癒しの島 台湾鉄道の2019年冬の旅 Part6 太麻里、金崙で撮る

前回投稿以来10日間が経過しました。理由はDR2700系がリバイバルランをするとの事でまた台湾に向かいました。無事に帰ってきましたので投稿を再開させていただきます。

第5日目 3月1日

今日は花蓮から列車に乗って太麻里へ向かい、駅前からタクシーをチャータして太麻里の撮影地を回ってから金崙周辺で撮影、夕刻は再度太麻里に戻って普快車を撮る予定です。

9:00 同行者の不銹鋼號さん、chitetsuさん、cederさんとは駅に近い私のホテルのロビーで集合で花蓮駅へ向かいました。

▲ 9:11 東部幹線随一の観光地花蓮、その玄関口の花蓮駅です。リニューアルなった吹き抜けの高い天井の橋上駅は明るく綺麗で広々としています。

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 存廃に揺れる北海道の駅を巡る (4)

釧路・根室付近 50年前といま ①
根室本線の釧路・根室付近へは、50年前に均一周遊券を握りしめて行った時は、京都・大阪から、急行を乗り継ぎ夜行2連泊して、釧路には午後、根室には夕方にやっと着いたものです。半日で行くことができる現在から見ると、まさに最果ての地の思いがありました。しかも、夜行のあと、駅で降りて、10キロも20キロも歩いて、駅間で写したものでした。今から考えるとよくぞ行ったものだと思います。
そこで、釧路・根室付近の駅で写した“50年前”と“いま”を対比してみました。
釧路から西へ30分の白糠、昭和58年まで北進に向けて白糠線が分岐していて、釧路以西の中枢駅だったが、いまは静かさだけが支配する駅になっていた。

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 存廃に揺れる北海道の駅を巡る (3)

もう一昨日実施のダイヤ改正で廃止されましたが、根室本線の廃止3駅のうち、残る初田牛へも、直別・尺別を訪問した翌朝に行きました。初田牛があるのは、“花咲線”の愛称のある釧路~根室であり、同じ根室本線ながらも、釧路以西とは、別の運転体系になっています。輸送密度は帯広~釧路が約2300人に対し、釧路~根室は約450人と格段に少なく、「JR北海道単独では維持が困難な路線」の一つに数えられています。できれば初田牛に下車したいところですが、一日6往復、中間の茶内で上下が交換するネットダイヤになっていて、次の列車とは2~3時間の空きがあり、どう考えてもロスが大きく、釧路~根室を往復して、車中からの撮影にとどめました。3月16日に廃止された根室本線初田牛駅、駅名標とプレハブ造りの駅舎があるだけの棒線駅。 続きを読む

 存廃に揺れる北海道の駅を巡る (2)

尺別

夕方の列車で直別を去り、ひと駅釧路寄りの「尺別」へ向かいました。隣り合う二つの駅がともに同時期に廃止されるのも、この地域の現状なのでしょう。廃止後も信号場として残ると思われますが、音別~厚内の15.0キロの間に駅が無くなるわけです。当初は尺別で下車して、約2時間後の後続列車まで写す予定でしたが、乗車列車が、交換のため尺別で10分ほど停車することが分かり、下車は止めて、交換待ちの間に撮影することにしました。
尺別は、1900生さんのコメントにあるように、昭和45年4月まで尺別鉄道が分岐していました。尺別~尺別炭山10.8キロの地方鉄道で、尺別炭坑からの運炭を目的に敷設された鉄道ですが、C12+二軸客車の旅客列車も一日2往復運転していました。ただ国鉄との運輸連絡が無かったためか、全国版の時刻表にも記載がなく、結局、私は乗ることも見ることもなく終わった鉄道でした。青信号「雪中北海道見聞録」に記載のように、1900生さん、kawanakaさん、西村さんの三人が、尺別鉄道訪問され、近年のホームカミングデーでも様子が披露されました。尺別鉄道の紹介記事は少なく、三人の記録はたいへん貴重なものでした。
釧路から直別に向かう時も、尺別で2527Dとの交換待ちがあって、乗車したタラコ色のキハ40 1758を、駅舎も入れて順光で撮影することができた。

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 存廃に揺れる北海道の駅を巡る (1)

京都市電写真展では忙しくも有意義な日々を送りましたが、その開催直前には北海道へ行っていました。LCCのお蔭で、毎年行くようになった北海道ですが、昨年には関西~釧路も新規就航し、道東へも格段に行きやすくなりました。ただ北海道に着いてからの足となる鉄道は、目を覆いたくなるほどの衰弱ぶりです。支線・駅の廃止と言った話題だけでなく、列車そのものが削減され、もう列車移動による徒歩撮影など全く不可能で、単なる“乗り鉄”ですら、ムダな空白時間ばかりで、移動が困難な状況に追い込まれました。
そんななか、時刻表をひっくり返して、廃止が予定される駅や、50年前に訪れた駅を再訪し、岐路に立つ北海道の現況を見てきました。

今週末のダイヤ改正で廃止される駅のひとつ、根室本線の直別を発車したキハ40 1779 「北海道の恵み」ラッピング車で、エリア別にキハ40の4両に施された。

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癒しの島 台湾鉄道の2019年冬の旅 Part5 宜蘭から花蓮へ ホテルトラブル発生、名物ワンタンを食う

▲ 宜蘭站に掲示されていました駅周辺地図です。後でGoogleMapを丹念に見ますと真ん中の宜蘭運動公園CT284号機(C57)が展示されているのが分かりました。分かっていましたら行って見たかったですね。

写真はGoogleMapからの転載です。

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癒しの島 台湾鉄道の2019年冬の旅 Part4 EMU100を撮る

第4日目 2月28日 その1

誰もこの付近で撮った事はありません。昨夜、今日の撮影地について
タブレットでネット記事や掲載された場所のGoogleMapを丹念に見ながら皆さんと協議しました。そしてここならと思える撮影地は福隆~貢寮と決まりました。
▲ 撮影予定地の福隆~貢寮のGoogleMapです。撮影ポイント①②③の周りは水田らしく稲穂が実った中を行く列車の写真がありました。行くには福隆站から約2.6㌔、徒歩ではたっぷり30分以上はかかると思いますので駅前にタクシーがあれば乗って行こうと決めました。4人ですので割り勘すれば一人180円程度と安いものです。

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癒しの島 台湾鉄道の2019年冬の旅 Part3 最後の行李列車を追う

第3日目 2月27日

昨夜。不銹鋼號さんとラインで連絡を取り合い今日は暖暖で合流し、行李列車6901次駅撮りすることにしました。

① 新竹 8:18(太魯閣278次)⇒9:38 七堵 

▲ 7:54 行李列車6901次暖暖を通過する正確な時刻は昨年10月に時刻改正が実施されているために分かりませんが、改正前も前後1時間は運行時間にズレがありました。それほど変わってはいないだろうと、暖暖通過は11:00~12:00頃と読んで11:00前には着けるように新竹站窓口できっぷの購入です。
七堵まで太魯閣の自強278次指定を注文して暖暖までのきっぷ購入としましたが、指定は台北までしか空席はありません。台北~暖暖は普通きっぷの発券になりました。

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癒しの島 台湾鉄道の2019年冬の旅 Part2 基隆⇒彰化⇒新竹

第2日目 2月26日

今日は不銹鋼號さんとchitetsuさんが訪台されますが宿泊地が台北のため合流するのは明日になります。私は新竹と向かい、途中で南海電鉄の「ラピートブルー」塗装のE212号機牽引の荷物列車撮影予定です。ただ、時刻改正後の行李(荷物)列車のダイヤが分ってはいません。クモハ73106さんにラインでお聞きして教えていただきました。いつもながら、ありがとうございました。
◀ 基隆から南下する優等列車(自強號)は午前中4本しかなくどこで撮るかの選択肢は多くありません。運賃は高くない台鐡ですので取りあえず嘉義までのきっぷを購入して車中で下車駅を決めることにしました。
▲ 8:51 きっぷ売り場のある基隆南駅側の改札口です。きっぷを買い求めてからの乗車でした。
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癒しの島 台湾鉄道の2019年冬の旅 Part1 最後の荷物列車、EMU100系を追う 旅立ち

今年の台湾鉄路では荷物列車の運用が終焉を向かえます、またEMU100系の復活運用が見られますのでみんなで一緒に行きましょうとクモハ73106さんよりお誘いをいただきました。私はこれから迎える花粉症対策の逃避もあって参加させていただくことにしましたが、クモハ73106さんは直前になってご都合が発生、荷物列車を熱心に追いかけておられたデカンショまつり号さんもお仕事の都合で参加が無理になりました。参加できるのは不銹鋼號さんと新たにchitetsuさんとcederさんが加わり4名での訪台となりました。
▲ 2014年1月11日、西部幹線の樹林基隆でリバイバル運行されたEMU100系です。 続きを読む

2019年 津軽雪飛ばしツアー Part4 津軽鉄道ラッセルカーを撮る 五能線も撮る

第3日目 2月17日

今朝は4時半起きでラッセル撮影に向かいます。希望していた積雪ですが残念ながら昨日よりも降ってはいなくこれでは豪快な雪飛ばしは期待できそうもありません。それでも夜明け前の真っ暗な中、金木に向けて零下の世界をかっ飛ばしました。
※ ラッセルの撮影時刻につきましては都合により掲載を控えさせていただきます。

▲ 青い夜明け前のブルースカイの中、ラッセル回送列車が金木に到着。

深郷田~大沢内 ラッセル本番1シーンの始まりです。昨夜は積雪もなかったので期待はできません。前回同様にショボイ雪飛ばしになるだろうとの参加者皆さんの意見でもありました。 続きを読む

2019年 津軽雪飛ばしツアー Part3 津軽鉄道に乗る、撮る 五能線も行って見る その2

第2日目 2月16日 その2

11時前にW田さんが五所川原駅に到着されました。ご同乗させていただきまずは嘉瀬~毘沙門の撮影地へ向かい津軽中里発のストーブ列車の撮影をすることにしました。▲ 11:16 DCに牽引されたストーブ列車が参りました。
正面から撮りましたがこれではストーブ列車かどうか分かりませんね。

次は五所川原を11:50に発車するストーブ列車はDD牽引です。 続きを読む

2019年 津軽雪飛ばしツアー Part2 津軽鉄道に乗る、撮る その1

第2日目 2月16日 その1

朝は6時前に、目覚めました。昨夜雪が舞っていましたので期待してすぐにカーテンを開けて外を見ましたが屋根は真っ白ながら積雪はわずかなようで期待は外れました。

▲ まだ暗いホテル前に出てみましたが薄っすらと積雪はあったようですが豪快な雪飛ばしを期待できる状態ではありません。空もどんよりした黒い雲が覆っています。1番列車に乗って撮影地に向かおうと思っていましたが気持ちは萎えてしまいました。

今日、同乗させていただくW田さんは伊丹7:30発のJAL便で9:00に青森に着かれる予定です。レンタカーを借りられてこちらに着かれるのは10:00以降11:00近くにはなります。ゆっくりしてから向かえば良いかなと思い部屋に戻って昨夜コンビニで買っておいたおにぎりを食べながらの朝食としました。

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2019年 津軽雪飛ばしツアー Part1 津軽へ

インドネシアのSL撮影ツアーや愛知こどもの国と修善寺虹の郷でお世話になった神谷武志さんより今年も津軽で雪飛ばしツアーを開催するので参加しないかとのお誘いを受けました。雪の津軽は2013年2016年以来です。2013年は地吹雪が激しく、2016年は雪がなく、どちらも満足な写真を撮ることができませんでした。リベンジで昨年も行きたいと思っていましたが訪台とダブりましたので参加できませんでしたので今年は何とかリベンジを果たすべく参加申し込みました。
ただ豪雪での雪道はスキーで慣れているとはいえ老体となった一人では自信がありません。参加されるW田さんに同乗させていただくのをお願いしました。

第1日目 2月15日

① 長岡天神 8:19(快速急行)⇒8:50 十三 8:58(急行)⇒9:16 蛍池
② 蛍池 9:20(大阪モノレール)⇒9:23 大阪空港

平日ラッシュ時の移動です。奮発してタクシーで長岡天神駅まで行き座ってゆっくりと伊丹空港へと向かいました。

▲ 9:31 国内線だけあって混み合わずチェックインはスピーディに終わって直ぐに搭乗待合室へ向かいます。今日の青森行きは宮崎からの便が遅れ10分遅れの搭乗になりました。

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E線K駅の今昔物語

米手作市様のお許しが出ましたので、K駅の昭和48年と平成24年の様子をご紹介します。まずは昭和48年3月15日の写真から。E線の貨物列車は越前大野までの運転でしたが、大野にはターンテーブルがなく、Kまでハチロクの単機回送がありました。

昭和48年3月15日 九頭竜川鉄橋を渡る単回

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2019年 凍てつく大地への旅 Part12 大連市電を撮る、帰国

第7日目 1月16日

ほぼ2年ぶりの訪中でしたがわずか7日間で帰国です。いつもはノービザギリギリの15日間滞在が最低でしたのでちょっと頼りない気がします。次回は過ごしやすい5月ごろにゆっくり乗り鉄旅を楽しみたいなあと思いました。

6:00 車の少ない夜明け前に街に出て市電撮影としましたが昨日と違って中々電車は来ません。
▲ 6:40 昨日と違って寒風はなくマイナス10℃ぐらいしかありませんが待っていますと身体が冷えてきましたので街角食堂に入って朝食です。
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2019年 凍てつく大地への旅 Part11 大連メトロに乗る

第6日目 1月15日 その2

▲ 大連のメトロ路線図です。ピンク色の③号線は以前開業した時に乗り鉄しましたが緑色の①号線、青色の②号線、藍色の⑫号線は初めてです。
前回訪問は2015年1月9日でしたので③号線以外は未開業でした。中国入国後はタブレットでのネット情報を得ることが出来ず大連メトロの現状は分っていませんでしたので興工街の交差点を曲がってメトロの入り口が見えた時は正直びっくりしました。

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2019年 凍てつく大地への旅 Part10 大連市電に乗る、撮る

第6日目 1月15日 その1

▲ 8:13 ようやく朝日が差し込みだしましたので大連駅前から行動開始です。

◀ 電停に掲示されています201系統が走る路線駅名案内です。前回来た時と変わりはありません。
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2019年 凍てつく大地への旅 Part9 遼寧振興生態造紙を撮る その2

ここ盤錦付近は中国3大油田の1つ遼河油田(りょうがゆでん)もあります。満州時代の昭和12年にはボーリング調査が始まりましたがなぜか本格的な調査には至らず途中で探鉱は中止されました。開戦により南方資源地帯確保が出来たためとも言われていますが、もし進められていましたら南方と繋がる制海権を失ってからも安定した石油供給を確保できたでしょうから戦局も変わっていたかも、そもそも開戦にも至らずになっていたかもと思われます。また当時は中国大陸に油田は存在しないといった説が圧倒的で、発見されたとしても掘削・精製など戦前の日本の技術力・国力からは製品化は難しかったようです。
戦後、満州内には開国なった中華人民共和国の手によって1963年に大慶油田
1973年に遼河油田の大油田が発見、生産開始されて最盛期には日本にも輸出されてその量は日本の原油輸入量の3割に相当する年間5000万トン以上の生産量を誇りました。
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2019年 凍てつく大地への旅 Part8 遼寧振興生態造紙を撮る その1

インフルに感染してからは身体不好で集中力がなくなり、投稿原稿作成が停まってしまいました。ようやく復調?なったようですので続けさせていただきます。
▲ 8:50 昨夕からの移動軌跡です。4列車を乗り継いで1,086㌔、旧満州を南下して
盤錦(ばんきん)へと着きました。

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