそうです。

▲ 暁南駅を発車して、築堤を行く、YS1770牽引の206列車

▲ この後、線路沿いを橋南駅方面に約4キロを歩きました。途中で、朝見た業務用のDC1両が走ってきたので、トウモロコシ畑の中を走行するシーンをおさめました。

▲ ボタ山をバックに撮りたかったのですが、この頃より、雲天模様となり、霞がかってきました。夕焼けの中を走行するシーンも、期待できなくなっていました。
仕方なく、ホームの無い橋南駅で、17:20発の調兵山行き208列車を待ちました。

17:36 三家子で下車。28分間停車です。大明からの列車が、着いているはずでしたが、遅れていました。この時間は、調兵山から大青行きの列車も三家子駅に着きます。列車が、3本も停車する、夕刻のゴールデンタイムです。しかし、刻々と夕闇が近づいてきます。調兵山の日没は早いのです。

三家子~調兵山間の無名駅での発車も撮ってみたかったので、先に発車する列車に乗換えて向かいました。しかし、夜間撮影を試みましたが、デジカメでは初めてです。3列車を撮りましたが、停車時間も短く、お見せできるような写真は、撮れませんでした。未熟です。


▲ 闇世の中を調兵山駅に向かって歩き、ここで、夜間撮影の練習に励みました。帰国したら、福田大先生に教授してもらわないといけません。

明朝も、撮影チャンスは、たくさんあります。今日は、歩きまくって疲れました。明日は、タクシーをチャーターして、ピックアップした撮影地と、撮影時刻を再確認して、早めの睡眠としました。 Part10 へ続く

2009年 秋の中国一人旅 Part8 瀋撫城際列車

今日から、大リーグでは、プレーオフに、日本でもCSが始まりました。鉄道に次に、大好きな野球の熱戦に見入っています。旅行記のアップロードもあります。撮影にはもってこいの秋晴れが続き、待望の車が納車されたのに、中々、出て行く決心がつかず、迷っているぶんしゅうです。

第7日目 9月23日 その2

ジテを撮り終えた頃より、空模様が怪しくなってきました。ポツポツと雨が降り出したので、撮影場所を、留置線から検車区に変えて、凸型電機を撮っていると、職員の偉いさんから、許可なし撮影は、ダメと言う風な態度で、何か言われました。

600型は、主力のELだが、休車が目立っています。

600型のトップナンバー

多分、職員輸送用と思われます。

これは、珍品です。

ここでの撮影は、切り上げて、タクシーで来た未舗装の泥んこ道を、歩きました。まず。今の日本では、存在しないような悪路です。舗装された駅前道路とは、雲泥の差です。

しばらく歩くと、自転車タクシーが、昼食に自宅に戻ってきたのを見つけました。撫順駅まで乗りたいと言うと、2つ返事でOKが出ました。5元(65円)です。濡れなくて良いので、助かりました。乗ること、約30分で、撫順駅着撫順北駅も、みて見たかったので、頼みましたが、遠すぎるので、ここで降りて欲しいと言われました。仕方なく、ここからは、普通のタクシーです。撫順北駅までは、7元(91円)でした。


撫順北駅は、立派な駅です。中国には、約25年前から来ていますが、ここ5~6年の空港、鉄道駅の変貌ぶりは、驚くばかりです。何と言っても、ホームのかさ上げ工事が、進められたのは、旅行者にとって、乗り降りが、大変楽になりました。まだ、田舎の駅では、低いホームがあって、重いスーツケースを、エイヤャーと持ち上げるのは、誰もが難儀します。

駅正面右側が、切符売場です。ぶらりと、真新しい掲示板を見ていると、瀋撫城際列車の時刻表がありました。撫順北~瀋陽を走る区間列車です。現在時刻は、14:00、丁度、撫順北駅14:39発、瀋陽行きの列車があります。ラッキーです。

蒸気は、現在運行中です。下記は、計画です。今は、1編成が往復していますが、2編成に増車されたら、運行本数も増えると。みました。

これらを考慮すると、近い将来は、下記になります。作成してみました。こうなれば、瀋陽のホテルに宿泊して、朝夕の撫順炭鉱線を撮影して、日帰り可能です。

列車番号をメモって、窓口に向かいました。撫順北駅に停車する列車は、多くありません。しかし、切符売場は、他の駅の倍以上の広さがあり、天井も高くて、明るくなっています。営業している窓口は、10数ヶ所のうち、3箇所だけでした。待っている人も数名で、ガランとしています。

女子大生と思しき4人がいる窓口が、一番早そうに見えたので、後に並びながら聞いてみました。国慶節休みに4人で、どこかに行きたいようですが、中々、求める切符がありません。窓口の職員は、キーボードをたたいて、代替の列車を探してくれますが、モニターに出てくるのは、希望列車があっても、空席は、1~2名程度です。

田舎の駅です。のんびりしています。何度も何度も、諦めずに空席を探してくれています。これは、付き合いきれないと、彼女達に断ってから、今日のこの列車の切符を1枚欲しい。できれば1等車(軟座)を言って、メモを見せました。直ぐに発券されました。

瀋撫城際列車4396列車切符 1等車 17元(221円)

購入後、正面入口から待合室に入りました。入った正面には、『貴方が、瀋撫城際列車に乗ることを歓迎します。』とのスローガンの看板がありました。良く見ますと、2008年11月に工事着手、2009年7月30日公式開通営業開始。瀋撫城際鉄路全距離は66.1キロ、列車名は、『和諧号』、最高速度120km/h、最短所要時間49分。全区間には、18の駅がある。等々の紹介文が書かれていました。

まだ、開通してのホヤホヤです。14:07瀋陽からの折返し列車が、到着しました。そして、その車両は、昨年8月に、北京北駅から万里の長城へと向かって登場した『長城和諧号と同じ車両です。


この列車は、オリンピック前に、北京北駅に行き、乗車を試みましたが、丁度北駅がリニューアルオープン3日前で、乗車できなかった悔しい思い出があります。ここで、乗車できるとは思いませんでした。

出札は、発車10分前に始まりました。乗客は、数十名とわずかです。先頭車から、写真を撮りながら、ぎりぎりで乗車しました。
編成は、両端がプッシュプルのDLで、1等車3両+餐車+2等車3両の9両編成です。
NDJ30003A+ZY010068+ZY010069+ZY010070+CA080125+ZE010071+ZE010072
+ZE010073+NDJ3-0003B


大きな窓が印象的な車両ですが、餐車は、ひときわ大きい窓になっています。ただ、最短49分の乗車時間です。餐車は、必要ありません。
天井が高く、明るい広々とした車内は、とても快適です。1等、2等とも、CRH2(はやて型)の技術を応用した座席回転シートになっています。ピッチもまずまずです。

定刻に発車、新しく線路を引き直したのが、バラスの白色で分ります。高架線をゆっくりと走行します。撫順駅は、やはり停車しません。撫順炭鉱線と並行します。
乗客が少ないのは、宣伝不足と、本数が少なく、運賃もバスの10元(130円)と比べると割高なのが原因でしょうが、バスは、最短でも1時間30分前後かかります。両都市は、渋滞が多く、これからももっと遅れることは、必死です。これに比べると、この列車の乗り心地は、雲泥の差です。車内販売が、何回も来るので、ビールを2本も飲めました。

しかし、この線は、複線電化してあります。この車両よりも、CRH2(はやて型)を走らせた方が、もっと早く、到達時間も30分以下が、可能でしょう。3倍以上もの時間のかかるバスからの、利用者移動となる事は、北京~天津間の新幹線で実証済みです。頻繁に満席で走っているバスです。需要は十分ありますので、数年後に来る時は、そうなっているでしょうね。


瀋陽到着後
、ホームで撮影をしていると、公安から注意されました。普段、こういった事は、あまりありません。やはり、建国60周年という国慶節が近づいているので、かなりナーバスになっているのでしょうね。好き好んで、注意しているとは、思えませんでしたので、目に入らぬように撮ることにしました。

明日からは、1泊2日の調兵山行きです。早く起きられるように、朝5時のモ-ニングコールを頼みました。 Part9 へ続く

2009年 秋の中国一人旅 Part7 ジテ発見!

祝 鉄道の日
皆様方は、どのようにこの記念日をお過ごしでしょうか。  
   

第7日目  9月23日 その1
人の不幸は、酒飲みには、格好のアテです。昨夜の反省会は、失意に反して、大いに盛り上がり、今日も緊張感不足の出発です。ジテを探しての撫順行きです。

▲ いつもの瀋陽駅前バスターミナルに向かって歩いていると、途中の街角に、何と調兵山行きのバスが止まっていました。乗務員に聞くと、6:30~18:30の間、約40分間隔で運行していると言います。では、バスターミナルに記載されていた時刻表は、一体何だったのか? 不思議です。明日は、調兵山へ1泊2日の撮影予定です。直通バスがあれば、これが1番です。 続きを読む

1954年3月北陸から長野、三重 その3


金沢機関区でのE104

金沢駅で見た国鉄モハ2310 旧宮城モハ601で、元来2・3等合造車だった由。汽車東京製の田舎くさいデザインで、宮城の電車はスマートかダサいかのどちらかである。

小松を上機嫌で後にした3人は金沢へ。ここでも根をつめた撮影はせず、機関区ではE10を1枚撮っただけ。立山重工業の産業用Cタンク機が1両機関区の隅に放置されていた。

駅のすぐ裏?に北陸鉄道金石線のうらぶれた中橋駅があった。ここに先ほど小松で見たと同じ小柄なボギー客車が2両(現実には3両だったが)いるではないか。この時は何やら親しみを感じただけだが、はるか後年、身元と変遷解明に血道を上げることになろうとは。


北陸鉄道金石線サハ521 ←ハ14←金石鉄道ハ14←国鉄コハ2475←簸上鉄道ホハ10 貫通路は窓1個に変わっている。

左は不思議な付随車サハ531 反対サイドには中間扉がない 右はサハ551

北陸鉄道金石線モハ1201

サハ551は北陸コハ1←金名鉄道コハ1←国鉄コハ2474←簸上鉄道ホハ8。後で知ったことだが、簸上鉄道は3回に分けホロハ1~3、ホハ4~10と、合計10両の同系ボギー客車を揃え、買収(木次線の一部)でコロハ1620~1622、コハ2470~2475に。余りにも小さいのですぐ処分され、出石、金石、温泉電軌、金名に払下げられた。出石は企業整備で強制休止となり、旧コロハ3両(→コハ1500~1502)は東武が引取ったが戦災、1両のみコハ120として敗戦後も姿をとどめており、高橋弘氏が撮影している。

結果的に北陸鉄道に集結した7両は同型として問題ないのに、僅かな重量の差や出所で分け、サハ501(金石)、511(同)、521(同)、551、552(金名)、561、562(温泉電軌)と5型式にした。このあたりはやはり寄り合い所帯の三重交通が似ている。サハ551は妻面も原型をよく保っている。

ところでサハ531は世にも不思議?な付随車である。やたらめたらと寸法が小さい。自連が何とも大きく重そうに見えるから、車幅、床高や車輪径が想定できるだろう。一見路面電車の3扉車のごとく、中央扉が両開きだが、この中央扉は片側にしかないのである。前後の引戸は恰幅のいい人なら通れないのではないか。おまけに妻面には方向幕穴まである。前身は金石鉄道ハ4、5、梅鉢大正4年製、それ以上はワシにも分からんと、なんでもすぐ教えてくださった故吉川文夫氏もお手上げ。この付随車に関しては、納得のいく解説等にはまだ接したことがない、というより、まともな紹介すらないのではないか。


北陸鉄道浅野川線モハ572←デハ13 汽車東京大正14年製

北陸鉄道金沢市内線2003

北陸鉄道金沢市内線2103


富山地方鉄道モハ14752 地鉄富山

富山地方鉄道デニ6002 富山地方鉄道←富岩鉄道ボ1買収車 妻面は5枚窓だった


国鉄モハ1901 伊那電気鉄道デハ101買収車 富山

国鉄クハニ7301 宮城電気鉄道クハニ702買収車 岩瀬浜

駆け足で金沢、富山を通り抜け、大糸線は全通していないから、直江津経由の大回りで長野着。ここでステホしたのだが、その寒い事寒い事。1人が荷物(というほどのものはないが)を見張り、2人が坂道を善光寺までランニングで往復し、その体温が残っている間にウトウトすると云う、情けない一夜になった。

2009年 秋の中国一人旅 Part6 再び調兵山へ

国内撮影旅行向けに、4WDでオフロードOK、どこでもキャンピングできる車が、納車されました。ローカル線は、列車本数の激変から、朝夕しか撮影チャンスがない事が多くなりましたが、これで、早朝や夕刻でも好きな場所で、撮影できます。写真撮影の腕が上がると良いのですが、やはり、センスの問題解決には、持って生まれたものがあります。感性には、自信がありませんので、行動力で補うしかありませんが、老力には、限りがあって、これも難しい。
しかし、難しいばかり言っていると、何もできませんので、動き始めます。秋の紅葉前線も始まっています。追いかけての、撮影レポートをご報告したいと思っております。

第6日目その2 9月22日

思いもかけず、鉄煤蒸気機関車博物館を見学できた後、約20分で、14:20に調兵山駅に着きました。丁度、この時刻は、14:26に大青へ、14:39に大明へ、14:51には王千への3本ものSL列車が、発車する良い時間です。YS1770,1771,1772と連番で、3両が止まっていました。

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2009年 秋の秋の中国一人旅 Part5 鉄媒蒸気機関車博物館

第6日目 9月22日 その1

昨日と同様、快晴の朝を迎えましたが、今日も寝過ごしました。いつも撮影旅行中は、夜明けとともに行動を開始していますが、どうも今回は、緊張感が足りません。

今日の行き先は、調兵山と決めていたのですが、先日バスターミナルで、調兵山行きの時刻表を見ましたら、13:20発の1日1本だけの記載しかありませんでした。確か、インターネットで見ると、1時間に1本ぐらい出ているとあったのですが…。また、聞けばよかったのですが、鉄嶺市までバスで行って、調兵山行きのバスに乗継利用する事にしました。今回、これが正解でした。

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2009年 秋の中国一人旅 Part4 撫順炭鉱線へ

今朝は、大型台風18号(Melor)が、知多半島に上陸、本州を横断し、大きな被害をもたらしましたが、皆様方は、大丈夫でしたでしょうか。避けられない自然災害とはいえ、不幸にも被害に遭われた方々に、お見舞いを申し上げます。

第5日目 9月21日

昨日は、調兵山のSLが無事走行している事が確認できました。と、なると、次の確認事項として、今年度で閉鎖が決まっていて、運用は激減するだろうと、言われている撫順炭鉱線を走るジテの現状です。これが分からないと、今後の予定が立てられません。SL撮影料3日分を支払っていますが、こちらの方が先行しなければと、まず陽駅に行きました。

できれば、列車で行こうと思いました。瀋陽~撫順間には、時刻表には、掲載されていない区間列車が、未確認ですが、走行しているそうです。切符売場は、長蛇の列ですので、走行しているのかどうかを聞くには、30分以上並んで、待つ事が必要です。
長い時間を待つのは、面倒です。駅のキヨスクおばちゃんに聞いてみる事にしました。しかし、私の言っている事は、理解してくれたのですが、おばちゃんが返答してくれている意味が、さっぱり分かりません。何度も聞き直していると、わざわざ職場を離れて、私の前まで来てくれました。そして、駅正面を指さして、行ってみなさいと言っています。


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常磐緩行線新車E233系2000番台営業運転開始

9月9日(水曜日)常磐緩行線の新車E233系2000番台が営業運転を開始した。E233系2000番台は、現在使用中の203系17本と207系900番台1本の置換えを目的として本年度1本、2010年度17本新製される予定である。特徴としては,直通運転を行う東京メトロ千代田線に合わせた「地下鉄仕様」となっており、外観は裾絞りの拡幅車体であった従来のE233系とは異なりストレート車体で、正面には非常用の貫通扉が設置されている。小田急乗り入れについては触れられていないが、金町駅近くの三菱製紙工場跡地の再開発により、大規模マンションの建設、東京理科大学の移転工事が進められており、完成の暁には運転間隔短縮等の輸送力増強の必要性に迫られ、現在綾瀬までとなっている小田急車両のJR乗り入れは不可欠となる。小田急4000系と共に3社乗り入れ準備工事がされているのではないかと思われる。

編成は次の通りである。

←取手 クハE2332001+モハE2332401+モハE2322401+サハE2332201+モハE2332001+モハE2332001+サハE2332001+モハE2332201+モハE2332201+クハE2322001  →代々木上原

現在のところ主として平日は01K(1)、土休日は03K運用に使用されているため、日中お目にかかれる機会は少ないが、日中の目撃情報もあり必ずしも限定ダイヤではないようである。来年度には全車両置き換えられるので、慌てて乗車・撮影の必要はないが、ヘッドマーク付を撮影される方のために一応時間を書いておくが、100%来るとは限らないので、その点はご注意いただきたい。

【平日01K(1)

松戸4:27→我孫子4:46/4:53→代々木上原6:01/6:13→柏 7:16/7:29→代々木上原  8:38/8:45→松戸9:37

【休日03K】

松戸4:28→北千住4:41/4:55→我孫子5:28/5:33→代々木上原6:41/6:51→柏 7:54/8:01→代々木上原909/9:32→松戸10:20 

9月9日営業運転の初日、夏休みを取って「ひたちなか海浜鉄道」(元茨城交通湊線)と日光線に行ったが、自分が休みのため休日と勘違いして、松戸駅4時28分発北千住行から運用を開始するものと思い込み、松戸駅5時8分発の北千住からの折り返し我孫子行の電車を待っていたところ203系がきたのでガッカリした。初めて乗ったのは9月12日(土曜日)で、雨のためよい写真でないがお目にかけたい。

 

取手側の先頭車 クハE233-2001

 

2両目モハE233-2401

 

3両目モハE233-2401

 

ヘッドマーク

 

車内の案内表示

E233系2000番台と代替で廃車になる203系と207系900番台についても若干触れてみたい。

203系は、従来の103系1000番台を置換えのため昭和57年に量産先行車として10両編成1本を新製、引き続き昭和59年に7本新製した。翌60年から205系と同一のボルスタレス台車に変更した100番台を9本新製して103系を置換えた。機器類は201系がベースで、主回路はチョッパ制御である。

 

クハ203-5

クハ202-6(代々木上原寄りの先頭車)

モハ202-13

モハ203-13

松戸駅を発車した代々木上原行

207系はVVVFインバータ制御の試験車として昭和61年に1本のみ新製した。203系と共に使用されてきたが、1編成のみの特殊車両のため予備車的存在で、最近では運用に就くことは少なく、E233系2000番台と交替で営業運転から離脱すると言われていた。

 

クハ206-901

モハ207-901

モハ206-901

サハ207-901

馬橋駅を発車した代々木上原行

参考までに203系以前の103系1000番台、更にそれ以前のクハ79形の画像も貼っておく。

 

203系と交替した103系1000番台の一部(56両)は105系に改造され、関西地区に転属し、奈良線、和歌山線で使用された。奈良線からは撤退したが、和歌山線、可部線等で現在も大部分が健在である。一方松戸区に残り、常磐快速線、成田線に転用された車両は既に姿を消している。

 

クハ79426 昭和43年9月6日 柏駅

柏駅に進入するクハ79を先頭とする取手行。隣に東武野田線の架線柱が見えるが現在の柏駅からは想像できない程長閑である。

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尾道鉄道キ61 ←近江鉄道←八日市鉄道カハ100←国鉄キハ40309←芸備鉄道キハ2 元来フォードA×2基装着だが 八日市入りの際コンチネンタル21R1基に改造代燃化 尾道では2枚折戸の乗務員扉が埋められ窓になっている 客扉は2枚折戸のまま 踏板を大きく張り出しているのは車体幅が2,200mmしかないため 妻窓中央が広いのもオリジナル通りだが ガラス節約で2つに割ってある この時点木部=窓枠や扉のニス仕上げは尾道独特

米手作市氏の誘い水に手もなく乗って、禿筆を以って、拙老には場違いも甚だしい尾道鉄道の拙い写真をご披露する。旧芸備鉄道ガソリンカー・キハ2の最終の姿、キ61だけをバッチリ撮って満足したのだが、まあ事のついでに、大して関心もなく電車も撮ったという程度の、いい加減も極まったものである。車両紹介も同様だから、乙訓ご老人のお出ましを頂き、修正加筆賜るのが当然である。遅滞なく義務を果されよ。


デキ11 元来デワ101~103なる電動貨車の103を第二次大戦直前に改造 台車はブリル79E 番号数字の間隔が広いのも尾道独特 エアタンクがひときわ目を引く

デキ12 やはりデワ102が電装解除しワ201となっていたものを再度電動客車化

デキ15 近江鉄道が1500V昇圧した際クハ化された加藤車輛製作所製電車 車体は三成庫で新製とされるがその実鋼体化で木骨鉄皮の可能性もあり 台車はオリジナルのリンケホフマン

尾道でのデキ16 田舎電車庫の手作りにしてはやたら手際がいいのは どこかの出張工事だからではあるまいか

デキ16 三成付近

デキ15+35 パンタとビューゲルを併用

デキ16 右バックの白壁は造り酒屋か

撮影は1958年3月12日と、同年7月23日。3月は九州への往路、7月は高橋弘氏と同行だったが、こっちは大阪21時28分発出水行夜行各停223レに乗車し、尾道着3時40分、高橋氏は京都22時40分発広島行準急307レで尾道着4時10分だったかと記憶する。2人合流して夜明けを待ち、下りあさかぜ、はやぶさを狙う。天気はよかったが何分狭いのがウリの尾道だから、撮影場所に恵まれず、ロクな写真は撮れなかった。


朝ラッシュ時の3連 16+25+45 三成

それから尾道鉄道の三成車庫に行き、その後井笠鉄道、西大寺鉄道にご一緒し、タカハシ写真館当主氏は仕事があり帰宅。気楽トンボの当方はそのまま三石でステーション・ホテリングし、三石-上郡間で列車を撮り、片上鉄道に寄って帰宅した。


デキ21 開業当時のデキ1が事故大破し水野造船で車体を新調 のち車体延長しボギー化した姿

デキ25 ←水間鉄道モハ55 広瀬車両1948年製 電装解除でサハ化されている

デキ35+15 三成

デキ35 宇部電気鉄道(600V)201が宇部鉄道合併、買収後1500V昇圧時廃棄され尾道へ 1930年日車製

デキ45 窓配置からは云わずと知れ各務原鉄道8→名古屋鉄道モ458が前身 半鋼改造されているが木骨鉄皮のニセ・スチールではあるまいか
開業時梅鉢鉄工場で新製されたデキ1~4のうち4が前身 台車はブリル79EX

自社で新製中のデキ71 台車はブリル27GE-1 これも実態はどこかの出張工事ではないか

そういえばほぼ半世紀前=1960年に京都鉄道趣味同好会会誌「急電」101号(私鉄レポート集=夏期別冊、表紙とも60頁)が出た。現役時代の我等DRFCメンバーが全部を執筆し、これでもかとばかり中国、近畿、東海、東北、北海道地区の私鉄車両レポート(夫々の内容は簡略だが)を書きまくった。謄写版(穴版)印刷だから、筆耕も若かりし乙訓老人と拙老との2人でほぼ全部やり遂げた。その中で、田口のキューさんが尾道をリポートしている。彼氏はその後消息を聞かないが、今どうしているんだろうか。ありとあらゆる印刷物をコレクションしていたが。

教えて!なんでも探偵団

BSの好きな番組に、消えてしまった鉄道を回顧するものがあります。毎週土曜日の23時頃から30分ほどの短い番組ですが見られるときには見るようにしています。

先週は尾道鉄道でした。不覚にも全く知りませんでした。この名前の観光バスが走っているのを時々見かけましたが鞆鉄や中鉄、井笠などは知っていても尾道鉄道には興味がなかったのでしょう。

番組では尾道から市と言うところまで走っていた、途中に50‰の勾配があった、三次まで延伸するつもりだった、等と言っていましたが肝心の写真がほとんどなく、有っても雑誌からコピーしたような網のかかった粗いものばかりが数枚でした。

そこで急に興味が湧いてきました。DRFCの誇るなんでも探偵団にお願いします。現役時代の尾道鉄道について知りたいのです。もし資料をお持ちの方がおられたら教えていただけませんか?

よろしくお願いします。