海外写真展開催のご案内

私事で恐縮ですが明日9月27日(水)~10月2日(月)に鉄道写真家小竹直人先生と一緒に海外へ行っております仲間たちとの写真展を東京のリコーイメージングスクエア新宿にて開催させていただきます。
お時間ありましたら、お立ち寄りください。よろしくお願い申し上げます。
私も期間中の9月30日(午後)から10月1日(夕刻まで)は現場に入っております。

9月26日の障害について

本日、新規投稿や管理ページへの新規ログインが行えない事案(Cookieが拒否されるためWordpressにログインできない・白紙の管理ページが表示される)が発生しました。
原因は不明です。WordPressの再インストールとプラグインの再設定、founction.phpとwp-config.phpの設定変更、セキュリティレベルの変更を行い、管理者側の環境において上記症状は改善しました。
継続して不具合が見られる方は、こちらの記事のコメント欄へご意見をください。

追記:原因はWordpress4.8.2に自動アップデートされた際、レンタルサーバ(さくらインターネット)側のPHPバージョンが5.4以下になっていたためでした。PHP5.6.31にバージョンアップすることで正常動作するようになりました。
この変更に伴い、RandomImage Pluginが動作しなくなったため、トップページ(https://drfc-ob.com/wp/top)のトップ画像が表示されなくなりました。

5万人の写真展 広島会場

中学時代からの親友を亡くされ落胆されている米手作市様への気付け薬になればよいのですが。昨日から3日間だけ広島市の紙屋町交差点の真下にあるシャレオ中央広場で開かれている同展を見ようとカープ花電車撮影を兼ねて広島へ行ってきました。

平成29年9月23日 広島市紙屋町シャレオ中央広場

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旧型電車を追って(73系)

大阪環状線から最後に残った103系一編成が姿を消すという。しかも103系にちなんで10月3日で。大阪駅で当たり前の景色のようだった103系だが、正直よくここまで生き永らえた、という感じもする。首都圏では103系の活躍はもっと以前の話で、今やE233系、山手線ではE235系も投入されている。時代は移り変わる。103系だけでなく広く標準的な車体規格の20メートル4ドアロングシート車体も源流を辿れば古くは73系(モハ63)に行き着く。103系でなじみの前面10度の傾斜角を持たせた窓も、クハ79の300番台の昭和29年製まで遡る。私自身は1985年度生で、その年の3月には富山港線の73系が引退。その前年10月には可部線の73系が引退しており、DRFC入会時点で残存している営業線上の旧型国電は鶴見線大川支線のクモハ12と小野田線雀田支線のクモハ42だけだった。旧型国電を撮影するには、私は完全に遅れてきた青年であった。東海道緩行の旧型国電は小学生の時に引退しているので少し覚えているが、京浜東北線や横浜線など首都圏での活躍は想像の世界となる。73系については、既に多くの書物が刊行されており、インターネット上でも充実した内容の掲出が多くある。偶然であるが、ピクトリアル最新刊も72系旧型国電。なぜ今73系なのかとも感じるが、その最末期、可部線と富山港線で撮影することが出来たので、既出の内容ばかりで恐縮だが、自分自身の振り返りとして、主に実際に見た車両に焦点をあてて投稿させていただく。

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飯田線1973年8月

総本家青信号様、どですかでん様に刺激され、便乗させてください。場所の不明な飯田線の写真があったのですが、お二人のお蔭で遠い記憶を戻すことができました(私は何も分析できていなくてすみません)。1973年といえば会社へ入って2年目でフトコロの余裕は出来たものの自由な時間が少なくなり、正月や連休、会社の夏休みを利用しFさん、I氏について出掛けたたものです。当時は鉄道の写真を撮るだけで満足していましたが、今となってはやはりデータは取っておくべきだったと考えさせられます。総本家さんの言われる飯島-伊那本郷の与田切川と思われます。 続きを読む

鉄道には無関係な事ですが・・

かつて同志社大学のラグビーが大学日本一になった時代がありました。それも三年連続で。
その時、指揮を執っていた監督が伊藤 武君です。中学からの付き合いは亡くなるその日まで続いていましたが、突然の悲報で断ち切られました。同志社高校の学年同窓会長を永年続けてくれて、10月7日に18回目の総会を開く直前での退場となったのです。19日の午後、打ち合わせのため二度電話しましたが出ないので翌20日昼にもう一度掛けても出ないため不安になり(永年糖尿病を患っていた)夜、主治医の同級生に電話したところ「いま奥さんから電話で、帰宅したら死んでいた、との電話があり今から行くところ」とのことでした。検視の結果死亡時刻は私が電話した20日の昼頃だったようです。

毎週のように高島屋に車を置いて私の近くの喫茶店まで歩いてきてコーヒーを飲むのが彼の糖尿病療法でしたがそれもできなくなりました。「ブル」の愛称で同級生みんなに愛された60年でした。

DRFCに関係のない話で誠に申し訳ありませんが、聞いて頂きたくて投稿いたしました。お許し下さい。
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広島便り

カープ優勝で盛り上がる広島からのニュースです。

平成29年9月21日 中国新聞朝刊

広電900型(元大阪市電2600型)の1両がソウル市に来年度開園する鉄道公園内で走るそうです。記事には何号車とは明記されていませんが、譲渡車両は906号のようです。900型は901~914の14両がいましたが、すでに901、902、903、908、909号の5両は廃車されていて 9両が全車江波車庫所属で活躍中です。とは言え1000型の増備が進んでいますので、次第に出番が減っているようです。京都市電1900型はまだ1両も廃車されずにがんばっていますが、超低床車に乗り慣れてきた乗客からは、「よっこらしょ」のステップは不評のため、いつまでも活躍とはゆきそうにありません。ミャンマーに渡った3000型がシートをかけられて惰眠のようですが、900型がそういうことにならないように願うばかりです。906号の写真を1枚添えておきます。

906号と911号 平成28年11月9日 広電本社前付近にて

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -13-

飯田線④   F地点  飯島~伊那本郷

五万分の一の地形図を眺めていると、先述の田切~伊那福岡とウリふたつの地形が、3キロ南の飯島~伊那本郷にも存在することが分かります。地図上で等高線を赤線でなぞると、同じ田切地形と分かり、飯田線は急カーブで上流へ回り、与田切川を渡り、またもとに戻ります。前後のカーブは、こちらの方が開けていて、撮りやすい感じがします。鉄橋の長さは74m、長さも様式も田切~伊那福岡と同じですが、下路ガーダーが逆台形であること、橋台が一部煉瓦積みであることが違っています。
本掲示板の前項で“どですかでん”さんが、地図から推測して撮影区間を特定されていますが、私もよく似た田切~伊那福岡、飯島~伊那本郷は、手帳を見返しても、どちらで撮ったのかよく分かりません。地図と見比べて、ようやく判明しました。快晴のもと、与田切川を渡って行く1251レ、ED193が牽く

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北欧のたび7(イェーテボリのトラム)

スウェーデンには前回ご紹介したストックホルムの他、ノルショーピンとイェーテボリの3都市でトラムが運行しています。その中で規模の大きいイェーテボリを訪れました。イェーテボリはスウェーデン第二の都市、ボルボの本社があることでも有名で、ストックホルムから約470㎞、特急列車で3時間20分のところにあります。スウェーデンの鉄道の予約もネットで簡単にできるのでどの列車に乗ろうかと調べていると、早期割引で2等車と変わらない金額で1等に乗れるのがありました。443SEK(約6100円)ためらうことなく購入、1等はストックホルム駅のラウンジが使えると書いていたので朝食は控えめに、30分ほど前に駅に着きました。目指すラウンジに行くと何と土曜日は休み、がっかりでしたがその分ホームで撮影時間が取れました。

↑ SJ2000型特急列車、最高時速210㎞ 続きを読む

大捜査!「イメージは木枯し紋次郎」はどこ?

 伊那谷といえば「木枯し紋次郎」のイメージがつきまとう。「木枯し紋次郎」オープニングタイトルの最初の場面は背景に山々が連なっている道を紋次郎がこちらへ向かって歩いてくる。撮影された場所を調べている人がいて、それをネット上で見ると長野県伊那市高遠町にあるとのことである。やはり飯田線沿線の伊那谷であったようだ。

 飯田線には学生の時に3回行っている。しかし、最近はご無沙汰である。よくテレビなどで秘境駅の紹介やツアーで秘境のローカル線乗車などと注目されているが、当時は蒸機に比べれば注目度は低かったと思う。それでも鉄道雑誌には時々紹介され、私が後に3回も飯田線へ行くきっかけになったのは「鉄道ファン1966年9月号」にある「鉄道ファン・フォトサロン 宮沢孝一作品集」である。宮沢氏はこの作品集に書かれている文によると特に金野、唐傘、千代あたりを好んで行かれて撮影されている。写真を見るにつけ、いつか行ってみようと思い続けていた。そして初めて飯田線に踏み入れたのは1970年夏の清里合宿の後である。ところが残念ながら写真はない。映像は頭の中。途中、温田の南宮ユースホステルに泊まったのであるが、少し早く着いてしまった。俳優の浪花千恵子さん(若い人は知らないと思うが)に似たおばさんがまだ利用時間前なのでユースに入ることできないと言われたので、近くをブラブラする。ちょうどユースは駅のすぐ裏であった。ここで次の年に夏期合宿をするとは・・・

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塩江温泉鉄道

この我国唯一の非電化で軌間1435mm鉄道に関しては、デジ青でも何回か話題になった。たしかぶんしゅう氏の中国長春記事にもあった筈。で、再度か、再々度かの講釈を。標準軌間の琴平電鉄の仏生山から、塩江(しおのえ)温泉のある塩江まで16.1km、免許1927年12月15日、開業1929年11月12日。当初軌間1067mmで計画され、免許もそうだったが、1928年6月7日起業目論見書を変更し、標準軌間に変更した。これは高松から貨車を直通―仏生山までは琴平電鉄の電車に連結し、自社線ではガソリン機関車で牽引、旅客はガソリンカー、というものである。有蓋貨車、有蓋緩急車各1輌を備える計画であった。最急勾配は33‰ときつい。

1929年8月28日瓦斯倫自動客車設計認可。川崎車輌最初のガソリンカーで、両端を絞り、妻面は1枚窓、側面も変わっていて、窓2個セットが3組だが、セットの窓2個の間=通常なら間柱だが、その部分にもガラスが嵌め殺されている。足回りは片ボギーで、機関はブダDW-6。ともかくは旅客だけで開業したが、川崎車輛製車輌が大欠陥品で散々な幕開けであった。その期の営業報告書には次のようにある。

「不幸ニシテ車輌機械部分ニ不備ノ点アリ故障頻発製造者川崎車輌会社ノ熱心ナル修復アリシニモ拘ラス著シク運転状態ヲ乱シ大ニ人気ヲ阻害シタリ其ノ後11月下旬ニ至漸ク故障原因ヲ発見修繕ニ努メタル結果無事平常運転ニ復スルヲ得タルモ時既ニ閑散季ニ入リ予期ノ成績ヲ挙ケ得サリシハ誠ニ遺憾トスル処ナリ」

「車輌ニ関シテハ其ノ設計、製作、組立共全部神戸市川崎車輌会社ニ委託シ営業開始前入念試運転ヲ行ヒ其ノ完全ヲ図レリトモ納期稍遅延セル為長期ニ渉ル試練ヲ経サリシニ依リ開始後幾何ナラスシテ故障頻発セシハ甚タ遺憾トスル処ナリシモ鋭意故障ノ原因ヲ調査シ改良ヲ加ヘ今ヤ殆ト完成ノ域ニ達セシハ欣幸トスル処ナリ」

要は川崎車輛がガソリンカー第一作なのに技術を過信して、軽量化を図り過ぎたようで、輪心が車軸から抜け出すという、聞いたことのない不始末が連続した。価格も5輌5万円ときわめて高価だったが、後々まで4,000円の支払残があり、支払拒否であろう。

貨物の方はトラックの隆盛に勝ち目がなく1931年貨物運輸は起業廃止断念した。このため1435mでのガソリンカーという珍物になったのである。1933年5月1日琴平電鉄に合併し、1941年5月11日廃止。車体を生かし、足回りをブリル2軸台車に代え、当時満州国の首都であった新京(敗戦後長春)の路面電車に化けた。

なお先述のように車体両端が絞ってある為、正面からの写真ではとんでもなく車体幅が狭く見え、従前「標準軌間の軽便」とか「車体幅と軌間がほぼ同じ」などと無責任極まる記述が大手を振って横行し、かつ引き写された。しかし車体実幅は2,250mmである。

塩江温泉鉄道

朝日新聞デジタルにこんな記事が出ていました。

「昭和初期の12年間だけ高松市の仏生山―塩江間(16キロ)を結んだ「塩江温泉鉄道」。当時走っていた「ガソリンカー」の写真や資料を紹介する企画展が、市香南歴史民俗郷土館で開かれている。23日まで。」

仏生山といえば乙訓の長老様の縄張り、ガソリンカーと言えば須磨の先輩の縄張り、なのに今まで聞いたことがありません。記事には写真も出ていますが“駅馬車”のような物です。
両先輩様、ご記憶が残っていればご説明下さいませんか?

 

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -12-

飯田線③   E地点 伊那福岡~田切

飯田線、しばらく続けます。一昨日行われた三条京阪イベントに参加すると、1900生さんや、どですかでんさんから、飯田線への思いをたっぷり聞かせてもらいました。車両だけでなく、飯田線独特の車窓風景や線形が魅力を持った線区であることを改めて思いました。
今回は5万分の1地形図「赤穂」の最南端、伊那福岡~田切の撮影地を見て行きます。この区間は、例のオメガカーブの線形で、飯田線北部では、いちばん有名な撮影地でした。鉄道ファンの撮影地ガイドにも初期の号に紹介済みで、私も初めて訪問の時は、ファン掲載の地図を自分で書き写して持参しました。
オメガカーブの頂点、中田切川を渡るED195の牽く貨物列車。建設費が安い短い鉄橋で済むよう、上流にさかのぼって川を渡り、また元に戻る。

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韓国の鉄道

去る8月、韓国に行く機会を得た。鉄道旅行ではなかったので、ソウル釜山のKTXくらいしか乗る機会はなかったが、このデジタル青信号でも韓国の鉄道は、あまり登場しないようだ。そこで、少しだけだが報告させていただきたい。

KTXⅠ ソウル駅

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半世紀前の神戸市電-併せて街の今昔対比(3)大橋9丁目-板宿

須磨駅前から出発し鷹取町までが前回の記事でした。次の本庄町を過ぎればトライアングル交差点、大橋九丁目です。ここから北方向に板宿線が分岐します。
下の地図は1967(昭和42)年人文社発行、京阪神市街詳細地図です。左(西)の須磨駅前から海岸に沿い、南東向きに進み、右端(東)下部に大橋9丁目が見えます。中央に国鉄鷹取工場がありました。余談ながら中央上部(北)に上細沢町がありますが、筆者が11歳から27歳まで過ごした所です。鷹取工場の操車で蒸機の音が昼夜を問わずによく聞こえたものです。ここは、神戸市の西部、須磨区です。
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サークルステーションIN三条開催

先日来ご案内していました京阪電車、同志社大学共催のサークルステーションIN三条が本日京阪三条駅で行われ、コンコースでグリークラブ、吹奏楽部などが出演、鉄道同好会は出口階段に近い一角で模型展示と運転体験を行いました。

↑ 現在会員数約70名とのこと過去最高ではないでしょうか。
台風接近の雨の中、10名のクローバー会会員が集まりました。しばし現役会員との交歓の後、近くで行われている京都大学鉄研の写真展を見学、この日の為にわざわざ昼食を抜いてはせ参じられた方を含め、何人かの方はアルコールを注入すべくどこかにお出かけになりました。 続きを読む

京成電鉄モハ300型

今年のホームカミングデーの講演が関三平先生に決定して嬉しい限りです。この掲載がご縁になって、いろいろと交流ができて一層楽しくなっております。先日の飲み会で先生から「このホームページで画の批評を見るのが楽しみです。知らないことが多々指摘されて大変参考になりますから、できるだけ皆さんが知っている知識を開陳して下さい」とのお話を頂きました。
会員の皆様、今回の「京成電鉄モハ300型」も知識を絞り出して“線香花火”を光らせて下さい。

ショウコンユについて

デジ青の楽しみのひとつは、コメントのやりとりが時として思いもよらない方向へ脱線して そこで停まるのかと思いきやそのまま話が進んでゆくところではないかと思っています。今回もEF52から「松根油」に飛び火していますが、湯口先輩のコメントを後押しするようなコラムが今朝の中国新聞に載っていて驚きました。

平成29年9月13日 中国新聞朝刊

デジ青管理者殿 EF52が松根油を介して北朝鮮へ飛び火しました。「脱線教唆罪」に問わないで下さいネ。

この老人も

EF52だ、やれ14だとかで、突然?国鉄電機で盛り上がったので、この老人も確か天王寺で何か1枚だけ撮っていたと、限りなく薄れゆく記憶をたどってネガを探すが、何時ごろかもわからず断念。プリントを探すと手札版があったので、枯れ木も山とばかりご笑覧に供する次第である。

北欧のたび6(ストックホルムの市内交通)

ヘルシンキからストックホルムへは間にボスニア湾があり、軌間も異なるため直接鉄道ではいけません。直線距離では400㎞あまり飛行機で行けば1時間の距離ですが、それでは面白くないので船の旅を選びました。先にエストニアに行くときに使ったのと同じタリンク・シリアラインがヘルシンキとストックホルムを約16時間で結んでいます。この船がまた豪華船で、レストラン、バー、免税店はもちろんカジノまであります。今回はC2タイプの船室で2ベッドのシングル使いですが€111と安く、ゆっくりと船旅を楽しむことができました。
 ↑ 船内のプロムナード、レストランやショップが並んでいる。

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