【17170】年末 大慌ての決算報告(3)

今年は遠方へは行けなかった代わりに、近郊の撮影はよく行きました。住まい近くの東海道本線山崎~長岡京、また嵐電、叡電など、季節ごとに訪れるようにしました。天候や時間帯に応じて、即行動に移せます。地元でお気に入りの撮影地を持つことは、撮影の原点への回帰でもあり、写真のクォリティを高める大きな要素になるとも感じました。
そして、もうひとつ見つけた原点がありました。
自分が楽しければ、それでいいのが趣味活動です。しかし趣味活動の過程で得られた生成物(写真でも、模型でも、調査でも)が、人々の心に何らかの語りかけができれば、それはそれで趣味活動の醍醐味だとも感じました。
それを感じたのは、浜大津での江若復元模型運転会でした。西村さんの緻密な再現力・製作力や、誠実で真摯な対応が、来場者に大きな感動を呼びました。これぞ、趣味活動の着地点であると痛切に感じました。
僭越ながら、昨日までの私の写真展でも、”懐かしい””楽しませてもらいました”のメッセージをいただきました。ただ古いだけの写真が、人の心を癒したとすれば、こんな嬉しいことはありません。大震災でも、泥まみれの写真を復元することが話題になりました。”写真の力”なのですね。
加齢を重ねると、撮っただけでは勿体ない。やはり人様に感じ取っていただく活動も、趣味の大きなテーマだと感じた一年でした。
しかし、過日、王将で餃子を食べながら、準特急さんが思わず述懐された”ワシは外へ出るのが好きなんや。歩くのも大好きなんや”の言葉に、やっぱり写真を撮ることも楽しい、要はインとアウト、そのバランスをよく保ちながら、これから趣味活動を進めたいと思うのでありました(ふぅー、除夜の鐘に間に合った)。

▲屋代線晩秋 ここへ来て私鉄の廃止が各地で取り沙汰されるようになった。長野電鉄屋代線も、来年3月に廃止されることになった。屋代~須坂間の24.4キロ、かつて首都圏から信越本線経由で急行が乗り入れいたのも遠い思い出、いまや単に千曲川右岸の集落を結ぶ使命しかない。乗ってみると、想定外に乗客がいない。90分ヘッドで3500系2連はガラガラだ。最盛期の6分の1以下に減少しているらしい。起死回生の増発などの社会実験も不発に終わったようだ。
人が押し寄せないうちにと、晩秋の信州入りとなった。屋代線の中間にある松代駅は、隣り合う松代城跡が秋色に染まり、木造駅舎とあいまって、実にいい味を出している。ただ、駅前からは、長野駅前へ向かう他社バスが頻発する。長野まで超大回りする電車では全く勝ち目が無い。屋代線は、ほかにも木造駅舎が多い。今まではさして気にも留めなかった木造駅舎だが、とみに気になる存在になった。

▲消えた京福原色 叡電のデオ700系から、京福電鉄時代のデュー時に塗られた、当時の京福福井支社や京都バスと同じ塗色のマルーンとクリームの原色車が消え、新色に塗り替えられた。新色は洛北の自然をイメージしたという、訳ありのカラーのようだが、明るすぎて弱々しい。その点、原色車は電車に相応しい色に思う。八瀬比叡山口、三宅八幡と、私の好きな駅で、最後の1両となった原色車724号は、紅葉の背景によく映えていた。


【17134】昭和40年前後の浜大津界隈(Ⅱ)


交差点を通過する三条行急行。右端に京阪バスのボンネットバスが見える。
(39-8-2)

今回は、前回に続いて電車と難問のバスの画像をお目にかける。バスについては、昭和40年前後は少しは興味があったが、撮影は全くしていないので、昭和50年頃撮影した中から昭和45年頃までに製作された車両を紹介する。

【電車】

 浜大津折り返しの穴太行の352/西村雅幸氏がコメント欄に書かれた「渡り線の位置」の件、この写真でお判りいただけると思われる。当時は引き上げ線がなく本線上で折り返していた。浜大津駅統合後、京津線の浜大津止まりの準急は到着後、一旦坂本方面の線路に転線して石山寺行を通した後、石山寺方面の線路に転線、坂本行通過後、再度転線するという面倒なことをしていた。
(43-9-25)

 356+357の坂本行/この時点ではバックの商工中金ビルは4階建
(43-9-28)

 262+261の浜大津折返しの坂本行 (49-12-8)

 交差点を通過する308+307の三条行準急
(55-1-6)

上栄町から浜大津方面を望む/306+305の三条行準急
(51-2-11)

【バス】
当時、浜大津に発着していたバスは、江若の他、京阪バス、近江バス、滋賀交通、国鉄バスの4社で、主力は江若、京阪、近江の3社であった。国鉄バスは江若と相互乗り入れで小浜~浜大津間を2往復運行していた。江若は京阪三条~小浜間を2往復運行し、4時間弱で結んでいた。

バスの写真の前に登録番号(ライセンスナンバー)について少し解説する。
現在の「京都200か2012」のプレートを例に取ると、上段の陸運事務所略号の後の3桁の登録番号は平成11年に制定されたもので、それ以前は「京22か2011」のように2桁で、陸運事務所にコンピュータが導入された昭和45年9月~46年4月頃(全国一斉に導入されたのではなく、都道府県により差がある)から付番されたものである。更にそれ以前は「京2か1011」のように1桁であった。
2桁の時代は下2桁の42と49を欠番にして登録順にナンバーを交付していたが、1桁時代はナンバーを特定のバス会社に割当てしていた地域があった。

滋賀県では昭和37年12月から橙色の「滋2あ」ナンバーは廃止されて、緑色の「滋2い」ナンバーへの付け替えが行われ、江若には「滋2い1001~」割り当てられた。ちなみに「滋2い1~」は近江、「滋2い801~」は京阪バスに割当てられている。余談であるが昭和44年に京阪バスの「滋2い846/38年式BXD30」を譲り受けているが、使用の本拠地が滋賀県内と変わらないため登録番号はそのままで、見る人が見れば、京阪中古であることは一目瞭然であった。
昭和42年12月に割当てナンバーは廃止になり、「滋2い2501~」の届け出順に付番されることになった。

〔江若バス〕
滋2い1035廃車体/いすゞBB751(37年式新日国工業)

 昭和47年4月に廃車されたが、安曇川営業所に残っていた。昭和46年勤務先のキャンプの下見でサンケイバレイに行った時、京阪三条から乗車した小浜行がこのタイプであった。
(54-3-3 安曇川営業所)

滋2い1038廃車体/いすゞBB751(37年式日産車体)

BB751のラスト3両(10
37~1039)は社名変更により日産車体製となった。廃車は昭和47年4月である。(54-3-16 堅田)

滋2い1079/日野RB10(41年式金産)

54年2月廃車
(50-5-18 安曇川駅)

滋2い1077廃車体/日野RB10(41年式富士重工)

 52年7月廃車
(54-3-3 安曇川営業所)

滋2い2715/いすゞBU05D(44年式川崎重工)

鉄道廃止時に代行輸送用として大量に作られたワンマン車である。滋2い27
01~2705、2708~2719、2721~2723の20両在籍し、代行輸送終了後も主力として活躍した。(55-1-6 浜大津)

滋2い2739/いすゞBU05(44年式川崎重工)

鉄道廃止時に代行輸送用として作られたツーマン車である。滋2い27
06、2707、2720、2733~2740の11両在籍した。代行輸送終了後、前後扉のワンマン車に改造して引き続き使用される予定であったが、実際に改造されたのは「滋2い2737」1両のみで、他の車両は譲渡された。(49-12-19 堅田駅)

滋2い2737/いすゞBU05(44年式川崎重工)

上のグループ改造車である。改造が中止となったのは、費用が掛かりすぎるためと言われている。
(55-1-6 浜大津)

〔京阪バス〕
滋2い 858/ふそうMR480(38年式三菱重工)

中1扉のツーマン車で、石山駅~上千町・岩間寺間で昭和51年頃まで使用されていた。
(51-3-23 浜大津)


バックビュー

滋2い 884/ふそうMR620(40年式クレハ)

ふそうの中型車の元祖。ボンネットと共通運用で長等公園~浜大津~朝日ヶ丘住宅等で使用されていた。当時としては斬新なスタイルであった。
江若にも同型車が1両(滋2い1065)在籍して、和邇~途中線等で使用されていたが、スプリングの破損事故があり早々に姿を消した。悪路の走行には不向きであったのかも知れない。(50-3-2 浜大津)

滋2い 888/いすゞBXD30(40年式帝国)
 
昭和51年頃まで長等公園~浜大津~朝日ヶ丘住宅、石山駅~大石~曽束間で使用されていた。
(49-12-15 浜大津)

滋2い2589/いすゞBU10(43年式川崎重工)

京阪バスではリヤエンジン車のいすゞは珍しかった。
(50-3-2 浜大津)

滋2い2762/ふそうMR470(42年式クレハ)

後部の窓が独立窓から連続窓に替わって間もない頃の車両で、後部の形状から「クレハの丸型」と呼ばれていた。
(51-3-23 浜大津)

滋22か 379/ふそうMR480(40年式クレハ)

前述の38年式の代替のため門真支所から転属してきた車長の短い車両。元の登録番号は「大阪2あ 126」である。
(50-1-1 浜大津)

滋22か 381/ふそうMR470(40年式三菱)

中1扉のツーマン車で比叡山線で使用されていた。座席は定期観光車と同じであったため、春、秋の休日には定期観光で使用されることもあった。「滋22」の登録番号は京都営業所からの転属車のためで、元は「京2い1268」であった。
(50-1-1 浜大津)

〔近江バス〕
滋2い 358/ふそうMAR470(39年式クレハ)

元貸切車に中央に扉を取付け路線車に改造した。エアサスで座席は貸切時代のままのリクライニングシートのため乗り心地は良かった。名神大津より大津駅、浜大津、堅田を経由して琵琶湖大橋を渡り守山駅行で、現在は堅田駅~守山駅間の運行となっている。
(49-12-15 浜大津)

滋2い 427/ふそうMAR470(42年式クレハ)

前中扉のワンマン車で、エアサスであった。
(49-12-15 浜大津)

滋2い2693/ふそうMR470(44年式クレハ)

前後扉のワンマン車で後部扉が引戸である。
(50-3-2 浜大津)

滋2い2864/ふそうMR470(45年式クレハ)

前後扉のワンマン車で後部扉が折り戸である。
(54-11-18 浜大津)

〔滋賀交通〕
水口から栗東インター~大津インター間名神高速道路を走行して浜大津までと、一部の便は自社の自動車教習所まで運行していた。また、水口~京都駅八条口間の運行もあり、大津市内や京都に向かう人にとっては乗換えが無いため便利な存在であったが、マイカーの普及による乗客減により廃止された。

滋2い2838/ふそうMR520(45年式三菱)

滋賀交通は車長の短いMR520が主力であった。
(51-3-23 浜大津)

 滋22か 631/ふそうB805L(43年式三菱)

昭和52年に貸切車に後部扉を設置して路線車に改造した。座席は貸切時代のリクライニングシートのままであった。
(54-11-18 浜大津)


【17016】都電荒川線のクリスマス

12月22日と23日の16時~18時まで、荒川車庫に於いて正面にリースを取付けた花電車がクリスマスツリーと共に展示された。22日に会社帰りにコンデジで撮影したので報告方々ご覧いただきたい。運転されなかったのは残念であるが、今後もこのような形で活用されることを期待したい。


16時30分、現地到着直後の撮影。


到着1時間後17時30分頃撮影

8809との並び


【17054】失業者二人の旅日記  初冬の大地へ      Part8 雅満蘇(牙曼苏;Yamansu) その2

第7日目 12月6日 雅満蘇

蒸気機関車が撮れないなら、せめてレールバスを入れて撮りたいと発車時間の確認をお願いしていましたが、 朝食中に出発してしまいました。関係者と連絡を取っていたアイグリさんでしたが、上手くいかなかったようです。仕方ありません、お奨めの撮影地に案内をお願いしました。


▲ グーグルから作成しました地図のとおり、路線は道路と離れています。アイグリさんの一押しは、かつて站があった雅山です。途中までは舗装された道路がありましたが、直角に右折して砂漠に入り、道なき道を適当に走ります。約30分で到着しましたが、列車交換が出来るようになっていました。周りに人家などありませんので、站というより信号所です。

雅山站から雅満蘇方向の小高い丘に登って、山口方面から折り返すであろうレールバスを待つことにしました。アイグリさんは、何度も電話して列車が来る確認をします。
待つ間にここに来た日本人はおられたのですかと聞きますと、旅行社のオオタニさんという方が2度、他に4人1組の日本人が来られています。欧米人も1組来られています。私達の訪問は5番目の案内ですと言われました。
さすが三道嶺のようにたくさんの列車が走行する事がなく、不定期で走っても一日1往復では、訪れる方はわずかのようです。



▲ 待つこと約40分、11:45、ようやくレールバスがやって来ました。雅山站をバックにしたのが上の写真、雅満蘇方向に走り去るのが下です。一面の砂漠ですが鉄分が多いのか黒く輝いていました。撮影場所②

そして、地図からチェックしていた唯一の橋まで行ってもらうようにお願いして、乾いた川底を走りました。
約30分で到着後、線路際の小高い丘に登ると拡がる絶景が見渡せました。撮影場所①
今回は、蒸気機関車の運転手にフォトランを依頼する手はずを整えております。これだけ見渡せたら撮影は自由に出来ます。ただ、通過するのが日の出前後で微妙な時間なのが問題ですが、上手くいけば朝日と一緒に撮れます。期待が高まりました。

他にも数箇所をチェックして、準備は万端です。

14:45、時計では遅い時間ですが、ここでは丁度の昼食タイムです。ビールを飲みながら、ゆっくりと美味しいウィグル料理を味あいました。


▲ それでは、宿泊のチェックインとなりましたが、 案内されたのは、これでもかとボロボロの招待所です。室内にTVとは5台のベットがありますが、暖房は石炭ストーブ、床は土です。シャワー、トイレはなし。共同トイレはどこかと聞くと、はるか先の荒地を指差されました。中国も含めあちこちに宿泊しましたが、これ程の所はありませんでした。O氏も唸っていましたが、安全検査院の偉いさんが来ているので、ましな宿泊所は関係者が使うので部屋がないとのことで仕方ありません。3泊を過ごすことになりました。


▲ もう1台レールバスがありましたが、朝見たのとは整備状態が違っています。車体には、新疆雅満蘇礦との表示がありました。これがこの鉄鉱山の正式名称なのですね。 朝のレールバスは、施錠した書庫に入れてありました。
▲ 車庫には、まだ2台いるようだとO氏が言われますので、入らせていただくと、8152号機8028号機が修理中でした。合計4台が在籍していることになります。

検査会議の終る18時には、明日のダイヤが決まると何度も関係者に連絡を取っておられたアイグリさんでしたが、我々が眠る時間までは吉報は聞かれませんでした。


【17103】梅小路機関車舘での「蛍の光」

梅小路機関車間の開館は1972年と記憶するが、1975年の大晦日、民放TV共同での「行く年来る年」の極めつけは梅小路機関車舘での、蒸機汽笛による「蛍の光」だった。この曲は8音階でできているから、8両の蒸機の汽笛共鳴室の容量を加減して1両1音とし、山本直純が指揮して、オーケストラをからませ「蛍の光」を演奏したのである。つまりは8両の蒸機に同時に火を入れたことであり、当然組合も、機関士や助手のOBたちも、全力を挙げ協力したのは間違いない。

これをM君が録音し、そのテープを貰っていた。最近はアナログテープを聴くこともほとんどなく、先だってテープデッキを使おうとすると、中に入れたままのテープ再生は出来るが、取出しが不能。当然交換もできない。修理に出すと直るかどうかといわれ、1万円ぼったくられたが、目出度く再生は復活。

で、本日何十年ぶりかで、M君のテープを再生してみた。後期高齢者の身体各部は老朽疲弊甚だしく、パッキンがことごとく劣化し、尾篭な話だがありとあらゆる排泄部がよろしくない。要は「締り」が悪い。当然涙腺(これも排泄部に違いなかろう)も著しく脆くなっており、すぐ泪が出るのは「生来」感受性が高いからだと強弁しているが、老齢劣化には違いない。

36年ぶりのテープは幸い健在だった。蒸気機関車の汽笛で音楽を演奏するというアイディアも良かったが、「蛍の光」の何ともいえない哀愁と蒸機の汽笛とのマッチが言葉に尽せない。

そういえばM君はDRFC-OB会に顔を見せなくなって久しいが、元気で商売に励んでいるんだろうなぁ。


【17097】連接車2

 年末の駆け込み投稿で賑わっております。大変結構なことですが、おかげで先日の連接車1もはるか彼方に追いやられてしまいました。私も駆け込みで連接車2を登場させます。前回は名古屋市電で終わりましたので今回は同じ名古屋の名鉄を採り上げました。

           1973.3.4 谷汲線更地2151+連接車401

           単車を改造して連接車にしたもの

 

          2005.3.6 美濃町線上芥見 岐阜行き880形 

          880形は美濃町線廃止後福井鉄道に譲渡 

 

          2005.3.6 美濃町線上芥見 関行き875+876 

          元札幌市A841+A842


【17086】年末 大慌ての決算報告(2)

「高崎周辺が騒がしい」と以前の掲示板にも投稿がありました。高崎を中心に群馬県下では”群馬デスティネーションキャンペーン”が繰り広げられ、「ぐんまツーデーパスSP」を手に現地を訪れました。9月は多くの鉄道イベントが目白押しで、C61も含めた蒸機の運転も盛んに行われましたが、イベントは避けてもっぱら私鉄巡りに時間を費やしました。
「ぐんまツーデーパスSP」は、2日間、群馬県下のJR・私鉄乗り放題で3600円、これまた超お買い得切符で、JR東日本の大人の休日倶楽部会員だとさらに安くなるため、わざわざ同会の会員になりました。JR西日本内の居住であっても、J東日本の格安企画切符は大きな魅力です。制限の多い格安きっぷをうまく利用できるのも、毎日が日曜日族の特権ではあります。

▲上信夕景 出版社での仕事が予定外に早く終わったため、東京から明るいうちの高崎入りとなった。まだ宿へ入るには早い。日が暮れるまでのひと時に、ふと思い付いたのは上信電鉄南高崎~根子屋の烏川鉄橋だった。3年前に来た時は急にカメラの調子がおかしくなり、眼前を通過する電車を泣く泣く見送ったことがある。今回はリベンジでもある。南高崎で下車して歩き出すと、ちょうどいい具合に陽が傾き始め、鉄橋を渡る電車がシルエットになった。

▲”わ鐵”爽秋 群馬県下の3私鉄に全線乗車したが、いちばん印象的だったのは、わたらせ渓谷鐵道(わ鐵)だ。前身の足尾線から通じて初乗車となったが、沿線の光景にすっかり魅せられた。栃木県に入る北半分は、ずっと渡良瀬川に並行している。そして、沿線の上神梅、神戸、沢入、通洞、足尾などの駅をはじめ38の施設が登録有形文化財に指定されており、昔の国鉄時代が、ごく自然に、そのままの形で残っている。好天もあいまって、清々しい光景が続く。
終点の間藤から、川沿いに歩き、次駅の足尾まで来た。背後の緑、青空に木造駅舎が美しく映えていた。丸型ポストもいいアクセントになっている。つぎの列車が来るまで、ポッカリ空いた時間、付近をウロつくのが無上の楽しみとなった。すぐ近くで公開されている明治建築、古河掛水倶楽部も、たいへん興味深く内部を見学することができた。


【16982】阪神電鉄国道線(3)甲子園線

 さてさて、3回目は甲子園線です。当線は先の国道線建設のように、阪急や省線との対抗や、それらの防衛対策上から建設されたのではない。

『大正末期から昭和初期にかけて、阪神電鉄で推進された支線計画のうち、その使命がもっとも純粋に輸送・開発機能に置かれたのが、甲子園線である。当社は、大正1110月に買収した武庫川の支流であり、洪水対策から廃川になった枝川・申川の廃川地の開発のため、大正14年甲子園・甲子園浜間および甲子園・上甲子園問の軌道敷設特許を申請し、それぞれ翌大正15年に特許を得た。そして、早くも716日から甲子園・甲子園浜問、昭和3711日には甲子園・上甲子園間の営業を開始した。甲子園線はさらに昭和579日には、今津出屋敷線の一部である浜甲子園・中津浜問(複線、42チェーン13リンク)の営業を開始し、上甲子園。中津浜間を通常4車両で営業する体制となって、甲子園開発のバックボーンを形成した』のである。(阪神電気鉄道八十年史、阪神電鉄より)

 さらに、『昭和初期までに、大阪・神戸の2大都市よりも阪神問地域に人口増加が著しく進行し、市街化、住宅地化が拡がるようになった。昭和初期における支線展開やバス路線の開設は、こうした趨勢に対応するものである。』(中略)

『当社は,単なる路線展開にとどまらず、地域開発の形でこのような趣勢を積極的にリードした。その最大のものが甲子園開発である。甲子園は、大正1110月に兵庫県から410万円で譲渡された224000坪の枝川・中川廃川敷の開発から始まり、大正137月に完成した野球場が開発の初めであった。甲子園の住宅地としての開発は,大正151025日、株主総会で「食堂業及び土地家屋の売買等」を定款に追加を決議することから出発した。昭和371日から「甲子園住宅経営地」の第1回分譲が始まった。この第1回分譲地は、阪神本線の甲子園停留場の北側、旧国道付近から甲子園線沿いに拡がる中甲子園であった。』(出展:同上)

 このように、甲子園地区は北側の甲子園一番町から、海側の十番町に至るまでの街づくりがはじまり、甲子園線が活用されたのです。現在も、十番町を除いて地名番地がそのまま残っています。

国道側から眺めた甲子園線。今ちょうど211号が終点に到着して、客扱いを始めている。ドアーは車道側でなく、反対の軌道側を開けている。遠い画像だがステップの降りているのが見えます。

91号が軌道の下り車線側に入って来た。この後、客扱いと、Yゲルを転換し出発する。終点手前にX字クロスポイントがあり、亘ってから客扱いし直進で折り返す方法(上の写真)と、直進後客扱い(先のカラー写真)し、その後亘って折り返す二方法が採られていました。

同じ91号の反対側。右手が進行方向の浜甲子園側、電柱に駅名票が見える。乗車待ちらしき女性の姿も。左手が本線上甲子園。9191号。終戦直後の1947年、製造割当が少なく3両だけの製造になった内の1両。汽車製造製。

211号の出発。客扱いを終わりYゲルを転換、少し先のクロスで下り線に亘り、甲子園浜に向かう。右手に駅名票、カラーでよく判る。進行方向にに第一生命のビルが、現在もこの地で同じ姿で残っています。


71
号。上甲子園行き。この71号は74号と共に、後にパンタグラフに付け替え、武庫川線に転出。その後尼崎市の公園に静態保存されています。(後述)

 
71号の後ろ姿。周りは敷地の広い戸建ちの、静かな住宅街です。

211号。甲子園駅の北側。緩やかなカーブを経て、北の方向上甲子園に向かう。

阪神本線甲子園。高架上が甲子園駅の西側部分。高架下の甲子園線甲子園駅を出発、北に向かう。付近の電柱に赤い“ワシとんかつソース”の看板が目立つ。近畿地方にとんかつソースメーカーは多いけれど今も残っているのかしら。電車と全く無関係な話でした。
 これで甲子園線と国道線の紹介はお仕舞いです。阪神パーク前や浜甲子園の写真はありません。子供たちを連れて阪神パークにレオポンを見に行ったことはあるのですが、子供たちに精一杯で電車どころでなかったのでした。

 

 尼崎市の公園2か所に、71号と74号が静態保存されています。

尼崎市藻川公園。フェンスが車両ぎりぎりに作ってあり、姿をよく撮影できません。上の覆いも屋根ギリギリです。腰下のマルーン色がすっかり褪せていました。近くで見るとさすがに大きいです。バスよりも大きいでしょう。電車側面に案内板がありました。

 

上の公園の近く、尼崎市水明公園。尼崎センタープール(競艇場)の北側にあります。ここもフェンスが二重。木が生い茂り全容が見えません。わずかに往年の姿を思い浮かべられる程度でした。寂しさが一層増しました。 

 電車好きの少年の頃、尼崎から神戸・平野の叔母宅へのルートが34通りありました。阪神電車本線出屋敷→三宮→神戸市電→平野。国道線→東神戸→脇の浜→市電。国道線→住吉駅前→省線電車→三宮→市電。省線立花→三宮→市電。 

 住宅が尼崎市の中南部でしたこの頃、阪急電車は全く利用しなかったですね。そして国道線、神戸市電がもうとっくに無くなった今、同じ尼崎市の阪急沿線に住んでいます。


【17069】年末大慌ての決算報告 (1)

年も押し詰まってきました。今年は、私自身の写真展がまだ開催中で、その準備・対応に忙殺され、掲示板投稿もままならない状態での年末突入となりました。個別の記事は今さら望むべくもなく、ここでは、今年をまとめて大慌てで振り返ることにしました。
毎日が日曜日状態が始まって3年目となる今年、鉄道旅行に関してはすっかり少なくなってしまいました。3泊程度の旅行が数回だけ、海外はもちろん、北海道・九州へも行かず、もっぱら近郊ばかりでした。堰を切ったように出かけた昨年とは大きな違いでした。さまざまな事情もありますが、のちほど述べる心情の変化に依るところも多いようでした。

▲3・11の最終「雷鳥」 今年、「雷鳥」がついに消えた。イヤほど走っていた「雷鳥」だったが、消えるのはあっけなかった。最終日の3月11日は朝から追い掛けた。15時過ぎ、新幹線京都駅を通ると、なにやら騒がしい。新幹線が運転抑止と駅の案内が伝えている。たいして気にも留めなかったが、電車内の乗客の会話から東北地方で大地震が起こったらしいことが判った。
夕方に発車する最後の「雷鳥」はどこで撮ろうかと考えた。「雷鳥」の運転初日の昭和40年12月1日、高校一年生の私は京都駅で撮った。同じ京都駅1番ホーム(現0番ホーム)で「雷鳥」を見送ろうと考えた。やや薄暗くなりかけた1番ホームに来たのは、ボンネットではないものの、国鉄色を纏った485系である。サイドだけなら45年前の光景と変わらない。運転初日、京都駅1番ホームにはほんの2、3人が写していたように思うが、今は自分の子・孫のような世代に取り囲まれて写していた。

▲激安切符で四国へ もっとも遠くへ行ったのは、バースデーきっぷを使った四国だろう(と言ってもわずか3日だが…)。この切符、誕生月のみの発売で、四国の特急グリーン車乗り放題で1万円ポッキリという破格もの。もっとも四国でグリーン車込みの特急は少なく、1度乗った切りだが、土佐くろしお鉄道も乗れる。私は初日から乗り倒し、予讃本線の一部を除いて、JR・土佐くろの全線乗車ができた。憧れの下灘へも夕方を狙って下車した。期待の夕陽はイマイチだったが、色温度を変えて楽しんでみた。
撮影以外に、旅行のもうひとつの目的である近代建築を中心にした街歩きにも精を出し、未踏の地であった愛媛県西部の八幡浜、内子、大洲、宇和島も短時間ながら訪問することができた。

▲路面電車の街で 四国でもうひとつ、高知・土佐電はりまや橋交差点で、四方向から来る路面電車を体感したかった。夕景を、まず交差点西の歩道橋から狙ってみた。泊まりも、すぐ近くにある、トレインビューが売り物のホテルを選んだ。朝のラッシュ時に、この交差点に立つと、まだ路面電車が街のインフラを維持していることが体感させられた。
ホテルの客室からも確かに、交差点の全景が俯瞰できる。すべてに渡り線のある交差点はここだけのようだ。普段は通らない渡り線を回送電車が行く光景も撮れた。ただ、背景に、以前はデパートがあったはずのところに、今は何とパチンコ屋が煌々と交差点を照らしている。これも地方都市の一断面でもあるのだった。


【17025】失業者二人の旅日記  初冬の大地へ      Part7 雅満蘇(牙曼苏;Yamansu) その1

第7日目 12月6日 哈密→雅満蘇

早朝6時前、哈密のホテルをアイグリさんも同行して出発しました。目的地の雅満蘇(牙曼苏)までは、約120キロ、鉱山鉄道の起点がある中国鉄路の山口站までは、鉄道線では97キロあります。道路灯もない真っ暗闇を東方向に約2時間強を走り、近くからは迷走を重ねてようやく8:14山口站に到着しました。以前に来た時の道がなかったそうです。

なぜに山口站に立ち寄るかと言いますと、雅満蘇鉱山鉄道は、定期列車がありません。いつ何時に走るかは、この站にある雅鉄の事務所に来て聞かないと分からないのです。 ただかすかな情報では、8時ごろに山口站を発車して山の鉱山まで行くらしいとO氏がおっしゃいます。
站の構内には煙が見えません。事務員の返答は、「今日は走らない」でした。 ガックリと肩を落としましたが仕方ありません、雅満蘇へ向けて約35キロの真っ暗の道を登っていきました。

9:02雅満蘇近くで朝日が上がりました。ほぼ三道嶺と同様です。山口から雅満蘇までは、列車で約1時間30分前後かかるとアイグリさんは言われます。と、言うことは、終点の雅満蘇近くでないと撮影は不可能です。これではかなり撮影場所が限定されます。

▲ 9:13雅満蘇站に到着しました。構内には建設型8423号機が蒸気を吹かせて息づいていました。さらに奥の車庫には6495号機の姿も見えました。走れる蒸気機関車がいることが分かり一安心しました。


▲ 小さいながも石炭積込みと給水設備があります。朝日も浴びて紅く染まっていました。

▲ 不思議なことに構内に鉄鉱石を運ぶ貨車が見当たりません。これが後々に我々を悩ます根源の一つでした。



▲ 右方向に進むとプラットホームもある雅満蘇站がありました。1駅ですが駅名版もあります。カーテンまである整備された小さなレールバスが止まっていましたのでお断りをいれて見てみました。
後でアイグリさんから、今日は安全検査院がお見えになられているそうで、これに乗車して山口站まで往復されると聞きました。蒸気機関車が走らないのも検査院のお偉いさんが来られているためだそうです。昨日は走ったそうで、都合の悪い時に来たものです。しかし、通常は車庫に入っていてめったに見られない、このDCを見られたのはラッキーでした


▲ 10:19、ようやく朝食です。アイグリさんが案内してくれたのは、外観はボロボロの回民食堂ですが、結構ウィグル人で満席です。注文してもらったのは、羊肉の肉汁が美味しい肉マンと羊肉のスープでした。5人で60元(約750円)といつもより高額なので明細を聞きますと、肉マンは3個で2元(25円)ながら、スープは10元(125円)もします。最近、放牧が禁止されてから羊肉の値段が上がる一方で、キロ48元(600円)もするようになったので高くなったのよと、説明を受けました。京都西山にあります睛春庵に住いしますぶんしゅうは、毎日の食事当番をしておりますので、食料材料の価格には敏感です。キロ600円とすると。100g60円です。ほぼ豚肉と同等か、2倍程度です。中国の物価からしますと、かなり高額と言えます。

原因は、黄砂対策です。放牧されている羊は、草の根も食べてしまうそうで、放牧地を砂漠に変えるために一帯は放牧が禁止され、羊が激減したのが原因だそうです。
三道嶺では、途中で哈密に帰られたアイグリさんですので、あまり話す機会がなかったのですが、日本語が堪能です。聞けば、ウルムチの大学授業で学んだそうです。

雅満蘇の街に入る前も、かつては15万人が住む町だったが、今は家族も哈密に引っ越して15日サイクルで勤める人達が雅満蘇に来ています。雅満蘇の語源はウィルグ語で、”悪い水”の意味で生活するに適さない所なのですと流暢な日本語で説明を受けていました。もっと早く気づくべきでした。それからは、直接に質問をすることにしました

朝食後は、明日からの撮影のためにロケハンをすることにしました。、


【17032】年末の広島

KAWANAKAです。

暮れも押し迫ったときに如何にも内容の乏しい投稿で申し訳ないが、仕事の合間をみて老年切符など利用してうろついています。ぶんしゅう氏には遥かにスケールが及びませんが、今月の初め広島にふらりと行ってきたのでお付き合いを。

実は関東支部の会合でI氏の広電写真に触発されて俄かに京都市電に会いたくなり出かけた次第。

そのことを西村氏に伝えたところ、多忙な中、三原でミニロケをご一緒することになった次第。氏は三原に居を構えられているが糸崎でお会いすることにした。昔、40年以上前2人で夏のくそ暑い中、降り立ったのが印象に残っており、会うなら糸崎ということにした次第。糸崎は知らないうちに無人になり、あまりの変貌振りに驚いたのであるが最近の人件費削減は凄まじいものがある(東京地下鉄でも長大編成のワンマンが進んでいるのでびっくりすることはないかもしれないが)。

西村氏推薦の目玉は、キハ47のマリンビューで電化の呉線を走っている唯一のDC。三原まで下った列車は広島へ向けての発車まで時間が長いので、三原のたった呉線の1線を明けるために忠海まで行って折り返すというスジになっていて(これは後ほど西村氏が確認)都合4本キャッチできる。

西村氏のパジェロでロケをさせて頂いたので、その1枚を掲載。小生は結局、折り返しに乗って広島へ向かうことにした。西村氏は所要のため広島には同行できなかったが、如何にも氏の人柄の丁寧な案内に感謝した次第。ご存知かどうか知れないが氏は野鳥や辻堂の研究でもそれなりの成果を出しており、改めて幅の広いのに感心した次第(その後、ロケで気になって仕方がなくなった)。

広島へは夕刻の到着、宿の袋町まで歩きながら撮影。

駅前ではお目にかかれなかった京都市電にやっと会えた。

あくる日、夜明け、車に被られないうちに撮影。撮りたかった如何にも広島らしい2枚を掲載。

ついでで申し訳ないが、往年の市電の風景を彷彿させる2枚。

約800枚の写真が残ったが、ロケの報告を兼ねて掲示させていただいた。

改めて西村氏に礼を言いたいと思う。