2009年 北の大地へ Part6 佐呂間町交通公園

私事で恐縮ですが、一昨日は、毎年1回開催される中高等学校の同窓会に行って参りました。終了後に、同学年の2次会を、行いましたが、出席可否の返信FAXの中に1通、私宛の文面がありました。そこには、奥さんから、『主人は、同窓会出席を楽しみにしておりましたが、脳溢血で倒れ、入院しました。後遺症として、徒歩困難での車椅子生活、言語障害が残り、退院後の今も、1週間4日も、つらいリハビリを、強いられています。』と、書かれてありました。

何度も、連絡を取りましたが、応答はなく、心配しておりました。ようやく連絡が取れ、お見舞いに行きましたら、内容どおりの容態で、ついこの間まで、元気だった姿が嘘のようでした。折角、還暦を境に仕事を辞めて、自由に好きな事を楽しみたいと、語っていた彼の言葉を思うと、彼の気持ちのつらさが、痛いほど分ります。  

私の家内は、介護保険が始まる以前より、ご老人のお世話をしていて、その道のプロです。幾多の死や、老後生活の困難に接してきています。 

家内はいつも言います。『人間は、いつ死ぬか分らない。老人になれば、確率は高くなる。ころっと死ぬだけなら、まだ良いが、後遺症で苦しむ場合も多い。生きているうちに、元気なうちに、好きな事を思いっきりしておかないと、悔いが残る。家族も同じ思いを受ける。』

私が、自由に勝手気ままな旅を楽しめるのも、家族の理解が、後押ししてくれるからです。私もいつか、体力尽きる時がやってくると思いますが、それまでは、悔いなき人生をすごせるように、頑張ろうと思いました。

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北の大地へ Part5 計呂地交通公園

10月26日 第5日目

道の駅『かみゆうべつ温泉チューリップの湯』4:00→4:40湧別港5:00→5:20湧別川河口海岸6:00→6:30中湧別鉄道資料館6:50→7:30計呂地交通公園8:30→9:20佐呂間町交通公園9:45→12:00網走鉄道記念館12:25→13:30北浜駅13:50→15:00止別駅15:05→19:00網走鉄道記念館

次いで、サロマ湖沿いに車を走らせ『湧別町計呂地交通公園』を訪れました。途中、線路跡を見ましたが、既に雑草や林の中に埋もれていました。


湧別町計呂地交通公園は、中湧別と同様に、計呂地駅をそのまま残してありました。
撮影していると、管理人さんが出勤されてきましたので、朝のご挨拶をすると、元駅舎の資料室を空けてくだしまして、丁寧なご説明をいただきました。

展示したあったパネル『湧網線のあゆみ』を見ますと、中湧別と、網走の両端駅から延伸が始まり、昭和10年最初の開業から、18年後のの昭和28年に89.6キロが、ようやく全線開業しましたが、昭和62年に廃線となっています。34年間の短命で終わっています。

廃駅当初は、何の資料がなかったそうです。地元の方や駅員さんが、それまで集めていた資料を提供されて、展示ができるようになったそうですが、補修も必要で、町の予算もあって、いつまで続けられるか心配しておられました。


▲ 保存展示車両 C58139+スハ45-6+オハ62-91

C58
の運転台は、通常施錠されていて、保存状態は、極めて良く、このまま走らせても良いようにも思えました。また、注目したのは、オハ62-91です。昭和29年に鋼体化された車両は、TR11の台車を履き、見ごたえがありました。スハ45の方は、宿泊できるように車内は、改装されていました。一泊300円は、格安です。宿泊は、駅長の家でも可能で、こちらは500円です。

オハ62と言えば、気動車不足の北海道にあって、苦肉の策として登場した、オハ62にディーゼルエンジンを付けた珍車、キハ40(初代)を思い浮かべます。現在、『加悦SL広場』に、静態保存されていますが、非力で、狩勝峠を上るのに、9600を補機にして走りました。そんな時に、乗りたかったと思いました。

機関車には、屋根が付けられた機関車には、11月からは、シートで覆い、冬に備えるそうです。管理人もおられ、大事に補修管理されている印象を持ちました。
次の訪問地は、『佐呂間町交通公園』です。国道を右折して向かいました
Part 6 へ続く

読書感想文:「十五号車の男」黒羽英二著

新聞で読んだ書評に惹かれて図書館から借りてきたのがこの本。著者は早稲田大学出身の方で1931年生まれだから今年で78才と言うことになる。当会会員の有栖川有栖氏と同じく鉄道を使ったミステリーと新聞にあったので意気込んで読んだがミステリーとしてはもう一つだが取り上げている鉄道がユニーク、というよりマニアックである。たまたま我が家へ立ち寄った乙訓の長老や今年より大作家先生になる予定のF先生にもご覧に入れたが驚いておられた。作品は短編集である。ではご紹介する。なお、黒羽氏は自分で廃線跡探検趣味だと書いているとおりかなりマニアックで私は知らないものばかりであるから知っている方が有れば簡単に紹介していただければ幸いである。

「月の光」

江戸川乱歩の代表作「押し絵と旅する男」を彷彿とさせる設定の作品だ。乗り合わせた見知らぬ男が語る妖しい思い出話だが場所が「C県の炭と醤油で有名なN町からK浜の漁港A町まで全長39.2kmのレール幅60cmのN軽便鉄道」機関車は「1号機関車より古く、S鉄道が購入し巡り巡ってこのN鉄道へ来たもの」だそうである。さてこの鉄道はどこだろうか?この機関車は?

「十五号車の男」

平塚から横浜までの通勤電車内での席争いの話。つまらないので略。

「幽霊軽便鉄道」

主人公は廃線跡探検趣味の高校教師。ホンダライフに乗って旅に出る。回った廃線跡が出ている。曰く、東野鉄道、昭和11年廃止の塩原電車、沼尻鉄道、昭和46年に廃止の福島電鉄、高畠鉄道、新戸軌道、磐城炭坑軌道、磐城海岸軌道、好間軌道だそうな。本当にあるのか想像のものなのか分からない。舞台は好間軌道の神野木近くの老津温泉で幽霊に会うというもの。

「カンダンケルボヘ」

主人公の父親の思い出を探しにシンガポールへ行き、戦争中に昭南島、昭南市と言われたシンガポールを歩き回る話。略

「古い電車」

一人暮らしの老人が廃墟となった遊園地に残っている古い電車、子供の頃乗った思い出と現実の間を行きつ戻りつしながら独り語りする。「不動尊から宗吾霊堂5.1kmを20分かかって走った成宗電気軌道の電車で、1372mm軌間・下すぼまりのセピア色、ダブルルーフ、八つ窓、鉄製丸ハンドルブレーキ、オープンデッキ、定員客席16名、・・・」とある。

「母里」

もりと読むらしい。これを聞いてどこの廃線跡かと言うことが分かるのは少ないのではないか。広瀬鉄道跡を調べていて見つけたオハグロトンボに子供の頃の母親の思い出がよみがえる。伯陽電鉄→山陰中央鉄道→法勝寺電鉄を探検していて小学校に保存されている302号車に感激している。阿賀駅から母里までの支線を終点まで歩く。

「子生」

これもこなじとよむらしい。鹿島鉄道の廃止直前に鉾田近くにいる同級生を訪ねていくというもの。その同級生と車で廃線跡を巡るがその線が鹿島軌道。沿線の旭村に子生はある。

「成田」

先ほども出た成宗電気軌道についての思い出。作者自身が乗ったらしくかなり詳しい。今もトンネルが残っているとか。

最後に創作ノートというのがついており、それぞれの鉄道についての歴史と時刻表と路線図が掲載されている。

田口鉄道、谷地軌道、鹿島軌道、法勝寺鉄道、鹿島参宮鉄道、成宗電気軌道(成田電気軌道、成田鉄道)、千葉県営鉄道

本当に実在する鉄道なのか、車両なのかを含めて長老、大兄、大老など諸賢のご解説を待っております。

2009年 北の大地へ Part4 上湧別町鉄道資料館

第5日目 10月26日

道の駅『かみゆうべつ温泉チューリップの湯』4:00→4:40湧別港5:00→5:20湧別川河口海岸6:00→6:30→上湧別鉄道資料館
6:50→7:30湧別町計呂地交通公園8:30→9:20佐呂間町交通公園9:45→12:00網走市鉄道記念館12:25→13:30北浜駅13:50→15:00止別駅15:05→19:00網走鉄道記念館

昨夜は、風が強かったのですが、車内温度6度で、何とか熟睡できました。オホーツクの朝は早い。約40年前に宿泊した国鉄の寮で、3:30に朝日を見て、びっくりしました。4:00、今日朝は、何としてもオホーツク海に上る朝日を見たい、撮りたいと早起きしました。道の駅『かみゆうべつ温泉チューリップの湯』から。湧別港までは、直ぐです。

朝の湧別港では、漁船が出港準備をしていました。
朝日を見える場所は、どこが良いのか、分りませんので、海岸沿いに車を走らせました。
ようやく、湧別川を越える辺りで、撮影に邪魔だった防波堤が消え、砂浜が見えました。外気温は、2度。晴れた朝方は、気温が下がってきます。あかね雲が広がって、朝日を上がるのを知らせています。

三脚を砂浜に用意して、じっと待ちます。その頃から、ぶんしゅう7号だけだった堤防の道には、車が1台1台と止まって、竿を持った釣人が、砂浜に下りてきました。旬の秋アジ(鮭)を求めて、ここは格好の魚場だったのです。


5:55、オホーツク海からの朝日が上がるショーの始まりです。寒さも忘れて、うっとりと幻想的光景に見入りました。これで、フェリーで見そこなった、朝日のリベンジは、果たせました。

納得して、来た道を戻り、『かみゆうべつ温泉チューリップの湯』に隣接する湧別鉄道資料館の見学です。途中でコンビニに立ち寄り、朝食の購入をしました。かつて近くにあった湧別駅を見たいと、コンビニの店長に聞きましたが、もう跡形もなく、別の建物が建っているそうです。訪れるのが、遅すぎたようです。
思えば、SL淘汰によるブームが過熱し始めると、今まで珍しい趣味を持っていますねと、熱烈歓迎された機関区や駅構内への立ち入りは禁止され、迷惑顔をされるようになるとともに、鉄道への情熱は薄れて、カメラは、子供達を写すだけとなりました。

情熱が復活したのは、中国です。鉄道は、国防上の機密とみなされ、誰も写そう、写せずの中での反発からか、自然と、目覚めが始まりました。
かといって、熱心な鉄ちゃんでもありません。専門的な鉄道に関する知識は、希薄です。こうやって、気ままに思うがままに、国内外を問わず、あえて予定をガチガチに組まず、気楽に鉄道に乗ったり、撮影したり、温泉に入ったり、地方のB級グルメを食しながら、時には地元の人と話し込んだりして、ぶらぶらと、一人旅をする事が、好きなだけです。決め付けは、最も嫌いますので、いつまでも、旅する自由人でいたいと思っています。



1989年、名寄本線廃線に伴い、廃駅となった中湧別駅に鉄道資料館ができました。


1969年(昭和44年)当時の道内時刻表です。

上湧別鉄道資料館に戻りました。ここは、かつて、名寄本線から網走への湧網線が分岐した駅でした。1日あたり42本ものDCが発着し、急行『天都』、『オホーツク』もありました。その他、9600型が牽引する貨物列車の発着もあって、中湧別駅は、この地区の交通の要所でした。

残念ながら、今は鉄道がなくなりましたが、綺麗に保存されている駅を見て、ほっとしました。
そして、次の目的地『湧別町計呂地交通公園』へと、向かいました。 Part5 へ続く

 

今年もEVEへ 鉄道同好会へ

掲示板読者の皆さまには長い間ご無沙汰しておりますが、第二の人生、元気にやっております。「晴れたら取材撮影、雨が降ったら原稿書き」と鉄道版“晴耕雨読”の毎日です。

現役会員からも活発な便りが届きました。「青信号」も充実の最新号が完成、恒例のEVEも着々と準備中とのこと、久保会長から連絡がありました。

EVEは次のように開催されます。土曜日も含まれますので、ぜひ見学にお越しいただきますよう、ご案内いたします。

鉄道同好会EVE展示

11月26日(木)~28日(土)10:00~17:00
同志社大学今出川キャンパス寧静館401号室にて
内容:Nゲージ展示、研究展示、青信号販売etc

11/8に行なわれたカミングデーの様子。今年クローバー会の集まりはなかったが、代わりにEVEへ行ってみるかも。

2009年 北の大地へ Part3 丸瀬布森林鉄道

第4日目 10月25日

札幌10:30(道中自動車道)→比布Jct(旭川紋別自動車道)→13:00丸瀬布(R1070)→13:15森林公園いこいの森20:30(R330)→21:20JR遠軽駅22:00(R242)→22:20道の駅;かみゆうべつ温泉チュリップの湯

出発前に『日本鉄道旅行地図帳』の北海道編を購入して、船内で見ていました。道内の鉄道延長キロは、最盛期の3分の1と激減し、大正時代に戻っています。この本には、廃止された路線上に、建設されたSL保存館、記念館や資料館の場所が、記載されていました。

約40年前に撮影に励んだ路線は、今は殆どありません。どうなっているのだろうか? 実際に行って、見てみたい衝動にかられていました。今回の旅は、そういった所を回って見るのも、いいかなと、思っていました。
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2009年 北の大地へ Part2 SLニセコ号

第3日目 10月24日

余市6:40(1928D)→7:50倶知安8:02(2929D)→9:16小樽9:45(1934D)→10:08余市

着いた時は、それほど寒さを感じませんでしたが、夜間、何度も寒さで起きました。かつて、オートキャンプを始めた時に、通販で買った薄いテントが、寒さを防げず、震えながら、寝れぬ夜を過ごした事を、思い浮かべました。
昨夜からの雨はあがったようですが、車内温度は、3度です。3シーズン用の寝袋で十分だろうと、寒冷地用は用意してありません。しかし、ホカロンだけでは、追い付きません。北海道の寒さをなめていました。でも、自宅では、昼間、まだ半袖のTシャツでも十分でした。これほど、温度差があるとは、意外でした。

薄明るくなった道の駅『スペーシア・アップよいち』の駐車場を見ると、あちこちに本格的なキャンピングカーや、乗用車が泊まっています。乗用車は、寒さのせいか、1台1台と、出発して行きますので、私も洗面後に車を動かし、JR余市駅に向かい、カセットコンロでお湯を沸かして、コーヒーを入れて、暖まりました。
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43年前の美祢線・大嶺線(2)

南大嶺から123レに乗車、大嶺駅に着きました。

ここ大嶺線は、古くは海軍省が無煙炭を採掘、徳山まで輸送した。日清・日露海戦の頃、無煙炭は艦船の燃料として重要だったそうな。また一方、小野田セメントは大嶺産の石灰石を自社工場まで輸送するなど、重要な石炭輸送・石灰石運搬線である。

同上、オールセキの発車。

南大嶺から乗車してきた633レは、折り返し636レとなる。大嶺駅唯一つのホームに停車。

大嶺駅舎、背後はボタ山。てっぺんにコンベア施設が見える。この時は1966年で、次の1963年写真ではまだ低かったボタ山がかなり高くなっている。

1963年、大嶺付近の航空写真(国土地理院撮影、MCG633X-C3-3、無断での掲載をお許しください)
ボタ山とコンベア施設が高空からも見える。現在このボタ山はすっかり無くなったそうだが、google の地図/航空写真では、ボタ山のあったところだけがいまでも黒く見える。樹木がいまだに生えていないようです。

徳山方面から空のセラ群が到着。

南大嶺行きの客扱い発車。客車とワフ各一輌。

ホキ・セラの貨573列車発車。

北側の線路は一段高くなっており、その先の西寄りに、ホッパーや種々の施設がある。今も貨車がホッパーの下に入り積み込みの最中。

構内の東側。

構内の北西部。

大嶺駅構内を出発、徒歩で南大嶺に向かった。
一編成で往復している客扱いが、逆向きC58で戻ってきた。

大嶺-南大嶺間、青田の中を行くホキ・セラの姿は、比較的珍しい光景である。
背後にボタ山とコンベア施設が見える。

ここは、もう南大嶺に近い。

前回掲載のダイアは小さくて見難かったかもしれないので、再度掲載します。

 

早朝から、蒸機が曳く多くの石炭、石灰列車に満足し、南大嶺から長門市に向かった。翌日は山陰線の飯井-三見間などで山陰線を、翌々日には山口線を撮影した。まだ蒸機が各地で活躍していた、1966(昭和41)年の夏のことでした。

2009年 北の大地へ Part1 旅立ち 新日本海フェリー

投稿も終わりに近づくと、ぼちぼち、どこか遠くに行きたいとの気持が、募ってきました。紅葉前線を追いかけようと、春から探していた車も納車されました。これは、行くしかないと、決めました。

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2009年 秋の中国一人旅 Part11 調兵山 撮影ポイント

湯口大先輩、藤本先輩の、貴重な、お宝写真や記事に見入ってしまい、旅の締めくくりをサボっていました。これから、大地のSLを撮りに行かれる方もあろうかと、勝手に思いましたので、撮影ポイントで締めくくりさせていただきます。


撮影ポイント 

A:大明→三井 大明駅を出ると、築堤を走る。並行する道から、ボタ山を背景に列車を撮れる。昼からは、逆光となるので、アングルの工夫が必要です。
  三井→大明 三井駅を出ると、左にカーブして、築堤を上がる。力行するので、煙もまずまずで、冬場なら、迫力ある写真が撮れます。徒歩、約15分を要します。

B:無名駅~暁明 三井~暁明に、ホームもない無名駅がある。その間に鉄橋があります。大きくカーブしているので、横からも、正面からも撮れますが、道から少し歩かなければなりません。

C:調兵山~三家子 上遊型を数多く撮影したいなら、ここが一番です。三家子まで歩いても、約1時間です。上り、下り両方共、撮れます。調兵山から来るSLを撮影するには、午前中が順光です。晴れていれば、夕焼けをバックに撮影できます。

D:三家子 3路線に向かうSLが撮影できます。朝夕は、3本の列車が、発着するシーンを撮影できます。

E:大隆~孤楡柎 ボタ山をバックに撮影できます。大嶺から橋南に向かう線路と、道が交差しますので、ここで、撮影後、橋南へと急いで向かい、追っかけ撮影も可能です。

F:橋南 ホームのない橋南駅です。そんな乗降風景を撮れます。

G:橋南~暁南 王千行き、また調兵山行きの上下の列車は、暁南駅でスイッチバックしますので、2度楽しめます。中間点辺りでは、暁南からの列車を、ボタ山バックに撮れます。

H:橋南~暁南 暁南駅を発車したSLは、築堤を上がって来ます。駅に近い方が、煙も良く出ています。

I:橋南~王千 なだらかな丘陵が続き、牧歌的な光景が広がっています。駅間7kmもありますので、撮影ポイントも多いです。有名なのは、王千駅裏の山からは、教会を前景に入れて撮影できる、調兵山一の撮影ポイントです。ただ、晴れていないと撮影不可です。

J:会譲~暁青 複線が一直線に続きます。他線からの、長編成の石炭やセメントを満載した貨物列車が、中国鉄路の大青駅を目指して、走ります。残念ながら、貨物列車のダイヤが分かりませんが、結構走っています。客車列車も5両以上の編成です。筑豊本線のような光景が続いています。大青からの列車は、午後に順光となります。

その他、調兵山駅で、発車風景も中々です。珍しい蒸気クレーン車が、上遊型への石炭積み込みをする光景も楽しめます。

以上が、私のお勧めする撮影ポイントですが、未発見なポイントもあるかと思いますので、行かれた方は、教えてください。

撮影ポイントを、すべて撮影するなら、博物館見学や全線乗車を含めて、中4日間は必要です。日本からは、成田9:45(NH925)→12:40瀋陽、関空10:05(NH13:35)→13:55瀋陽(2009年11月現在)が、便利です。空港からリムジンバスで、瀋陽駅まで行き、調兵山へのバスに乗れば、当日に着きます。
北京入りですと、瀋陽までは、中国鉄路の高速列車に乗車すれば、約4時間で到着します。この場合は、瀋陽泊となりますが、朝1番(6:30)のバスに乗れば、2時間弱で着きます。

宿泊は、調兵山駅前が、近くて安くて、撮影には1番です。当日でも空室はありますので、予約せずに行っても問題ないと思います。
撮影に関しては、あらかじめ撮影許可証の購入が必要です。調兵山駅2階の旅行社に行ってください。宿も手配してくれます。
問題の現地での1日当たりの費用は、撮影許可証100元+タクシーチャーター料300元+宿泊代128元+食費100元(一般的な食堂・屋台利用)=628元(約8200円)は、必要です。ビールを飲まれる方は、缶ビール5元前後(約65円)の安さです。

これに、瀋陽~調兵山のバス代、25元×2=50元(620円)と、蒸気博物館入場料100元(1300円)を含めても、4泊5日間滞在で、節約すれば、40,000円程度です。マイレージや、格安航空券を購入すれば、結構気軽に行けます。
時期は未定ですが、私も、今冬に再挑戦します。3度目の正直となるように、思った写真が撮れるように頑張ります。

1954年3月北陸から長野、三重 その5


木曾森林鉄道鬼渕鉄橋での8号機 人道橋も兼ねる

不味い食パンと、たくましい行商のおばさんから恵んで頂いた塩コンブとで、腹を物理的に満たした我々3人は、松本の次に中央本線上松で勇躍下車。木曾森林鉄道初見参である。



便乗者には老人もいる 山中の居住者なのだろう 客車の窓は引き違いで、まさしく大工が小屋を建てる感覚で作った車両だが 屋根のカーブが比較的緩やか 運材車に乗るのは営林署の作業員
木曾桧の本場も本場だから 車両はオール桧製 これは屋根のカーブがきつい 手前の8号には「一般用」 長い3号には「学生用」とある

2軸の2号客車

これは特別客車で「偉いさん」用 元来皇太子(現天皇)が視察の際乗車した貴賓車であった由

ボールドウイン1921年5月製 9.8トン 製造番号54837 燃料は石炭ではなく桧の枝を小さく切ったものだから コールバンカーならぬウッドバンカー? 

貯炭場ならぬ貯薪所 お手の物の桧の枝を切ったものが石炭代わりで 油を含み結構火力があるそうな 給水装置も本格的である

まだボールドウインB1リヤタンク機が現役も現役、大活躍していた。3月とあって、まだ伐採や運搬が本格化しておらず、蒸機も半分ぐらいは庫内で休んでいる。ディーゼル機も客車を牽引し、便乗客が大勢いたのも、材木需要が旺盛で、地域全体に活気が満ち溢れていたことを示す。


ボールドウイン1915年4月製1号機 製造番号41997

庫内に休む蒸機たち 手前は大同1号で日立1936年12月製コピー機 次は立山重工業1949年7月製11号 奥はコッペル1923年1月製10か1925年製13

煙突 メインロッドがないコッペル1925年製10トン14号
H.K.ポーター1920年11月製8.6トン6号機の廃車 製造番号6592

酒井製作所製107号ディーゼル機 8トン 日野DA57A装着


おなじみ運材車 この時点ではまだ貫通制動はない

要するに有蓋貨車だが、扉は片側(反対側)にしかない これもオール桧製

北陸鉄道小松線

引続き昭和40年代の北陸鉄道小松線の状況を書き込みする。

小松線の前身は、大正15年12月、小松~白峰間を結ぶ予定で設立された白山電気鉄道で、昭和4年5月小松~鵜川遊泉寺間5.9kmを開業した。鵜川遊泉寺には鉱山があり、明治40年小松~鵜川遊泉寺~鉱山口間に馬車鉄道(遊泉寺鉱山専用鉄道)が開設されていたが閉山により大正7年廃止されてしまった。終点予定地の白峰は、金名線の終点の白山下よりも更に奥の白山山麓の集落で、ここまで鉄道を敷設しても採算が取れるとは思えない。昭和60年代まで福井県勝山~白峰間を京福バスが1日2往復運行していたので、それなりの交通の要所であったのかも知れない。昭和12年11月、社名を小松電気鉄道に変更、終戦直前の昭和20年7月20日付で北陸鉄道に買収された。マイカーの普及と少子化による乗客の減少により昭和61年6月1日付で廃止となった。

昭和40年代前半に在籍した車両は、モハ1001、モハ1002、モハ1201、モハ1802、モハ1814、サハ1601の6両で、モハは全車直接制御車でラッシュ時の連結運転時には各車両に運転手が乗務して協調運転を行っていた。昭和46年9月1日金石線(中橋~大野港)が廃止されると同線で使用されていたモハ3000形(3001~3005)5両が転属して在来車を置き換えた。

モハ1001、1002昭和24年12月日本鉄道自動車製の全長11.8mの小型車で、近江鉄道のクハ21形と同形車である。当初松金線(野々市~松任)に投入され、昭和30年11月15日同線廃止により小松線に転属した。(上42.3.21 下45.11.10撮影)

 

モハ1201能美線(新寺井~鶴来)の前身、能美電気鉄道のデハ301として昭和12年木南車輌で作られた。台車はブリル27GEの古いものを履いていた。前述のモハ1001と同じ全長11.8mの小型車であるが、バランスのよいスタイルをしていると思う。湯口先輩は金石線で撮影されておられるが、私自身、小松線と言えばこの車を思い出す程印象が強い。他の鉄道にもありそうなスタイルであるが同形車は見当たらず、西武鉄道が昭和25年から31年にかけて多摩湖線用に車体新製した旧モハ101形がほぼ同サイズ、扉間窓8個で何となく似ているように思うのは気の性であろうか。(42.3.21撮影)

 

モハ1802河南線(大聖寺~河南~山中・河南~新動橋他)の前身、温泉電軌のデハ22として昭和17年木南車輌作られた。昭和16年11月、山代車庫の火災で大半の車両を焼失し、被災車の車籍と一部機器を利用して急遽作られたと言われている。片山津線(動橋~片山津)で使用されていたが、昭和40年9月24日同線廃止後小松線に転属した。(42.3.21撮影)

 

モハ1814前述のモハ1802と同じく元温泉電軌の車両で、デハ27として昭和18年木南車輌で作られた。車体は1802と同形であるが4個モーターとなった。特筆すべきはコントローラーでスイスのブラウンベボリー社製の円形のものが付いており出所が気になる処である。戦時中のことで車体は新製ながら機器類はあちこちからかき集めたのだろうか。コントローラーもさることながら4個モーターの直接制御車というのも珍しい。(45.11.10撮影/鵜川遊泉寺、下はスイス・ブラウンベボリー社製のコントローラー)

 

サハ1601浅野川線(北鉄金沢~内灘)の前身、浅野川電気鉄道のデハ2として昭和2年日本車輌で作られた。京福電鉄福井支社のホデハ11形、ホデハ211形、福井鉄道モハ21形等同形車が北陸地方の私鉄に存在する。北陸鉄道合併後モハ1601に改番し、昭和30年まで浅野川線、昭和39年まで金石線で使用、小松線に転属後電装解除されてサハとなった。(45.11.10撮影)

尾小屋鉄道

湯口先輩の新シリーズ「1954年3月北陸から長野、三重」は、訪問された当時の各鉄道の様子と息を飲むような画像で、ローカル私鉄ファンにとっては貴重な資料である。

「シリーズその2」の尾小屋鉄道について、私が訪れた昭和40年代の様子を書込みしたいと思うが、この時期多くの会員の方が訪れられたように記憶している。昭和52年3月20日廃止後も多くの車両が動態保存されているのも興味深い。

尾小屋鉄道は大正8年11月26日に旅客営業を開始し、翌年4月1日より貨物営業を開始した。日本鉱業の系列会社となり、尾小屋鉱業所の専用線的な性格であったが、昭和37年9月、日本鉱業が鉱山及び鉄道の経営から手を引き、名鉄の系列会社となった。鉱山関連の輸送がなくなっても沿線人口がそれなりに多く、小松市への通勤、通学客の需要があったため営業が継続されたが、時代の変化と共に通勤客のマイカーの移転、少子化による通学客の減少、沿線人口そのものの減少等により昭和52年3月20日付で廃止となった。鉄道廃止後は「小松バス」に社名を変更してバス専業会社となったが、沿線の過疎化が進み、現在、小松~尾小屋間のバスは僅か3往復(その他に途中の金平まで1往復)である。ちなみに鉄道時代、昭和43年10月時点は14往復、廃止間近の昭和51年3月時点で8往復であった。

(1)機関車

5号機戦後製の蒸気機関車で昭和26年10月に入線しているが、現車の銘板の製造年は昭和22年11月になっていたので、メーカー立山重工業のストック品であったと思われる。翌年の昭和27年には早くもDLが入線、昭和32年DLが増備されると完全に予備機となり、冬の除雪に使用される程度になったが、鉄道廃止前には数回イベント走行した。廃止後は尾小屋にある「小松市立ポッポ汽車展示館」に保存され、年に数回屋外に展示されている。(42.3.21撮影)

 

DC121/昭和27年11月、協三工業で新製、形式の12は自重12tを意味している。次のDC122と共に朝夕の客車列車を引いていた。廃止後は「石川県立小松児童会館」で動態保存され「なかよし鉄道」として定期的に運転されている。(42.3.21撮影)

 

DC122昭和33年12月、協三工業で新製した12t機で、性能的にはDC121と同一であるがスタイルは大きく変化した。廃止後は旧尾小屋駅構内で保存されているが、野ざらしのため状態は悪い。(46.3.20撮影)

 

(2)気動車

キハ1/昭和12年日本車輌製、当初はウォーケッシャ6-ML型ガソリンエンジンを搭載していたが、戦時中の木炭車を経て昭和27年にKD3型ディーゼルに、昭和32年UD3型に乗せ換えられた。廃止後は「石川県立小松児童会館」で動態保存されている。保存後雪害により屋根を破損し復旧時に切妻となった。変速機はトルコンに換装されている。(42.3.21撮影/上.金野町~金平間、下.新小松)

 

 

キハ2昭和13年日立製作所製で、当初から「日立430RO型」ディーゼルエンジンを換装していた。戦中、戦後の動向はキハ1と同じである。廃止後は赤門鉄道軽便保存会により、旧尾小屋駅構内の車庫内に保存されている。(42.3.21撮影/金野町~金平間、下46.3.20撮影/新小松)

 

キハ3昭和39年12月に入線した戦後製の車両で、前身は昭和29年6月汽車会社製の元遠州鉄道奥山線のキハ1803、昭和39年11月1日、奥山線廃止後直ぐに入線したが、暫く新小松の車庫に留置され、認可は41年1月であった。エンジンはいすゞDA45型を換装していた。遠州鉄道時代の車号「キハ1803」の「キハ180」の部分を塗潰し、「3」の上に「キハ」の文字を書き加えて使用していたのが何とも軽便らしかった。廃止後は尾小屋の「小松市立ポッポ汽車展示館」で動態保存されている。(42.3.21撮影)

 

(3)客車

ハフ1~3大正7年6月、開業に際し名古屋電車製作所で新製された客車で、車体の外側に鉄板が貼られたり、窓が2段に改造されていたがよく原型を保っていた。ハフ3は車軸毀損で昭和42年に廃車、その後ハフ2も廃車された。最後まで残ったハフ1は廃止後キハ3と共に「小松市立ポッポ汽車展示館」で動態保存されている。(上、中45.11.10、下42.3.21撮影)

 

ホハフ1湯口先輩の画像及びキャプションの通り、元三重交通のサ331、明治45年日本車輌製の客車で昭和25年12月に入線した。以降継続的に三重交通から客車を譲り受けている。(46.3.20撮影)

 

ホハフ2大正2年名古屋電車製作所製で昭和31年3月に入線した。前歴は三重交通サ342←三重鉄道ホハ6←四日市鉄道(現近鉄湯の山線の前身)ホハ6である。前述のホハフ1とは製造年が1年しか違わず、シングルルーフの車体は三重交通時代の改造と思われる。(42.3.21撮影)

 

ホハフ3大正10年梅鉢鉄工所製で昭和30年12月に入線した。前歴は三重交通サ321←三重鉄道ホハ12←中勢鉄道(戦前岩田橋~久居~石橋~伊勢川口間を営業していた)ハニ2←中勢鉄道ボコ2である。車体の老朽化により昭和46年頃阪野工業所の出張工事により半鋼製の新製車体と乗せ換えられた。廃止後は「石川県立小松児童会館」で動態保存されている。(42.3.21、下45.11.10撮影)

 

ホハフ5大正10年梅鉢鉄工所製で昭和32年10月に入線した。前歴は三重交通サ322←三重鉄道ホハ13←中勢鉄道ハニ3←中勢鉄道ボコ3である。前述のホハフ3とは扉の形状が異なるだけで同形であった。シングルルーフ、ホハフ3と共に前後非対称の車体は、三重交通時代に大幅に手を加えられたと思われる。(42.3.21撮影)

 

ホハフ6大正2年名古屋電車製作所製で昭和34年11月に入線した。前歴は三重交通サ352←三重鉄道ホハ2←四日市鉄道ホハ2である。大きな窓の軽快な車体は、三重交通時代の改造と思われる。(42.3.21撮影)

 

ホハフ7大正14年日本車輌製で昭和37年7月に入線した。前歴は三重交通サニ403←北勢電気鉄道(現三岐鉄道北勢線の前身)ハフ11←北勢鉄道ハフ11で、車体は2段窓以外はほぼオリジナルのままであった。車体の老朽化により昭和43年阪野工業所の出張工事により半鋼製の新製車体と乗せ換えられた。廃止後は赤門鉄道軽便保存会により、旧尾小屋駅構内の車庫内に保存されている。(42.3.21撮影)

 

ホハフ8大正13年日本車輌製で前述のホハフ7と共に昭和37年7月に入線した。前歴は三重交通サニ401←北勢電気鉄道(現三岐鉄道北勢線の前身)ハフ9←北勢鉄道ハフ9で、車体は2段窓以外はほぼオリジナルのままであった。車体の老朽化により昭和43年阪野工業所の出張工事により半鋼製の新製車体と乗せ換えられた。廃止後は「石川県立小松児童会館」で動態保存されている。(上42.3.21、46.3.20撮影)

 

保存状況を纏めると次の通りである。

 小松市立ポッポ汽車展示館

蒸機No5  キハ3  ハフ1

 石川県立小松児童会館

DC121  キハ1  ホハフ3  ホハフ8 

 旧尾小屋駅構内(赤門鉄道軽便保存会)

キハ2  ホハフ7  DC122(個人が保存)

小松市立ポッポ汽車展示館は尾小屋に、石川県立児童会館は北陸本線粟津駅徒歩10分の所にある。石川県立小松児童会館には全長480mの線路が敷設されており、本館的な運転がされている。是非行きたいと思っているが、東京からは遠くて中々行けないのと、運転されている日に両方を訪れると宿泊する必要があるので現状では難しい。リタイヤ後、京都に戻った暁には真っ先に行きたいと思っている。

 

1954年3月 北陸から長野、三重 その4


松本電鉄ハニフ1 国電の始祖とされ現在大宮の鉄道博物館で復元展示

先回が10月14日のアップだから、半月空いてしまったが、その4を続けさせて頂く。

ともかく寒かった長野でのステホは、高校生たる小生に、断固寝袋装備=そのためのアルバイトを決断させたが、その活用は1年後になる。3人はいかに少ない出費で空腹を満たすか談合し、味覚や栄養等を一切無視すれば、食パンが最もコストパフォーマンスに優れることで合意成立。1本を求めて1人が裸のまま小脇に抱え(袋に入れる習慣はまだなく、古新聞で包むのがせいぜい)、篠ノ井線列車で松本へ。先頭の木製客車に乗ったら、これが行商人専用車で、これから稼ぎに行く「ガンガン部隊」=元気で実にたくましい、モンペに地下足袋姿のおばさん・婆さんの意気盛んな一団が、お喋りと情報交換に精を出していて圧倒される。小さくなった3人は無言で食パンをちぎっては食べ、ちぎっては食べ。物理的に腹は満たされるが、バターもジャムもなく、空腹でも正直すこぶるを通り越した、実に不味いパンだった。おばさんの1人が、食パンのみをひたすら食べ続ける若者3人を見かね、確か塩コブか何かをくれたと記憶する。

松本ではまず松本電鉄新村へ。庫内に納まっているハニフ1がお目当てだったが、連結器が外してある。聞けば撮影にやってくる人が庫外に引き出しをせがむのがうるさくて、とのこと。致し方なくそのまま撮影。この車両はその後も保管され続け、半世紀後やっとJR東が引取って修復し、現在は大宮の鉄道博物館にある。

甲武鉄道が買収で鉄道院に引き継がれ、中央線で働いた後客車として佐久鉄道や三河鉄道、信濃鉄道に散っていった2軸電車の成れの果て。このハニフ1は信濃鉄道から1922年松本電鉄にやってきた2両のうちの1両で、甲武ハ9→院デ968→信濃ロハフ1が経歴である。電動車としては自重10.9t、45馬力×2、定員53(内座席32)人だった。写真の反対側妻には出窓様の運転手用窓(ベスチュビユールというのが一般的だが、これは日本での実務家・ファン独特の表現らしい)が残っている。車体は甲武鉄道飯田町工場製である。


松本電鉄デワ2 新村

デワ2は天野工場1918年製、伊那電気鉄道からの購入である。屋根の両端はかつては丸かったらしいが、改造でいかにも貨車、といわんばかりである。


松本電鉄クハ16

クハ16は国鉄クハ29013の購入で、信濃鉄道買収車モハ20003の電装解除・制御車化したもの。諸兄モハ20系というと、ビジネス特急「こだま」の一統か、あるいは阪和電鉄買収車を思い浮かべる方が多いと思うが、初代の20台は信濃鉄道買収車だったのである。

その後大糸南線を「ひと覗き」し北松本区へ。上記松本電鉄クハ16の仲間が一山、元気に働いていた。モハ20、モハユニ21、クハ29が買収後の型式だったが、1953年改番でモハ1100、モハユニ3100、クハ5100の型式になっている。モハユニ3100は後電装を解き、クハユニ7100に。


国鉄クハ5101 北松本

国鉄モハ1101 北松本
国鉄モハユニ3100+モハ1102+クハ5101 松本 1954.3.25 3型式全部が揃った編成 パンタはPS13に変っているが、原型を良く残す

なお前回コメントを2件忘れていた。どちらも北陸鉄道金沢市内線で、2003の方は、画面右側の鄙びた商家にパチンコの看板がある。この当時派手な看板のパチンコ屋もないではなかったが、大方はかような「質実剛健」ぶりで、出玉はオール15(それでも10から15になっていた)だった。勿論玉は自分の手で挿入し、自分で弾くのである。台の後ろには人間1人が通れる隙間があり、アウト玉を人力で台上部に戻していた。それを積み過ぎると台が傾いて玉が当り穴に入りにくくなるそうで、「コラッ、アウト下ろせ」と怒鳴ると、中から「空打ちせんといて!」とやり返す風景が至極当たり前に展開していた(とのことである)。

次の2103の写真も右端に「帰国の皆様 お待ちしていました」との垂れ幕がある。1954年にもなれば、外地からの旧軍人引き上げ(帰国)はほぼ終わっており、残るのはソ連シベリア抑留者であった。日本敗戦のどさくさに、60万人といわれる軍人、民間人をシベリアに抑留し続け、過酷な労働と気候で6万人が死んだ。

これはロシア革命の際、列強各国がチェコ兵救出を名目にシベリアに出兵し、我国も参加。要は露骨な革命干渉だったのだが、わが国も1919~1925年の間に死傷者5,000人、戦費9億円を費やしながら、何一つ得るものはなかった、というのが「シベリア出兵」である。

我国の「シベリア出兵」を深く怨んだスターリンが、四半世紀後その報復に60万人を抑留した、とされている。「岸壁の母」もそうだが、舞鶴港にも、かなり遅くまでシベリア帰りの復員船が到達していた。その名残を伝える垂れ幕なのである。           

43年前の美祢線と大嶺線(1)

 デジタル青信号読者のみなさん、お久しぶりです。
 893-2さん、美祢線の写真をありがとうございます。お陰さまで刺激を受け、43年前を思い出し、投稿しました。小生のホームページに美祢線も掲載予定で、枠を設定しているのですが、現在は東北地方を作成中、それも最近は進捗ままならずの状態、中国地方にとどくのは一体いつ頃か皆目見当もつかない状況です。
 でも、タイムリーなことも必要かと、先にデジタル青信号に投稿することにしました。ご覧ください。

 撮影は、1966(昭和41)年 8月14日、43年前でした。フィルムは TRI-X と AGFA です。

  夏の朝6時前に厚保(あつ)駅から、松ヶ瀬信号所方向に徒歩で南下。線路と厚狭川と細い道路が一体で、奥畑地区まで約1km続く。奥畑に到着した頃、川面の霧がようやく晴れ、早速オール・セキの石灰石輸送列車が通過して行きました。
 先の貨物と、松ヶ瀬信号所で交換した、空車のやはりオール・セキ車、美祢行きが通過。早朝ゆえに蒸気が白い。D51のバック運転です。 
空車の轟音が耳をつんざくばかり。線路脇の狭い空間から風圧で飛ばされそう。       

 約30分後、やはりセキの一辺倒。空は曇り空、熱くなくて助かるがやはり青色でないと。   

 先の貨物と厚保駅で交換した、上り客車。長門市発です。美祢線の客車列車はたったの1往復しかありません。下り列車は夕方6時以降の運行、夏でも撮影は困難でしょう。

 間髪をいれずに、セキと無蓋・有蓋車の混合編成が通過。

ここで、厚保駅方向に戻る。見下ろせる高台を登ったり降りたり。厚狭川と山に挟まれた狭い空間に線路があり、なかなか広く見渡せるところが無い。二つのトンネルに挟まれた鉄橋で撮る。

 厚保駅手前、左のトンネルを越えるとすぐに駅。

駅手前で下り貨物を。  

厚保駅に戻る。藁ぶきの大きな屋根の民家が右に見える。

 戻ったのが丁度13時。この間の7時間で撮影した貨物は上下16本でした。なにしろ6時から18時までの12時間で30数本のセキ・ホキ貨物が通過する幹線です。少し見難いのですが、中国支社昭和41年10月1日改正、41年3月25日補訂のダイヤを掲載します。上下二段に編集ししています。拡大してご覧ください。 

 厚保から、729Dで南大嶺へ、さらに633レで大嶺に向かいました。次回は大嶺駅構内や、ボタ山の写真などをご覧ください。

DD91の取扱説明書

中学校時代 亀岡から通学していた友人が 時々遅刻するので理由を聞くと DD91が故障して列車が遅れたとのこと。DD91はC57と重連で運用されていたような印象があります。ところでこのDD91の取扱説明書の表紙をお目にかけます。残念ながら表紙しかなく、中身は持ち合わせていません。

飛鳥山公園モノレール

7月17日(金曜日)JR京浜東北線王子駅近くの飛鳥山山麓と山頂を結ぶモノレールが運行を開始した。

飛鳥山公園は八代将軍徳川吉宗が享保の改革の一環として桜を1270本植え、江戸の花見の名所とした所である。当時、上野公園等他の桜の名所で禁止されていた「酒宴」が容認されていたこともあり大いに賑わったといわれている。現在も桜の名所として多くの人が訪れ、桜と都電を撮影する人も多い。私も会社帰りに夜桜と都電の撮影を試みたが、露出不足で失敗した。

最寄駅はJR京浜東北線、東京メトロ南北線の王子駅か都電荒川線の飛鳥山停留所であるが、王子駅から歩くと公園が山頂付近にあるため急な階段を登ることになり、高齢者や小さな子供連れの人は大変であった。これらの人も気軽に公園を訪れることができるように東京都北区が国交省の「まちづくり交付金」を活用してモノレールが設置した。ちなみに飛鳥山電停からは階段少し上がるだけであるが、都電は王子駅前を出てJRのガードを潜ると急勾配で飛鳥山に向かう。

モノレールの概要は次の通りである。

(1) 運行者  東京都北区

(2) 形 式  自走式モノレール

(3) 延 長  レール延長48m(傾斜角度24度)

(4) 車両定員 16人乗(座席6人・立席10人)

(5) 走行区間 飛鳥山公園入り口~飛鳥山山頂

(6) 走行速度 30m/分(片道所要時間2分)

(7) 標高差  17.4m

(8) 運行方法 無人運転(押しボタン運転方式)

(9) 運転時間 10時~16時、第1木曜日10時~12時は点検のため運休。

(10)運 賃  無料

(11)メーカー 嘉穂製作所

(12)その他  防犯カメラ車内1基、乗り場2基設置。車いす、ベビーカーも利用可。乗り場にホームドア設置。

メーカーの嘉穂製作所は、7月24日投稿【3734】「1080見学記」で書いた、「1080号機のオーナー企業であった日鉄鉱業」の関連会社で、特殊モノレールのメーカーとして国内外で約150基の納入実績がある。五能線深浦駅近くの「ウエスパ椿山」、北九州市皿倉山展望台、天橋立ビューランド等は比較的有名で、国内のみならず韓国にも相当数が納入されている。

社名の「嘉穂」は本社所在地「福岡県嘉穂郡」から命名されたが、平成18年3月26日飯塚市との合併で消えてしまった。現在の住所は飯塚市大分567番地で、「大分」は「おおいた」ではなく「だいぶ」と読む。場所は篠栗線の筑前大分駅と筑豊本線の上穂波駅のほぼ中間地点である。「上穂波」といえば我々の年代の方にとっては懐かしい駅名ではないだろうか。

飛鳥山公園内には、D51853とかつて荒川線を走っていた6000形6080が保存されており、荒川線の撮影に来られた際には、これらの見学と併せてモノレールにもご乗車いただきたいと思う。

 

飛鳥山公園入り口駅と運転中のモノレール/全長僅か48mのため山頂駅が見えている。

営業案内

 都電を見下ろしながら登ってくるモノレール

間もなく山頂駅に到着

 

山頂駅に到着

 

公園入り口駅に比べるとシンプルな山頂駅

 

標高25.4mの飛鳥山山頂

 

都電6080

 

荒川線で現役時代の6080

 

D51853/角型ドームの戦時形D51であるが、都電共々ここまでの運搬はさぞ大変であったと思われる。

教えて!なんでも探偵団(その2)

藤本先生、解説をありがとうございます。

少しずつ思い出しております。年代は間違えてないようでした。ただ時間に関しては記憶と誤差があります。ご覧のように西を向いている機関車の正面からの光線ですから午後、それも記憶では16時頃だったように思います。ご高察をお願いします。

教えて!なんでも探偵団(その2)

古い写真を整理していたらこんなモンが出てきよりました。

これはなんでっしゃろ?撮ったのは昭和も華やかなりし頃、そうや37、8年の初秋やったと思います。どなたかご存じでしたら教えてやっとくれやす。

福知山機関区の所属になっていた。

DD911 福知山機関区の所属になっていた。

京都駅山陰線ホーム機回し線