ふた旅 めぐる旅 東北編 ②

陸中山田

今回、三陸鉄道の「トレランス」乗車では、前掲の大槌のほかにも、定点対比したい駅がありました。リアス線に乗って、大槌から5つ目の陸中山田駅であり、50年前、列車で通った際に、交換列車を撮影していました。東日本大震災の時、山田の被害は甚大で、津波だけでなく、その後、大規模な火災が発生して、街を焼き尽くしたと言います。昭和47年2月、山田線の急行「陸中」に乗車し、大槌に停車したあと、つぎの停車駅、陸中山田で636Dと交換する。陸中山田は、山田線の語源となった駅だけに、この地方の中心で乗降も多い。交換列車は、盛岡発花巻行きで、当時は、山田線・釜石線を通しで運転する列車が多かった。今なら、何本の列車にも分割されてしまうが、250kmを7時間掛けて運転されていた。先頭キハ22 292ほかの6連で、列車本数は、いまの三陸鉄道とほぼ同じだが、いかに輸送量が多かったかが分かる編成だ。北海道向けの寒冷地仕様のキハ22は、一部東北にも配置されていて、この盛岡区所属が南限のキハ22だった。

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駆け足の八戸旅

去る8月25日に佐竹大先輩主催の三陸鉄道「トレランス10号」ツアーに便乗させて頂き、大槌から久慈まで三鉄旅を楽しませて頂きました。久慈で一行と別れて、JR八戸線を北上し、私は本八戸で下車、青信号特派員氏はさらに八戸から大湊へ向かわれました。私は八戸で1泊し、翌26日に三沢空港から帰路につく予定で、約半日余りをレンタカーで八戸近辺を回るプランを立てていました。そのメインは八戸臨海鉄道の撮影でした。

まずラッキーなことに、八戸で泊まった八戸プラザホテルの6階の部屋からは、丁度本八戸駅と八戸線を見下ろせて、何の苦労もなく行き交う八戸線列車を撮ることができました。

本八戸駅で426Dと交換し 鮫に向かう1427D E131-506

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 ふた旅 めぐる旅 東北編 ①

佐竹さん「トレランス」乗車をメインに、東北地方を巡ってきました。久しぶりの長期の旅行となりましたが、“古稀”を迎えた今、鉄道旅行のスタイルも変えざるを得ません。身体の続く限り、“生涯現役”の心意気ですが、昔のように、歩き回ってガンガン写しまくる撮影中心の強行軍は、さすがに無理になったと言うか、そこまでして撮りたい車両・列車も見当たらなくなりました。そこで、「今昔対比を一人でできるのが老人の特権」の格言(?)を活かし、今回も、50年前に訪れた同一地点を訪れて、変貌ぶりを確認する定点対比と、そして、この歳になって、急に目覚めたJR全線乗車を“18きっぷ”で達成したい思いを持って、東北へと向かいました。

釜石
昭和47(1972)年の国鉄釜石駅、駅前に出ると、当時の新日本製鐵釜石製鉄所の巨大な煙突が聳えていた。駅の真ん前に、こんな煙突・工場があるのも、“鉄の街”釜石ならではの光景で、思わずカメラを向けたことを覚えている。釜石製鐵所は、日本最古の製鉄所で、最初は官営で1880年に創業を開始した。

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 「TOLERANCE 10」 大槌を行く!

今回、「TOLERANCE」に乗車の目的は、参加者とともに被災地や鉄道の復興に思いを馳せることでしたが、私にとっては、もうひとつ大事な目的がありました。「大槌で新旧の定点対比をする」ことでした。大槌は、佐竹さんが大槌川を渡るC58の列車を撮られた場所であり、私も乗った急行列車の窓から交換する列車を写した駅でした。さらに、客車廃車体研究家の井原さんにとっても、高台からC58貨物を撮られた場所と、クローバー会会員には思い出の地であり、この3点の写真は、第三回クローバー会写真展「忘れない。東北-思い出の鉄路を巡る-」でも展示されました。
今まで大槌の訪問は、山田線の不通で、バスに頼らざるを得ず、「TOLERANCE 8」で大槌を訪問した際も、貸切バスの窓から、橋脚だけの大槌川橋梁や被災した大槌町庁舎を眺めるだけでした。今回のツアーでは、8年ぶりに鉄道が再開され、鉄道に乗って、自分の足で歩いて、大槌の現在を確かめることができました。高台から見た大槌の街、中央が新しくなった三陸鉄道の大槌駅、背後ではまだ防潮堤の工事が続いている。街は、全体がかさ上げされたが、かつての山田線の大槌駅もこの場所にあった。50年前にこの場所で見たものは‥‥。

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 「TOLERANCE 10」 三陸鉄道を走る!

お馴染み、「TOLERANCE」の青いヘッドマークを掲げた貸切列車が、三陸鉄道の真新しい軌道を走り抜けました。東北への思いを寄せられている山科の人間国宝こと佐竹保雄さん、ことし3月、JRから移管されて新しく開業した釜石~宮古を含む三陸鉄道の全区間を、貸切列車「TOLERANCE 10」で走り、参加者約30名は、車窓から沿線の復興ぶりも確認しながら乗車を果たしました。
大槌駅で参加者が待ち構えるなかで、ホームに進入する「TOLERANCE 10」、車両は“レトロ車両”の36-R1号、茶色の塗装に青いヘッドマークがよく似合った。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【16】

ボンネットバスの本場を行く

前記で触れたバス撮影とは、熊本県下に路線網を広げている九州産業交通のボンネットバスの撮影でした。昭和50年代前期は、少数ながらも、全国の路線バスでボンネットバスがまだ走っていました。なかでも“産交”の略称で呼ばれる同社には、天草などの島や山間部に、全部で30台前後のボンネットバスがあって、当時は、日本一のボンネットバスの保有会社でした。一部は熊本市内にも堂々と営業車として出入りしていて、前々記の北熊本駅付近でも、市電を撮っていても、突然、姿を見せて走り去ることが往々にしてありました。当時は、ボンネットバスに熱を上げていて、市電を撮影していて、ボンネットを逃したことを大いに悔やんだものでした。
前記で述べた宮原線の終点、肥後小国の駅前に、九州産業交通の小国営業所があり、ここにもボンネットバスが2、3台いた。そのなかで、注目すべきは、トヨタのボンネットがいたことで、特徴ある前部を見せて車庫の中で休んでいるのを見つけて大喜びした。トヨタのボンネットバスは、移動電源車や電電公社の業務用のバスの製造例はあるが、営業用としては極めて珍しく、あのトヨタ博物館でも1台だけが保存されている。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【15】

宮原線を行く

前述の熊本訪問のホントの目的は、近くの宮原線の乗車と、後述するバスの撮影でした。宮原線は、久大線恵良から分岐して肥後小国へ至る26.6kmのローカル線でしたが、国鉄の第一次地方交通線に指定されて、昭和59年に廃止されます。全列車が車両基地のある豊後森を始発としますが、全区間を走る列車は、朝夕の一日3往復のみ、豊後森へのアプローチもあって、乗車の難度が高い線区でした。ただ、土曜日だけ通学生の便を考慮して、午後に一往復が設定され、なぜか夏休みでも運転されており、土曜日に合わせて、やっと宮原線の乗車を果たすことができました(以下、昭和51年8月)。
肥後小国に到着したキハ20の単行、乗降客もあり、駅員もいて、手小荷物も扱っていたことが分かる。土曜日の午後だけ見られる、ささやかな賑わいだった。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【14】

前々記の日南線訪問の翌年、昭和51(1976)年の夏にも九州を訪れています。その時の一端を上熊本駅周辺のカラーで回顧します。上熊本は、熊本のひとつ博多寄りにある国鉄の駅で、今でこそ、平行する九州新幹線に合わせて、駅が高架化され、駅前も再開発されていますが、当時の上熊本の駅舎は開業時のままで、もとの九州鉄道のスタイルを色濃く残した駅舎でした。そして、駅前を出ると、左手に熊本電鉄の上熊本駅、右手に熊本市電の上熊本停留場があり、小さいながらもターミナルとして機能していました。熊本電鉄の上熊本駅に到着する、北熊本~上熊本の折返し電車、モハ301が、国鉄貨車2両を牽いて到着したところ。国鉄へは連絡線があって、国鉄貨車が乗り入れしていた。と言っても、量はわずかなもので、貨物列車の設定はなく、電機も在籍せず、営業の電車が、貨車を牽いたり入換をしていた。モハ301は、もと小田急デハ1100、4両が熊電に来て、両運化された。熊本電鉄は、914mmの菊池軌道がルーツで、まだ軌道時代の面影が色濃く残り、タブレット、腕木信号機と、まだまだ前時代的な地方私鉄の様相だった。駅舎回りも、以前に見た湯口徹さんが撮られた昭和30年代と変わらず、右端の広告もそのままだった。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【13】

東北のDL

昭和の時代、カラーフィルム、とくにポジは貴重品で、“ここぞ!”という時しか撮りませんでした。非電化区間で撮る場合、勢い、黒い蒸機ではなく、合い間に来る、DL、DCをカラーで多く撮りました。今回は、そんな思いで撮った東北地方のDLの例を挙げてみました。
ディーゼル機関車の揺籃期、車両メーカーでは、技術の習得、海外輸出への布石もあって、試作の機関車を製造していた。国鉄が借り入れて、実際に列車を牽き、使用実績を積み上げていった。形式も、最初は40番台、のちに90番台の形式が与えられた。これらは1形式1両、塗装もいろいろで、全部で10両あった。写真のDF901も、その1両で、電気式C-C配置で、昭和32年、水戸区に配属されて、常磐線で急行を牽いたあと、昭和36年に秋田区へ移った。昭和45年度には廃車されたものの、しばらくの間、東能代機関区のラウンドハウスの横に放置されていた。秋田区では実際に列車を牽いたことは少なかったようで、記録は見たことがなく,逆に廃車後は撮りやすい位置にあり、記録が多く残っている(以下昭和46年8月)。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【12】

真夏の日南線

昭和の時代のカラー写真の思い出、つぎは九州の日南線で、昭和49年8月に訪問しています。蒸機の末期の頃でも、日南線にはC11が牽く貨物列車が運転されいて、二泊三日で集中的に撮りに行きました。九州へは、それまでにも何回か行っていますが、日南線へ行くのは初めてのことでした。九州にあっては、“C11の牽く貨物”ぐらいでは優先順位はうんと低いものでした。
真夏の日南線と来れば、海水浴しかない。夜行列車で宮崎に着き、日南線に乗り換えて、まず大堂津に着いた。油津~大堂津~南郷は、海岸沿いを日南線が走り、多くの撮影地とともに、海水浴場もあった。朝からカンカン照りのなかでC11を撮り、駅に引き上げた。「歓迎 大堂津海水浴場」の看板も右手に見える。家族連れも若者も、みんな列車の利用で、小さな駅は大賑わいだった。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【11】

前記のように昭和47年8月には、東京・横浜で写したあと、新宿16時45分発の「アルプス7号」のキハ65にみんなで乗り込みます。同乗したのは、たしか準特急さん、F本さん、逗子のTさんで、ボックス席を確保して、積もる話に花が咲きました。向かう先は小淵沢、その当時の気動車でも3時間走れば、信州の高原の駅に着くことができました。昭和40年代も後半になると、蒸機は急激に活路が狭められ、小淵沢から分岐する小海線は、首都圏から最も身近な蒸機の運転区間となっていました。シーズンには、C56の牽く客車列車も運転され、多くの人が押し寄せていました。小淵沢から分岐する小海線の沿線には、この時期、撮影者だけでなく、ハイキング客も多く乗降した。標高1138m、野辺山、清里、甲斐大泉に次ぐ高さの信濃川上も同様である。C56の牽く貨物列車が待機して、まもなく次の上り列車が到着しようとする。ホーム上の客は、思い思いの格好で次の列車を待っている。帽子、服装、リュックからも、当時の様相が見える。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【10】

東京で特急・都電を撮る ー真夏の思い出①ー

暑い毎日が続いています。若い頃は、この暑さにも臆することなく、旅に出掛けたものでした。学生時代は、長期の夏休みがあるため、涼しくなった8月下旬からの長期旅行が多かったものの、社会人になると、盆休みや2、3日の夏季休暇が、貴重な旅行チャンスとなりました。冷房もほとんどない時代、いちばん暑くて混み合う時期に、猛然と出掛けた行動力、情熱を感じずにはいられません。夏の熱気を感じると思い出す、1970年代の撮影行きを偲んでみました。

この旅行は、OBとなったばかりの頃、今も親交が続くクローバー会の皆さんと連れだって行った時のこと、いちばんの目的は、小海線のC56牽引「八ヶ岳高原号」だが、関西組はまず上京して、周辺で一日撮ることになった。当時の大垣夜行のグリーン車に乗り、東京に着いたあと、東北本線の川口へ。まだ東北・上越新幹線は影も形もなく、お盆の休暇が終わる頃は、上り列車が続々と通過して行く。EF58+EF57の重連急行、161・181系特急、EF56荷物、EF13貨物と、関西では見られない電機、電車に目を奪われた。写真は上り「とき1号」(以下、1972年8月)

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癒しの島 台湾鉄道2019年夏の旅 Part 11 和里、大里で撮る 帰国トラブル

第8日目 6月10日

CT273号機を追いかけた今回の旅も今日が最終日です。不銹鋼號さんは桃園空港からタイガーエアーの0:00発の深夜便で羽田に向かわれます。私も同じく桃園空港から18:35発のピーチ航空で関空へ向かいますので午前中は撮影可能です。相談の上、和仁大里で撮ろうとなりました。

① 花蓮 7:12(區間車4513次)⇒7:42 和仁

 6:03 早めに行って駅撮りをしたいとの不銹鋼號さんのご希望でしばし駅撮りを楽しんで和平行きの區間車に乗りこみました。
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 “ビア電”乗って 昭和の近江鉄道を偲ぶ 【4】

最終の“昭和の近江鉄道”は、駅めぐりとしました。歴史のある近江鉄道のこと、開業時に建てられた駅舎がまだ健在の頃で、昭和の匂いが漂っていました。今では、地元の施設を併設して建て替えられた駅も多くなり、当時の面影は、ほとんど残っていません。今まで記録した、八日市、高宮、日野の駅の昭和時代です。

八日市駅

昭和の時代の八日市駅。いまの近江鉄道の愛称で言うところの湖東近江路線、水口・蒲生野線、万葉あかね線の3線が交わる中枢の駅。ご覧のように広告がベタベタと貼られた、木造二階建ての駅舎、当時、地方鉄道に乗ると、こんな駅舎によく出会ったものだ(昭和53年)。

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癒しの島 台湾鉄道2019年夏の旅 Part 10 花東線、花蓮港海岸線、花蓮港站展示館を見る

第7日目 6月9日 その2

事務所ビルのような花蓮港站

CT273号機イベント列車を撮影、見送った後、花蓮市内へ向かう帰りのタクシーがあるかと付近の方にお聞きしましたがありません。路線バスの停留所もなくどうしようもありません。市内まで歩くと1時間以上はかかりますのでこの猛暑ではたどり着くまでに倒れてしまいます。名案が出るまで花東線の歴史の写真が展示してある花蓮港站駅舎内を見てみることにしました。
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 “ビア電”乗って 昭和の近江鉄道を偲ぶ 【3】

複雑由来の電車

近江鉄道、電機のつぎは「電車」とします。ビア電の時も、“近江の電車、どこから来たんやろか?”の質問をもらうのですが、“西武鉄道のお古”としか答えられませんでした。近江鉄道の電車の出自は、実に複雑怪奇で、ひとくちでは言い表しようがないのです。たしかに最近導入の100形は、西武の新101系をそのまま使っており、来歴をたどるのは簡単です。しかし、ビア電で乗車した800形のように、下回り流用、車体新製のように見えても、内実は、“名義上”とか“書類上”とかの改造・更新が何回も複雑に行なわれています。ましてや昭和の時代にまでさかのぼると、理解ができないほどの複雑怪奇さです。

過去の趣味誌を見ても、近江の車両紹介は極めて少ないのが現状です。そんななか、1976年のDRFC現役生が、鉄道ピクトリアル「学鉄連研究シリーズ」で近江鉄道を採り上げています。ただ、現役生にとっては重荷だったようで、“過去の著作をかなり参考に”したと正直に述べていました。本欄では、2014年7月に、藤本さんが、すべて写真付きで来歴を調べられており、精力的、継続的な調査には頭が下がります。私も学習すべく、一度はメモしたものの、難解さのあまり途中で止めてしまいました。

日野駅で交換する上下の電車、左:モハ9、右:モハ5と、一桁の車番の電車が交換するのも、昭和の近江鉄道らしいところ(1978年)。

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癒しの島 台湾鉄道2019年夏の旅 Part 9 CT273号機 花蓮港線を走る、撮る

第7日目 6月9日 その1

昨夜は白川さんグループと合同夕食会を開催、白川さんお薦めの麺屋で花蓮名物のワンタンを食しました。席上、今日走行する花蓮港線のCT273号機「台鐡開業132周年記念イベント列車」に乗ってみようとなりました。ただ当日販売される当日指定券は並ばないと確保できないそうで朝早くには駅に行かなければなりません。
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癒しの島 台湾鉄道2019年夏の旅 Part 8 CT273号機回送を追う、電化前の太麻里、金崙

第6日目 6月8日

撮影地;山里~台東 花蓮から台東へ走るCT273号機牽引列車の撮影は終わったので今日は、花蓮へ戻る回送を撮った後、電化工事が進む太麻里金崙で撮影することにしました。今日も朝から古さんのタクシーをチャーターして向かいます。
写真は8:37、花蓮始発新左營行きの自強306次9両編成です。
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癒しの島 台湾鉄道2019年夏の旅 Part 7 CT273号機 5832次を撮る

第5日目 6月7日

今日は今回の旅の目的だったCT273号機が東部幹線花蓮~台東を走行する本チャンです。皆さん既にこの区間の走行撮影の経験がありますので今回はまだ撮っていない撮影地と再度撮りたい撮影地を回ります。
8:00、いつもチャーターしている古さんのタクシーにホテルまで来てもらい出発しました。

▲ 9:09 最初に訪れたのは海端~關山の花東公路陸橋上「徳高陸橋」です。緩やかなアウトカーブを行く列車を編成を入れて撮れます。この時間は順光となりますので荷物車3両を入れた莒光號を撮るのが目的でした。
大勢の鉄ちゃんが橋上に並んでカメラを向ける中、花蓮始発台東行きの莒光602次が駆け抜けていきました。

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