山崎を走った夏の臨時列車 -5-

波動時の臨時列車

今回までは、夏ならではの海水浴、リゾート行きの臨時列車が中心だったが、シリーズの最後は、夏の波動時の臨時列車を列挙してみよう。昭和末期は、帰省休暇も分散化されておらず、盆を中心にした一極集中の傾向があった時代だから、九州へ向かう臨時夜行列車も多く運転されていた。

臨時列車 (12)銀河83H2東海道の老舗急行「銀河」にも、臨時が運転されていた。写真は「銀河83号」、14系座席車をEF65PFが牽いている(平成2年8月)。この時代、首都圏~関西は、夜行バスが台頭し始めていたものの、まだ列車需要が高かった時代で、年によっては、最ピーク時にもう一本運転されて、定期と合わせて3往復体制の時もあった。臨時「銀河」の歴史をたどると昭和45年頃から走り始めているようで、年によっては、品川発着になったり、大阪、京都と行き先が変わったりしながらも、臨時列車としては息長く運転されたが、結局、臨時「銀河」は、定期の廃止より前の平成10年限りで運転を止めている。

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 江若鉄道の思い出 -高島展- 開催中 

今春、大津市歴史博物館で開催された「江若鉄道の思い出」展は好評のうちに幕を閉じましたが、このたび、江若鉄道のもう一つの地元である高島市に会場を移し、「江若鉄道の思い出-高島展-」が、高島市安曇川町の「藤樹の里文化芸術会館」で開かれています。会期はわずか8日間のみ、忘れないよう、ぜひ足を運んでください。

江若鉄道の思い出ー高島展ー
   会期 9月5日(土)~13日(日) 9~17時 7日(月)は休館
   会場 藤樹の里文化芸術会館(JR湖西線安曇川駅下車、東へ徒歩15分)

今回の展示は、大津市歴史博物館の展示の中から、高島市内の写真を中心に再構成し、さらに新しい写真も追加しています。もちろん西村さんの高島町、白鬚のジオラマも再展示、クローバー会有志は、開催初日の9月5日(土)、見学に向かいました。
sP1090894 sP1090871午前10時前、JR湖西線安曇川駅に集まった7人は、クルマに分乗して会場へ。想像していたより広くて明るい会場、充実した展示に目を見張った。天井も高く、ゆったりした気分で見学することができた。当時、鉄道と言えば江若しかなかった高島市のこと、江若への思いは、さらに強いものがあるだろう。三々五々、来場された方々は、食い入るように写真の一点一点を観覧されていた。さて、新しく展示されたなかで、注目は本会会員の大阪通信員さんの撮影になる「近江今津の風景」だ。全点カラー撮影である点が特徴で、車両の塗色や、駅前に並ぶバスやクルマまでもがカラーでよみがえり、終着駅の雰囲気を伝えている。当時から財を成し贅を尽くされた大阪通信員さんらしい写真展となった。

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 山崎を走った夏の臨時列車 -4-

「ムーンライト」の数々

「ムーンライト」とは、春・夏・年末年始に運転される臨時夜行快速の愛称である。初めて愛称として使われたのは、国鉄時代、昭和61年の新宿~新潟の団体快速と言われる。その翌年からは「ムーンライト」の愛称で定期の快速列車となり、のちに「ムーンライトえちご」となった。以後、臨時夜行快速の愛称として「ムーンライト」は各地で設定され、とくに京都・大阪から中国、九州、四国へ向かう「ムーンライト」が多数設定された。
平成8年には、“大垣夜行”と呼ばれていた東京~大垣の夜行普通列車に指定席を設けることになり、マルスで列車識別の必要性から「ムーンライトながら」の愛称となった。その後も、中央東線に「ムーンライト信州」、「ムーンライト仙台・ムーンライト東京」などの新しい列車も設定された。
しかし現在では、JR西日本に発着する「ムーンライト」はなく、設定日が年々短縮された「ムーンライトながら」「ムーンライトえちご」が辛うじて走るのみとなり、指定券だけで乗れる青春18きっぷ御用達列車もずいぶん寂しい状況となった。臨時列車 (7)ムーン九州H2山崎を走った「ムーンライト」の代表、「ムーンライト九州」、EF65PFがリゾート用14系座席車を牽く(平成2年8月)。平成元年の「ふるさとライナー九州」運転がルーツで、翌2年には、京都~博多の「ムーンライト九州」(年末年始のみ「ふるさとライナー九州」で残る)となり、おもに青春18きっぷ有効期間に合わて運転された。客車は14系座席車で、夏のみスキー臨用のシュプール色が使われ、それ以外は14系一般車、波動の大きい年末年始は12系も動員された。平成14年には年末年始も含めて「ムーンライト九州」に統一された。

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関東勢の一掃と関西の特急車両が続々と!

老人が大井川鐡道に目をつけ、年に一度は顔出しするようになったのは白井昭さんから「お宅の3000が新金谷に近日入りますよ」と、1994年春の彼岸の日に声を掛けられた事に起因している。それを前に澤村君から白井さんとのやり取りの一端を耳にしており、関西ではあまり話題にならない大井川鐡道に喰らい付いてみよう、との気持ちが沸いたのであった。この年5月に東京出張があり、その帰路に金屋口に顔出し1回目があった。その時の光景の一端を紹介しょう。

回送された時の姿をこれより1年近く保持された。

回送された時の姿はこれより1年近く保持された。

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 山崎を走った夏の臨時列車 -3-

短期間で終わったリゾート列車

避暑・登山などの臨時列車「リゾート」は、同じ夏臨の「ビーチ・マリン」に比べると、その歴史は浅い。大阪・京都発で見ると、国鉄時代に避暑・登山の専用臨はなく、JR化以降、昭和63年の白馬・信越方面へ直通列車「リゾート白馬」「リゾート信越」が運転されたのが初めてだった。その後、軽井沢方面へ余剰気味の583系を使用した夜行「シャレー軽井沢」、485系の昼行「スーパー雷鳥 信越」などが運転され、拡大を見せる。平成に入ってからは、平成2年に富山地方鉄道乗り入れの「リゾート立山」「リゾート宇奈月」を新設。「シャレー軽井沢」も二段寝台化されるなど、平成4年度は「リゾート」利用者数が最高の4万人を記録したと言う。しかし、その後の景気減退や阪神大震災の影響もあって、需要の微減が続く。平成7年には、女性専用の寝台車を連結した「リゾート白馬」を新設したが、運転直前に大糸線が豪雨で不通になり、一回も運転されないまま全面運休になる不運も重なった。結局、平成10年までに、JR西日本の「リゾート」はほぼ消滅してしまった。臨時列車 (19)スパ雷・立山・信越

定期の特急「スーパー雷鳥(サンダーバード)1号」を夏季に区間延長してリゾート地へ向かう臨時列車を運転した。これは、クロ481-2001先頭の「スーパー雷鳥 立山・信越(サンダーバード)」と長ったらしい愛称。平成元年の「スーパー雷鳥 信越(サンダーバード)」が始まりで、富山行きの「スーパー雷鳥(サンダーバード)1号」を延長運転する形で、信越線経由の長野行きとして運転された。この撮影時の平成4年には、付属編成を富山地方鉄道乗り入れの立山行き「スーパー雷鳥 立山(サンダーバード)」として運転・併結したため、この愛称の誕生となった(平成4年8月)。

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2015年夏 福井見聞録 Part5 えちぜん鉄道 福井~福井口の最後の地上線、帰路の出会い

7月29日 第2日目 その2

朝食後は、えちぜん鉄道の福井~福井口の最後の地上線走行を撮ります。すでにえちぜん鉄道公式HPにも完成している北陸新幹線福井手前からの高架にえちぜん鉄道の高架工事が終わるまで借用する事が発表なっています。切替時期は9月27日と、残すところ後1ケ月です。現状を記念に撮っておく事にしました。
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DSC_0723_100014▲ 福井から新福井に向かう地上線で、手前は宝永踏切です。交通渋滞は少ない福井市内ですが、立体交差がなれば車利用はもっと進むのかも・・。
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2015年夏 福井見聞録 Part4 朝の福井鉄道市内線

7月29日 第2日目 その1

DSCN0493_100▲ 6:09 ようやく夜が明けました。宿泊している東横インの部屋から見た福井駅前広場です。朝食前に朝の散歩がてらに福井鉄道市内線の撮影に向かう事にしました。
今日は、朝食後はえちぜん鉄道の福井~福井口の撮影、お昼には福井鉄道に乗車して福井を離れ越前武生へ、ここからは北陸線に乗換えて長浜を目指します。長浜では現存する日本最古の長浜旧駅舎(長浜鉄道スクエア)を見学しての帰途としました。
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ビデオから写真の作成

先日は、総本家さんが「デジカメで遊ぶ」を、どですかでんさんが「フィルムのデジタル化」と最近の技術を堪能されていました。デジタルの進化で以前は難しかったことが簡単に実現するようになりましたね。私も昔の8mmを見直して今のビデオを試したくなりました。鉄道以外の目的もありビデオカメラを手に入れたのですが、そこにあったのが「ビデオから写真が作成できる」という説明でした。パナソニックから4Kビデオと写真の撮れる機種は出ていますが、普通(?)のビデオカメラからどれくらいの写真が作成できるか試してみたくなりました。ビデオカメラはパナソニックのHC-V550Mです。ビデオ撮影時のシャッタースピードを1/1000にマニュアル設定し、撮り終わってスローで再生しながら最適な絵のときに「フォトショットボタン」を押して一枚作成します。その例を示します。2枚とも多少「滲み?」は残りますが予想以上の出来映えでした(2.1M)。M1020002M1030003-1

 

 山崎を走った夏の臨時列車 -2-

その後の海水浴臨時列車

山崎を走る海水浴列車は、平成2年(1990年)に顔ぶれが変わる。まず海水浴臨の愛称が「ビーチ」から「マリン」に変更された。また、JR西日本の年史によれば、その前年、鉄道本部に企画推進部が設置され、鉄道営業機能の拡充を図ることになった。同年開催の「花と緑の博覧会」も控え、臨時列車も目的別にターゲットを絞り、旅行需要の発掘をめざした。新たに南紀方面に「マリンくろしお」や近郊地の「サマーびわ湖」なども新設されている。経路なども見直し、若狭方面へは従来の綾部・西舞鶴経由に加えて、今までにはなかった湖西線・敦賀経由の列車も新設された。なおJR西日本では、これら臨時列車を「営業施策列車」と呼び、その内訳は「シュプール」「ビーチ・マリン」「リゾート」「味めぐり」「ホリデー」に分けられている。臨時列車 (20)マリン若狭H4「マリン」に変更された海水浴列車、その代表が「マリン若狭」、平成2年から大阪発で、湖西線・敦賀経由の小浜行きの臨時急行として設定され、初めて181系DCが使われた。同じ地域を走る特急「あさしお」もまだ181系であり、特急と同じ設備の臨時急行であった(平成4年8月)。

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2015年夏 福井見聞録 Part3 えちぜん鉄道と福井鉄道乗り入れの田原町駅を見る

7月28日 第1日目 その3

01_田原町駅完成パース16:45 福井口から田原町に向かいます。撮るチャンスを逃しましたが車庫内には確かに黄色の低床式トラム(フクラム)が入庫していました。いつから走行するのでしょうか。ML521形(521号・522号)も除雪設備を付けたまま留置されていました。上は田原町駅完成予想図です。(※福井市公式HPより転載)

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撮影地今昔-関西本線・加太

お盆休みの2015年8月14日、昨年に続き青春18切符で、半世紀前の撮影地のひとつ、関西本線加太を訪ねました。旧湊町・現JR難波駅から大和路快速電車で出発。加茂まで54.2kmを53分。現代はこの距離でこの時分なら当たり前か、むしろ遅い感じがしても当然でしょう。でも昭和40~45年代の関西線に比べると相当速く感じます。

当時、筆者の勤務先工場は大阪布施と大和小泉にありました。技術部所属の筆者は奈良工場へ再三出かけ、近鉄布施-鶴橋-天王寺へ。天王寺からは準急・かすが、王寺でキハ35に乗り替え二つ目、法隆寺の隣駅大和小泉へ。小泉からは社バスかなければタクシー。軽く半日は掛かりました。

8月14日は、加茂から二両編成のDC、キハ120。このワンマンDCは運転席横の窓から見通しが良い。播但線、加古川線、山陰線のワンマンDCは運転席と料金箱がやたらと最前部を独り占めしてファンに非開放的です。で加茂から1時間、難波から2時間30分で加太に到着しました。
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東京で見た電車、それに乗れた話

老人は富山から大阪へ転勤後も東京出張に恵まれた。其の時は旅館宿泊でなく民家の2階を丸ごとアパート代わりに仕立てた家屋があり、会社はそれを社宅代用で借用していた。東京出張所は文京区で、社宅代用は西武鉄道池袋線桜台下車徒歩5分の地であった。これで東京へ出張すれば西武電車に乗れることになった。ある朝、池袋駅に10両編成が山手線を乗り越えて入構するのに気付いた。湘南型6両+4両の固定編成で10両である。その頃の関西私鉄は6両編成が最長で、関西では見られない10両編成がしずしずと下り勾配を降りてくる姿に見入った。その電車の兄貴分あたる車両に大井川鐡道で出会ったのだ。大井川での車号は312+512、313+513の2編成となる。これらの編成が10連になったのではないが、湘南型と言われている前頭部の姿があっさりしているのが特徴で、老人は好きなのだ。

一目で西武電車所沢工場製作車両とわかる面構え

一目で西武電車所沢工場製作車両とわかる面構え。312+512号車

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2015年夏 福井見聞録 Part2 えちぜん鉄道は新幹線高架軌道を走る 

7月28日 第1日目 その2
DSCN0360104DSCN0361_100▲ 16:23 えちぜん鉄道の福井駅です。えちぜん鉄道は福井市内から勝山・永平寺と、あわら温泉・三国港を結びます。芦原温泉は1884年(明治17年)6月に開湯されて、今年は130周年になりました。向かう電車は全車共ヘッドマークをつけての走行です。

発車前に運転手に福井鉄道と相互乗り入れに伴う低床車はいつ頃入るのかとお聞きしますと、「既に車庫に来ている。試運転は知らないがその内に走行するだろう。」との返事です。そして「ここより福井口までの区間は、9月末には新幹線の高架上に設置された軌道を走る事が決まった。福井口~田原町には新駅も出来る。」と申されます。
勉強不足でした。田原町駅のリニューアルばかりに気を取られていましたが、えちぜん鉄道の福井~福井口は北陸新幹線延伸時には同じく高架軌道となるのです。海外ばかりに目も足も向いていたので国内の事は全く音痴でした。
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2015年夏 福井見聞録 Part1 再開発整備が進む福井駅前広場

DSC_0610_100この夏は近場の乗り鉄を楽しもうと青春18きっぷを買いました。丹後、舞鶴の次にノミネートしたのは福井です。様々な車両が走り、道路併用軌道がある福井鉄道は大のお気に入りです。もう1つのえちぜん鉄道には親切なアテンダントさんが乗り込んで、切符販売・車内改札のみならず、お年寄には丁重なご挨拶や看護、初めての乗客には観光案内等のコミュニケーションを持ってくださいますので、乗車していて楽しくなる鉄道です。ただ2つの鉄道を乗り鉄するには年金生活者には嬉しい共通1日フリーきっぷ(1,200円)がお得で便利なのですが、土・日・祝のみの発売で今日は利用できません。平日も設定して欲しいところです。出来れば高くになっても24時間切符が望ましいところです。
今回は久しぶりに越美北線の夏に気に入る撮影ポイントはないかとロケハンを中心に、後は福井鉄道・えちぜん鉄道が乗り入れる田原町駅の様子を見る事にしました。
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第2弾 ブラソロリ乙訓 おとぎ電車ツアー

 「ブラタモリ」に対抗するのか、それとも“まねしん” したのか第2弾「ブラソロリ乙訓」。それはどんな事をしていたのだろうか。ところで“まねしん”とは大阪ことば辞典を参考にして解説するとこんなことだろうか。

webおとぎ電車のカット(青信号26号)

青信号26号「おとぎ電車の話」のガリ版刷りカット 筆耕はK氏か

漢字で書くと“真似衆”とかく“まねし”という言葉(よく真似をする人の意味)に格助詞の“の”が変化して“ん”になったものを付けた言葉ではと思う。そうすると冒頭の文章は“ブラタモリに対抗するのか、それとも真似をしたのか第2弾「ブラソロリ乙訓」”というところか。子どものころ、よく“まねしんや~、まねしんや~”と囃し立てていたのを思い出す。今はこの言葉が使われているかどうか知らないが。しかも、我々のやっていることであるので仕事でなく勝手気ままにやっているし、なんせ足回りが次第に老朽化している為に狂言師のすり足のようにソロリソロリと参るしかない。それにブラタモリのように高級な内容ではない。その辺がちょっと違うのである。第1弾は酷暑のなか「京津電車道を歩く」であったが、今回は「おとぎ電車ツアー」である。

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2015年の夏は辛かった トホホの我が家のネット事情

もっと早くに次の福井見聞記を投稿予定でしたが、我が家のインターネット環境に異変が生じてしまいました。

① ネット接続が途中で切れる
PCを立ち上げた時は普通につながるのですが、しばらく投稿作業をしていると、なにやら様子がおかしくなってきてネットワークを見ると、接続が切れています。 ”問題のトラブルシューティング”で診断すると、「ルーターをOFF/ONして下さい。」との事ですので再接続作業をしますが、接続は出来てもしばらくするとまた同じ現象が発生します。投稿原稿は保存されず、最初からやり直しを強いられます。
夏前からこんな兆候は出ていたのですが、今年の夏は熱くなりすぎたからPCも夏バテなのだろう。その内に直るだろうと楽観視していました。ところが8月に入ると接続切れは頻繁に発生するようになり、状態は日々に悪化してきました。
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 山崎を走った夏の臨時列車 -1-

先日の掲示板で山科を走った昭和40年の臨時列車を掲載しましたが、臨時列車の運転期間などを調べるにつれ、その記録が少ないことを痛感しました。昭和の時代、年末年始、夏季を中心に、多くの臨時の優等列車が運転され、定期列車には見られない趣味的にも興味深いものがありました。定期列車なら「列車名事典」「特急・急行のすべて」と言った書籍も出ていますが、臨時列車を扱った書籍は見たことがありません。列車研究の基礎となる時刻表においても、特発的な臨時などは支社・管理局単位で設定したりして、記載されていないものもあり、また私の場合、時刻表の保存は改正号に限定し、夏季旅行に使った時刻表は廃棄するのが通例で、ほとんど保存号がなく自ら調べる手掛かりもありません。
1980年代、居住地の近くの東海道線神足(当時)~山崎にも、この季節、多くの臨時列車が運転されて、よく撮影に行きました。時間帯が集中しているため、自転車でパッと行って、パッと帰ってくるパターンでした。地元を走った臨時列車は、地元の人間が記録しなければと思った次第です。夏の臨時列車(急行・快速)に限定して、断片的ですが、まとめてみました。
海水浴場へ向かう臨時列車
昭和40年代前半、若狭・丹後の日本海側の海水浴場へ向かう臨時列車は、すべて京都始発だった。そこへ大阪始発が加わったのは昭和42年から運転を開始した急行「わかさビーチ」である。当初はDCで、京都経由で小浜まで運転された。大阪湾岸の海水浴場が汚染で次つぎ閉鎖されたのと時を同じくしている。
続いて、大阪始発で日本海側海水浴場行きとして設定されたのが「丹後ビーチ」だった。この愛称は、もともと京都始発のDC急行として昭和43年に設定されたが、昭和49年から大阪発播但線経由の臨時となり、車両も12系客車に変更される。さらに東海道線・京都経由となり、山崎でも見られることになった(変更年不明)。
臨時列車 (4)丹後ビーチS59EF65PFが12系客車8両を牽く大阪発天橋立行き臨時急行「丹後ビーチ」(昭和59年8月)。天王山を望む、小泉川橋梁付近は、撮影スペースもあって、お気に入りの場所だった。現在は厳重な柵があって、立ち入りはできない。

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 丸善と京都市電

京都・河原町に書店の丸善が約10年ぶりに戻ってきました。「京都本店」と称するように丸善の旗艦店として、京都で最大級の書店デビューとなりました。先ごろ、乙訓老人にいただいた故・羽村宏さんの写真のなかから、かつての丸善が写り込んだ貴重な写真が出てきましたので、本日はそのご披露としましょう。
河原町蛸薬師「河原町蛸薬師」の前を行く京都市電。昭和30年夏の撮影と思われる。右手に見えるのが当時の丸善だ。京都における丸善の歴史は、明治5年に三条通で開店、梶井基次郎の小説「檸檬」で有名になったが、店は昭和15年に河原町蛸薬師に移転した。私もこの写真を見て、小さい頃の思い出が蘇ってきた。丸善の扱っていたのは、洋装品が中心で、書籍は洋書が多く、子どもは近づき難かった店だった。その後、昭和42年に6階建て、平成5年に8階建てを新築するが、平成17年に閉店してしまった。今回は、そこからやや北へ行った京都BALビルへ移転してオープンとなった。この写真は、京都市電の記録としても貴重で、900形907号はまだポール集電、昭和30年3月に901~915がデビューしているが、京都市電のビューゲル完了が同年末で、900形のポール時代はほんの数ヵ月の短い期間だった。後期の916~935は最初からビューゲルだった。そして河原町蛸薬師の電停、これは昭和38年に廃止されている。電停看板をも写し込んだ貴重な記録だ。

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あの頃は蒸気機関車が新車の自動車を運んでいたんだ。

 古いネガをデジタル化してみると、意外なものが写っているのでびっくりすることがある。デジタル化すると画像処理ソフトで露出設定などがうまくいっていない写真でも何とか見られるようになる。印画紙に焼き付けると何が写っているかわからないものでもよくわかるようになるし、モニター画面で拡大してみることもできるので細かい部分もよくわかる。そのようなネガの中で最近、総本家青信号特派員さんが50年前に山科で撮影された列車群の写真に刺激されて、1969年に大阪市内で撮った写真をデジタル化してみた。優等列車や貨物列車、それに蒸気機関車が牽引する貨物列車も写っている。その中に問題の蒸気機関車の写真があった。煙が巻いていたので、当時の印画紙に焼き付けた写真でははっきりわからなかったのであるが、デジタル化して拡大して貨物列車の積荷を見てみると・・・・

webS-MN02519-東海道線塚本尼崎間

大阪方面に向かってD51が走っていく。多分、宮原を通って吹田へ行くのであろう。背景に巨大なガスタンクが見える。これは神崎川の川べりにあった。

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 デジカメで遊んでみる -2-

車両を写してみた

デジカメの「ジオラマ」モード(または「ミニュチア」モード)は、画面に鉄道車両を入れることによって、さらに模型的、ジオラマ的に感じられます。今回は、車両を入れた「ジオラマ」モード撮影の一例を。 1332syo  “模型的”に見せる格好の車両は、やはり新幹線だろう。京都タワーの展望台から、京都駅を発車して鴨川に掛かるところを狙ってみた。ちょうど奈良線を越し、東海道線とも高低がある。車両の周囲により立体的に見える場所を選ぶのが、「ジオラマ」モード撮影のコツのようだ。

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