ゲテモノは遊覧のためか?

老人は学生時代、東京からの帰途に大井川鐡道に立ち寄り、多彩な中古車群に驚いた後はそのままとなってしまった。1994年春、彼岸の日に名古屋市交通局日新車庫で白井昭さんから声掛けを頂き、翌年の盆休みからご先祖さまに義理欠く行為を取るようになった。その発端は大井川鐡道が各地でお払い箱となった電車の再生工場であることに気付き、その指揮者が名古屋鉄道から出向されていた白井昭さんであった。

先ずオープンカークハ861号、種車は名鉄2805号だとされている。ならば戦後、京阪にもあった1300、1600型の兄弟で、車体長17m級の大型車となる。これを1986年に改造したもので、台枠と屋根を残しての工事を金屋口の工場で施工している。車内を見ていただきたい、木製対向座席の間にはテーブルがあり、表は白生地張となり御客様を迎える準備がされている。窓はなく雨が降ればどうするのか心配だ。30年ぐらい前から流行している各地のトロッコ号の先走りのようだが、こちらはボギー車で、単台車の貨車改造より乗り心地は上々であろう。千頭方に運転台があり、種車と同型の2822+2829(M+Tc)が牽引していたとのこと。

その牽引車の写真だが変色姿でごめんなさい。光沢紙裏面にはKodakとなっているが、20年たてばこんなに変色するのかと、実は驚いている。お詫びの印としてもう1景、京阪特急と並んだ1997年のKonika100年プリント、この年にクハは廃車となり牽引車も翌1998年に後を追い役目を終えた。
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 デジカメで遊んでみる -1-

駅を撮ってみた

最近のデジカメ機能の多様化には驚く限りです。キレイに撮るだけの基本性能は、とうに完成の域に達して、各社いかに独自の付加価値を加えるかに腐心しているようです。この付加価値、単なる“お遊び”では片付けられない興味深いものがあります。ここに採り上げる「ジオラマ」モード、または「ミニュチア」モードもそのひとつです。中央部だけピントを合わせて、周辺部はウンとボケを利かせ、実際の風景を、あたかもジオラマを撮ったような雰囲気に仕上げてくれます。以前は、撮った画像を、レタッチソフトで修整する必要があり、かなりの技量が求められましたが、いまはモードボタンひとつで簡単に撮れるようになりました。鉄道を撮ると、まさに9mmやHOのレイアウトを見る思いがします。P1060058syoトワイライトタイムの東京駅、東京中央郵便局を再生したKITTEの屋上庭園から、ライトアップされた丸の内南口を撮ってみた。復原されたドームを画面に入れて、駅前広場をボカした。自動車のライト、周囲のビルもぼかして、ジオラマの夜景風に仕上げた。

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 窓から写した駅・列車 -13-

道東-釧網本線・根室本線の窓から

窓から・北海道 (6)釧網本線川湯駅で交換する釧路発網走行き626レ、C58197〔釧〕+オハ6243+オハ6244+スユニ60301+貨車。列車以外にもいろいろな要素が写り込んでいる。まず駅舎は、昭和5年の駅開業のあと、同11年に完成したと言う。正面に白樺を使った三角形のファサードを持つログハウス風だ。近くに広大な御料地もあり、貴賓室も設けられた。いまは駅名が川湯温泉と改称されたが駅舎は健在で、数年前に訪れた時は、事務所はレストランとなり、足湯もあった。右手に見える山は、標高512mの硫黄山、駅から約3キロに位置して、硫黄の匂いが流れて来ることもある。現在も噴気活動をしている活火山が駅のこんな近くにあるのも驚きだ。そして右手にチラリと見えるのはスヤ393〔釧クシ〕、工事車のスヤ39は、マハネ29などの3軸ボギー客車を種車として、1~5、11、21、31の8両あり、この時代は5両が健在だった。宿泊可能な工事車で、工事があると、さまざまな駅に留め置かれていた(昭和43年9月)。

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 窓から写した駅・列車 -12-

北海道の旅から

しばらく休んでいた「窓から」シリーズ、再び続けます。座ったままで一歩も歩かず写した超安易な撮影ですが、車両だけでなく、何気ない周囲の光景が、雄弁に時代を語っています。夏にちなんで、涼しい北海道での一幕を。
窓から・北海道 (2)いま北海道の鉄道情報のひとつは、留萌線の廃止だろう。さらに苦しい状況に陥ったJR北海道が、留萌本線留萌~増毛間の鉄道事業廃止を発表した。同区間は大正10年に開業し、これにより留萌本線深川~増毛間が全通した。当時は留萌港からの石炭、木材、海産物の積み出しが盛んで、それらの物資の輸送で栄えたという。だが、石炭産業の衰退、沿線過疎化により鉄道需要が落ち込み、貨物輸送、急行列車も廃止となった。今回の留萌~増毛間はとくに利用が少ないと言う。さて、この写真は留萌線秩父別駅、今回は廃止を免れた深川-留萌にあり、列車は幌延発札幌行き急行「はぼろ」、キハ2716先頭の4連、当時、運転体系は深川-留萌-幌延と、留萌線、羽幌線が一体となっていた。時刻表も同様で、廃止される留萌~増毛は盲腸線扱いだった。まだ石狩沼田からは札沼線が、恵比島からは留萌鉄道が出ていた時代だ。「留萌」は、線名・駅名の表記は「留萠」だったが、平成9年から市名などに合わせて「留萌」に変更している(昭和43年9月)。

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おとぎ電車のこと

 総本家青信号特派員さんが宇治でおとぎ電車のミニ写真展が開催されていることを投稿されているのを見て、DRFC現役時代に「青信号」に「おとぎ電車の話」として記事を書いた時に叔父から受け取った資料を久しぶりに見てみた。青信号に記事を書いた時と違って、学生時代と違うことを感じてしまう。資料をよく見てみると昭和25年とか昭和26年1月などの日付があることから最初の 改造資料のようである。

おとぎ電車資料-1

資料が入っていた紙袋と線路図

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「さよなら梅小路」に寄せて

総本家青信号特派員氏が梅小路蒸気機関車館の閉館について紹介して頂きました。開館が昭和47年10月10日ですから あれから43年が経とうとしています。特派員氏は社会人1年生、私はDRFC5年生の時でした。実は梅小路の開館には我がDRFCもひと役かっています。と言うのも当時のDRFCには数名の女性会員(今でこそ鉄子と言われますが、DRFCは時代を先取りしていた?!)がいました。どういうルートで話が来たのか判りませんが、開館前日の10月9日には竣工記念セレモニーが行われたようで、そのセレモニーで2名の女性会員が和服姿でテープカットや花束贈呈を行ったのです。そして記念品やパンフレットを頂いています。それらの品は我が家のちょっとした家宝となっていますので ご紹介します。ただ残念ながら当日のスナップ写真等は残っていません。

C57の動輪を模した開館記念品

C57の動輪を模した落成記念品  日付は開館前日の10月9日になっている

 

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 宇治へ「おとぎ電車」展を見に行く

今日は、つぎのイベントの打合せを京都駅前のホテルで行なったあと、懇意にしていただいている方から紹介された「おとぎ電車」のミニ写真展の見学に、JR宇治駅近くのサイトー写真館へ行ってきました。「おとぎ電車」は、京阪宇治駅から宇治川を2キロほど上流を起点にした延長3キロほどの610mm路線で、もとは工事用軌道でした。ダムの完成によって不要となり観光用に転換したのが昭和25年で、天ケ瀬駅から宇治川右岸を上流へ、途中に信号所をはさんで、終点、堰堤駅までの20分の乗車でした。しかし天ケ瀬ダムの建設工事が始まり、昭和35年5月限りで姿を消してしまいました。写真展では、高橋弘さん撮影の写真を中心に、地元の方が撮られた貴重な写真も交え、コンパクトながらも、地元ならではの見応えのある内容です。

ほとんど撮られていない「おとぎ電車」ですが、私がまだ仕事中に、ある外国人カメラマンの写真集の仕事をした時、コダクロームで撮られた鮮明なカラーを見た時の感動は忘れられません。また「青信号」に、どですかでんさんが書かれた「おとぎ電車」の記事がもとになって、「レイル」誌上でその全貌が解き明かされたのも、クローバー会員にとっては、忘れられない一件となっています。
1359syo宇治の老舗写真展で開かれている「おとぎ電車」展。貴重な写真が並ぶが、私としては、天ケ瀬ダムが工事中の際に撮られた写真の中に、はっきりと廃線跡が分かる小道が見られるのは初めての写真だ。いまでは廃線跡はほぼダムに沈んでいるため、貴重な写真だ。8月25日まで開催。

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 さよなら梅小路

150814_066syo_edited-1    ▲ラウンドハウスに掲げられた「梅小路蒸気機関車館」の表示も今月限り。
梅小路蒸気機関車館が、今月末で終了することになりました。しばらく休館のあと、施設や保存車両は、来年春にオープンする京都鉄道博物館に引き継がれますが、「梅小路」の名を冠しての営業は、あと10日あまりとなり、「さよなら梅小路」のイベントが行なわれています。昭和47年の開館以来、何度も訪れた館ですが、13日からはイベントのひとつ、蒸機の頭出しが行なわれており、たまたま来京された出版社のOさんと一緒に訪れて、最後の梅小路を感じ取ってきました。
150814_039syo頭出しのなかで、いちばん注目はC62の並びだろう。あのC62の1号機、2号機が顔を揃えた。生まれは同じものの、その後は、両機とも有為転変の人生を重ね、再び梅小路で顔を合わせた。京都鉄道博物館には、あと交通科学館から来たC6226も、博物館のプロムナードに置かれる。C62が3機も揃うと言う、なんとも贅沢な博物館だ。

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港鐵城際直通車

香港から広州へ向かうZ804次

香港から広州へ向かうZ804次

8月5日、15年ぶりに香港-広州を結ぶ港鐵城際直通車に乗りました。前回は、当時中国最速の最高運転速度200キロの新時速にこの区間で乗りました。香港内ではノロノロ運転だったのが、深センを過ぎると新幹線に迫る高速運転になった記憶があります。
今や中国には、日本を凌駕する高速鉄道網があり、和諧号が深セン-広州102キロを52分で頻繁に運行されていますが、新幹線ならいつでも乗れると思いましたので、中国伝統の客車列車で香港から広州をめざします。 続きを読む

 50年前の撮影地を歩く -7-

丹那トンネル熱海口で東海道線・伊東線を撮る (2)
「丹那トンネル」の名の響きは、それだけで少年時代に引き戻してくれる気がする。少年時代、鉄道図鑑でいつも見ていた鉄道トンネルの長さは、1位清水トンネル、2位丹那トンネルだった。そして、必ず添えられるのが、多くの犠牲者を出した丹那トンネルの難工事だった。「長さ7804m、大正7年に着工したものの、軟弱な地質や、大量の湧水によって工事は難航、67名の犠牲者も出して、昭和9年にようやく完成した」と書かれている。時代が過ぎると、まず北陸トンネルが開通して順位をひとつ下げ、そして新幹線が開業するや、次つぎ長大トンネルが開通して、順位を落とし、今ではいったい何位なのか分からないほどに陥落してしまった。そんな丹那トンネルの変転を感じながら、いつも熱海を通るたびに気になっていた場所へ50年ぶりに訪れた。丹那 トンネル (2)丹那 トンネル (1)50年前は、翌日も早起きして、丹那トンネルの真ん前で写した。丹那トンネルを出る宇野発東京行き急行「さぬき」、坑門の上部、扁額の両側には、2578、2594と数字が書かれている。これは、着工年と開通年を皇紀で示したもの。扁額とは別に、「丹那隧道」と書かれた木製の表示も、当時は掲げられていた。 続きを読む

50年前の撮影地を歩く -6-

今でも時折、東海道線を在来線で上下する身にとって、心ときめかせる車窓風景も多くあります。富士山はその代表ですが、晴れた冠雪のシーズンに限られ、何時でも見られるとは限りません。その点、長い丹那トンネルを抜けた瞬間、熱海の街がパッと眼下に広がる瞬間は、何にも代え難い、心をときめかせる車窓風景に映ります。とくに西から長い時間を掛けて来ると、箱根の山も越え、いよいよ東国に入ってきた思いが募り、見える景色も車内で交わされる言葉も違って、ちょっとした緊張感と、あと2時間足らずで上がりとなる安堵感にも包まれる瞬間です。
丹那トンネル熱海口で東海道線・伊東線を撮る (1)
そんな、熱海へ50年前の昭和40年8月、家族旅行で行ったことがある。宿泊先が丹那トンネルに入る直前、伊東線来宮駅の左手の高台にあった円形のホテル、西熱海ホテルだった。元祖、トレインビューホテルのようなところで、部屋のベランダからは、前年に開業した新幹線を始め、東海道線、伊東線が収められた。ホテルは2006年に廃業し、その後も残骸が列車の窓から見えていたが、いまは建て替えられて、東急のリゾートマンション、ヴィラ熱海青翠になっている。
丹那トンネル (8)暮れるまでの間、さっそくカメラを携えて、線路端へ向かった。真下が来宮駅の構内で、まだ伊東線全線が単線の時代、列車の交換が見られた。構内の通行は線形の関係で、右側通行になっているのが特徴で、右は伊豆急下田発東京行き準急「おくいず」、まだ準急が幅を利かせている時代だった。左は熱海発伊豆急下田行き629M、伊豆急156号ほか7連。

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盆休みに先祖を迎えず電車三昧(Ⅰ)

盆休みとなると毎年のように大井川鐡道に通っていた。その起源は元京阪特急が走るようになったからで、新金谷駅徒歩1分の吉川(きっかわ)屋旅館が定宿になった。ある年は準特急氏、逗子の旦那様、総本家氏に加えJTS牧野1号氏と共に在庫ビールを飲み干してしまったが、翌朝は5時前に起床、金谷駅近辺に散開して寝台特急を迎えた。

その頃、木造国電のなれの果てに次いでステンレス車体の両運転台車が千頭駅に留置されるようになった。1950年代中期から各地で見られた日車型スタイルなのだが、このステンレス車1105号の銘板では昭和35年汽車会社となっていた。1105号は岳南鉄道に入線、お払い箱となるや大井川に来たものだ。

大鐡にはステンレスカー以外にアルミカーもあった。こちらは正真正銘の昭和38年日本車両製で、北陸鉄道加南線で走っていた。「しらさぎ号」と名付けられ国鉄のお株を奪ったようなものだ。日頃は2両だが多客時となると電気機器の相性あう2両と4両編成で走った。近鉄特急のお古が揃った時点でこちらも休車となり新金谷車庫の本線側の留置線が定位置となった。何時の間にやら見られなくなったので、車庫で聞いてみたら故郷の山中温泉に里帰りしたそうだ。

孤独な1両でのステンレス製

孤独な1両でのステンレス製

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50年前の撮影地を歩く -5-余話

50年前の山科大築堤に対して、西村さんから「貨物列車も」とのリクエストをいただきました。なるほど、載せた写真は旅客列車ばかりで貨物列車は一枚もありません。ところが、撮影に行っても旅客列車だけで腹いっぱいになり、貨物列車はほとんど撮っていません。いまでこそ、貨物列車はすごい人気ですが、当時はほとんど顧られなかったような気がします。わずかな写真のなかから、50年前の貨物列車を偲んでみました。
山科50年前3この年に新形式のEF65が吹田第二機関区からデビューしている。EF60の三次車をベースに、歯車比の変更、新設計の制御器を積み、高速走行と牽引力の向上をはかった。その後、ブルトレ牽引のP型などの派生番台を生み、合計308両と言う電機の最大両数となるのだが、デビュー当時は、それまでのEF60と変わらない外観に、それほどの話題に上がらなかった。

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撫順炭鉱鉄道101系(満鉄ジテ)

№880に準特急氏が投稿されたのがまさしくこの電車で、それに№899で解説を下さったのが湯口先輩でした。 関先生によると、この車両はすでに鬼籍に入ったとのことですから、準特急氏の写真は大変な貴重資料と言うことでしょう。
撫順101型(満鉄ジテ)_NEW 撫順101型(満鉄ジテ)(文)_NEW

50年前の撮影地を歩く -5-

暑い毎日が続いています。私自身は、いままで関わってきた発表・イベントも一段落し、本ホームページへの投稿には絶好の機会となりましたが、構想だけはアタマを駆け巡るものの、この暑さではキーボードを打つ手が前へ進みません。でも、ここで一念発起、溜まった夏休みの宿題を一夜で片付けるべく投稿を続けます。

東海道新幹線開業後の山科大築堤
前回の「50年前-4-」では、東海道新幹線開業の前日、山科大築堤の様子をお伝えしたが、今回はその一年後、山科大築堤で定番の撮影ポイントに陣取った東海道新幹線開業後の記録を(いずれも昭和40年8月1日撮影、撮影順)。
昭和39年10月に東海道新幹線が開業し、在来線も大きな節目を迎える。しかし、東京-大阪の電車特急こそ全廃されたものの、電車急行は多くが存置された。九州を結ぶ寝台特急・急行にも変動はなく、現在のような、新幹線開業によるドラスティックな変更は見られなかった。この時期、臨時列車も数多く運転されていて、まだ東海道線には、長距離列車が華やかに走っていた。        50年前9朝の光線を受けて山科を行く、東京発大阪行き急行「明星」、東京-大阪間の夜行急行(客車・電車)は、ほかにも「銀河」「金星」「月光」「いこま」があり、九州方面への夜行急行も加えると、10本が運転されて、夜行列車の全盛時代が続いていた。

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JAPAN RAIL PASS 東舞鶴へ乗り鉄旅の出来事

7月26日、昨夜の綾部の花火大会に魅せられました。今日は舞鶴の”みなと舞鶴 ちゃったまつり”でも花火大会が開催されますので行く事にしました。約5,000発の花火が舞鶴湾に上がります。

そして、その帰路に東舞鶴から乗車した最終列車で、娘さんとご両親の3人連れと席が一緒になりました。何か落ち着かれない様子でしたので「何かお困りですか」とお聞きしますと、「これから大阪まで帰るのですが、この列車で大丈夫ですか?」です。
そして、首からかけられたビニールケースには、何と「JAPAN RAIL PASS」を入れておられました。日本語が流暢なので日本人と思った3人連れは遥かブラジルから来られていた日系2世のご両親と、3世の娘さんでした。
DSCN0239_100 続きを読む

老人の69年前の広島での思い出

8月3日早朝、3時に目覚めテレビをつけて見た。原爆投下の日に広島で市内電車を運転していた若い女性の、今も健在の方の実話をまじえてのドキュメントが放映されていた。過去に何度も彼女達の話は紹介されているが、広島電鉄が今も残る車両を提供し、千田車庫内で彼女たちがハンドルを握るシーンを再現したものであった。原爆投下後の町の姿を紹介するシーンでは、1946年8月に兄と共に電車から見た光景だな、と思うや蒲団を上げて正座した。

原爆投下後の広島の姿を見た時の老人は満8歳、小学校2年であった。7月、夏休みになるや父母に連れられ母の実家、田舎:島根県鹿足郡六日市町に向かった。呉線まわりの下関行きで目覚め、広島の街を見てびっくりであった。横川駅を出ると大田川の築堤となるが、築堤下には貨車が転がっていた。そして己斐駅、スッカラカン、改札口だけに屋根があった。祖母の葬儀の帰路で乗った宮島線の電車、そして市内線の電車も留置されていた。電車は走っている。乗りたい! 父母は3泊して老人を残し帰京した。一人になっても実家周辺には同年輩の遊び仲間が多数おり心配なしだが、電車狂いには気になるのは己斐駅で見た電車の姿であった。迎えに誰が来るのか、ばんざい!願い通りの兄がやってきた。しめたとばかりに帰路は己斐で途中下車、市内電車で広島駅に出る交渉は成立した。
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南満州鉄道京城管理局ジハ

南満州鉄道京城管理局サイズ小
関センセ記事紹介への米手作市氏リードにあった、ン10年前ボックスでの記憶=朝鮮ジハとは、南満州鉄道京城管理局の蒸気動車1~4である。機関部がB型とお書きだが、1Aのシングルドライバーで、ピギーバック式に客車部を背負っており、運転整備全重量50噸とは、流石に標準軌間である。機関部は大阪の汽車会社本店、客車部は現地京城工場製とされる。汽車会社の蒸気動車というと工藤式と思い込まれ勝ちだが、これは1923年7月製――工藤式の発明者工藤兵治郎が汽車会社退社後であり、彼の特許は何一つ使われていない。ただ使い勝手が良くなかったか(方向転換に15メートルの転車台必要)、欠陥車輌だったかで、2両の機関部は単独で入換機?21、22に改造されてしまい、シングルドライバーのタンク機関車として「シグ」なる記号が付され、その重量運整28.5噸というから、日本での小型機顔負けである。
南満州鉄道京城管理局ジハ形式図

朝鮮鉄道デハニF

学生時代に部室で朝鮮鉄道・「鮮鉄」にあった、蒸気機関車とダブルルーフの客車を1両にした「ジハ」と言う車両を見たことがありました。本で見たのか、写真を見たのか、模型を見せて頂いたのかは忘れましたが、B型の小さな機関車と一体になった緑色の客車がかわいらしく、もう一度みたい思いに駆られています。
朝鮮鉄道デハニF_NEW 朝鮮鉄道デハニF(文)_NEW