いつものことながら名鉄はちんぷんかんぷん!!
だれか解説をお願いします。
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やっと目覚めた福島電鉄の思い出
デジ青【17434】2012年1月13付で須磨の大人から1971年4月12日に廃止となった軌道線について「出番でっせ!」と尻を叩かれた。目下幽閉の身であるので身動きできない、解放後に後塵を浴びさせてもらうとコメントを入れてから4年半近くなる。その間、身辺に……、言い訳が多い気ままな生活を送ってきたことで申し訳ない。そこで福島について思いを寄せてみた結果、、貨物列車が2ケ所から郊外に向けて運行していたことに思い当った。小学生の頃から京阪電車が天満橋~塩小路貨物駅間で貨物電車を走らせているのに興味を持っていたが、1955(昭和30)年6月25日に営業廃止となった。関西では近鉄、南海で残っていたが、両親の出生地、つまり田舎と現在の生活拠点の京都を結び種々雑多な物品が「小口便」と称するもので行きかいしていた。兄の結婚相手は近江八幡の人で、こちらは「飛脚便」で行き交いしていた。祖母は小口便を「チッキ便」と呼んでいたが、その違いはここでは触れない。
2016年 初夏の北陸路一人旅 Part1 越美北線 その1
備後路の新緑を追った旅の次は6月4日に開催されるクローバー会「富山旅行」参加をまたいでの北陸路の旅を計画しました。北陸路は2011年からほぼ毎年のように訪問していますが初夏の時期は初めてです。田植えも終わり新緑も深まった北陸路を走る電車たちを撮るのが今回の狙いです。今回は移動に便利で宿泊代もかからないぶんしゅう7号に乗って出かけることにしました。
ついでに今まで行っていなかった合掌集落のある白川郷や五箇山にも行ってみたい、黒部渓谷鉄道にも初めて乗ってみたいと、その奥に入るパノラマツアーも申し込みました。問題は天候ですが週間予報では雨が降る気配はありません。後は事故がないようにゆっくり行こうと5月31日に出発することにしました。
今春の撮影
早いもので今年も梅雨の時期となった。鉄道写真も季節を表した作品はその季節のうちに投稿すべきと思う。旬のものは当然時期があることはわかっているのだが、私のデジ青「今春の撮影」は見事な西日本や津軽の桜の連続発表の後で投稿を躊躇しているうちに時期を逸してしまった。興醒めでいまさらとお叱りを受けるのを覚悟で拙作を発表させていただく。
最初のJR相模線はデジ青では一度発表されたことがあるが、地味な路線で話題性に乏しい。昔はC11が貨物を牽引し、気動車も晩年は近郊型のキハ35系であったが何れも撮影したことはない。ただ、この地味なローカル線も私の家からそう遠くはなく相武台下に桜の名所もあり近年は時々出かけている。今回は桜の前に咲き誇った菜の花を題材にしてみた。
出発!ローカル線聞きこみ発見旅
という番組があります。
BSジャパン(BS7)の旅番組ですが、6月13日19:00から今話題の木次線をやります。
内容は男女のタレントが一泊二日の間に全線の名所や名物を10ヶ所見つけるという単純なものですが、普通は下りないだろう駅にも立ち寄るのがおもしろいところです。
さて、木次線ではなにをおもしろいものとして選定するかに興味がわきます。
ちょうど話題沸騰中の「木次線」ですからご案内しました。
熊本市電171号(現長崎電気軌道601号)の活躍
長崎電軌600形601号は元熊本市電170形171号で昭和28年3月製、昭和44年8月に熊本から長崎に譲渡された電車です。熊本ではほかの車両より小さめでしたが長崎では200形300形と同サイズです。172号と2両が譲渡されましたが172号は昭和62年に廃車となっています。最近では保存車的な存在で秋の「路面電車の日」に走るか「貸切」で走るか程度でほとんど車庫にいます。しかし常に整備され車内にICカード対応の設備も設置されいつでも営業運転できる状態になっています。今回の熊本地震に際し募金箱を乗せて《がんばれ!!熊本号》として一般運用されています。
5月中とのことでしたので その活躍を見ようと行ってきました。(2016年5月25日)
↓ 朝 浦上車庫から出庫し 赤迫折り返し 1系統「正覚寺下」行きで長崎駅前にやってきました。JR長崎駅からの歩道橋が左に見えます。
朝のラッシュ時なので車内は満員です。長崎は坂の街 自転車の少ない街で路面電車の乗客は多いですね。
171号の色は熊本から譲渡された時の色に復元されていてきれいです。
「熊本地震」義援金 募金箱 設置のご案内 と側面に表記されています。
伊豆急100系
【くまモン】は誕生前だった
今や熊本は【くまモン】で沸き返っている。それはさて置きデジ青【71074】では初めて熊本に足を踏み入れた時、熊本駅前から藤崎宮まで歩き当時の熊本市電を紹介した。その後も熊本には片手以上の回数で足を踏み入れている。瀬戸内海航路や航空便で九州に渡り別府や湯布院の温泉につかり、上達が見られないゴルフを諦めた後は熊本観光組となった。その頃に大阪市電900型導入を目撃した。またワンマンカーに乗り合わせた折に乗車券が区間制で、不思議な思いに駆られたことが思い出される。何故か博多経由の熊本入りは1989年までなかった。
1989年のGW5月2日、午前中に工事段取りを済ませ山陽新幹線で九州に向かった。門司港の街並み見物と夕食後、門司港初発夜行急行「かいもん」で鹿児島に向かった。小倉から転換クロスは満席、博多では釣り客で超満員となった。鳥栖を前にして転寝となり、発車衝動以外はぐっすりであった。終着鹿児島中央駅の降車客は座席定員の半分を割っていた。九州で夜行列車に乗ったのは1958年9月以来のことで、その時は松山→別府→鹿児島のコースだったのだが、台風襲来で行く先々で雨雲に追われる始末であった。今回の鹿児島は快晴だが午後になると薄曇り(桜島の灰)となり、特急で熊本に向かった。旅行業者に頼んだ宿は市電車庫の斜め向かい。これ幸いと夕食後に撮影許可を貰いに出向き、操車室で京都から来たといって歓談、ついでに手続きを済ませた。これで翌朝の動きが楽になる。
カラーで蘇ったクモハ73106東ウラさんの木次線三段スイッチバックの写真
デジ青で、いつもコメントをいただいているクモハ73106東ウラさんにぶんしゅうさんがお願いした出雲坂根三段スイッチバックを登るC56の貨物列車の写真を見せていただきました。元は総天然色写真だそうですが退色劣化が激しいので白黒で公開されました。やはり総天然色ではどのような写真だったのかと興味がわきます。それで厚かましいのでしたがクモハ73106東ウラさんにお願いをしてJPGファイルで送ってもらいました。見た瞬間にアッと思ったのですが総天然色に復元すると言ったからにはやらないといけません。艱難辛苦の末、出来上がりました。まだ、ちょっと色調が気になるのですが公開いたします。公開にあたってはクモハ73106東ウラさんから了解をいただきました。
コメントにもありましたように1971年3月の撮影だそうです。想像して色調整をしなければならないのが難しところです。最初にカラー復元したものは撮影された3月下旬とはかけ離れた色の風景でした。それを何とかそれらしく見えるように再調整をおこないました。参考になる風景の写真がなかったので火野正平のこころ旅で丹沢山系の風景が放送されました。季節としてはほぼ同じようなので、これを参考にしました。それが先ほどの写真です。それでは最初に調整した写真はどのような色であったかというと
福塩線の通学列車を追って
また福塩線か、また中国地方かとブーイングが聞こえてきそうですがご容赦を。「中間考査」なるものに縁がなくなって50年近くが経ちます。徹夜で丸暗記とか、ヤマをかけてマル外れとか、一旦昼寝してから夜に勉強するつもりが熟睡してしまって赤点とか そんな思い出多いのが私のテスト期間です。今どきの高校生たちのテスト期間中の様子や通学列車の雰囲気を見たくなり、丁度どですかでん氏が日帰りで福塩線の乗り鉄に来られるのに合わせて出かけました。列車本数も乗客も多い都会の鉄道では通学生はそれほど目立たないでしょうが、通学生が頼みの綱の地方線区では学校行事と列車運行が連動している状況を今まで考えたこともありませんでした。今回は撮り鉄ではなく、乗り鉄なのでマイカーを使わず JRに貢献することにしました。
福山発11:15の府中行き243Mに乗ります。福山市内の高校も中間試験中なのでしょう。こんな時間帯に いろいろな制服の高校生が大勢乗っています。沿線には大学もあるので大学生も乗っています。
出雲坂根今昔
71661で湯口大先輩が見事に察知されたように、ここのところ木次線で盛り上がっています。湯口氏、東ウラ氏、どですかでん氏から貴重な俯瞰写真や新旧の案内図が次々と紹介され デジ青らしい盛り上がりを楽しませて頂いております。米手作市氏からは貸切列車で煽られておりますが、それは宿題にさせて頂くとして、もう少し火に油を注いでみたいと思います。手元にあります 昭和53年3月発行の「日本鉄道請負業史 大正・昭和(前期)篇」の木次線の項を開いてみました。すると開通直後と思われる スイッチバックの俯瞰写真が載っていました。
出雲坂根駅で交換したと思われる上下2列車がとらえられています。
出雲坂根の周辺案内板
小生の投稿で、「クリック拡大してご覧あれ」と記しながら、その実拡大できないではないかとのご苦情が。自分でやってみたら確かにそうだ。要はデジ青掲載に際し、ファイルを小さくし過ぎたことによるドジである。よって再度案内板だけご覧に入れ直す。
真中辺、「近道」とあるのが件の「旧道」=「湯口徹氏受難之地」である。県道4kmを40分とあるが、若い時でも1km10分はかなりきつい。かつて街中でも歩いていて抜かれかけると、張り合ったものだが、今では「お急ぎですねえ、どうぞお先に」という心境。
「平家」跡というのは、平家落武者が住み着いたところだろうが、これも鉄道が敷かれる前は文字通りの山間僻地であった証左であろう。
出雲坂根の案内板
湯口先輩の「木次線2」を見ていると出雲坂根の案内板がありました。私も撮っていましたがちょっと?と思ったのです。なぜかというと私の撮った案内板の写真には「貝の化石」と書かれてあったのが湯口先輩の案内板には書かれていなかったのです。しかも全体的にちょっと違うようです。さてその案内板というのは
これは1973年12月に撮ったものです。
三井野原今昔
湯口先輩から木次線の貴重な写真が多数紹介されました。国鉄が唯一の交通手段だったことを如実に物語る写真の数々です。その中に三井野原駅に停車中のキハ024の写真があります。撮影日が昭和38年8月12日のようですが、それから47年後に偶然同じようなアングルで撮っていたカットがありました。
よく見ると ステホされたという右側の待合室の壁や屋根や縦樋は当時のままのように見えます。約半世紀前は出力60馬力のキハ02、そして現在は250馬力のキハ120です。レールバスがいかに非力だったのかを再認識しました。ひと駅走ってオーバーヒートはさもありなんです。ところで私の写真で 三井野原駅のホームに行列ができているのは団体客です。団体客と言ってもバスツアー客で 三井野原駅から出雲坂根駅間のひと駅だけ木次線に乗車し、スイッチバックを体験するという団体客です。開拓農家の方が乗り降りされ、冬だけはスキー客でにぎわった駅に 半世紀後には観光バスが横付けされてガヤガヤと多くの中高年が乗り込むことになろうとは地元の方は思いもよらなかったことでしょう。またこの待合室で寝泊まりした若者がいたことも。湯口先輩 貴重な写真をありがとうございました。続報を楽しみにしております。
東武鉄道1700型
米手作市様の[71488]16.5.12「東武鉄道モハ1700型」の写真である。1700型は1956年製造のカルダン車で、1971年12月までにこの車両は消えてしまい後継車の1720型と同じ車体の車両となった。さらに1991年までに1720型と共に現在「りょうもう」に使用されている200型に機器が流用されて生き続けている。
写真は東武日光発浅草行き特急「さち」で撮影は1968年7月26日松原団地-草加間で列車名「さち」とは中禅寺湖の別名「幸ノ湖」にちなんだ名前である。現在このあたりは高架複々線で風景は一変しており定点対比撮影はできない。製造はナニワ、日車、汽車の3社であるが写真の先頭車両1701はナニワ工機製。関先生のお描きになった1700型の姿からヘッドマークの位置が正面に変更されたり、窓下にライトがつけられたり多少顔に変化はあるが、ハンサムボーイのイメージはそのままで、機器流用で生まれ変わった200型や快速や下今市方面で活躍中の2ドアクロス6050系と比べても断然男前である。これはこの時代、このような顔、スタイルの車両を見て育った私の印象からかもしれないが。
中国新聞小ネタ2題
三江線と芸備線関連の記事2件です。
この会場となっている広島県立歴史民俗資料館ですが 三次駅からは遠い「みよし風土記の丘公園」内にある施設で、旧三次宿の街歩きルート内にある市立歴史民俗資料館ではありませんので ご注意を。 続きを読む
新緑の福塩北線
4月11日に70299で福塩線訪問記を載せましたが、あれから1ケ月が過ぎ、先般のぶんしゅう殿との旅で新緑の美しさを再認識させられたこともあって 少し遅いかと思いつつ 新緑や田植え風景を求めて福塩北線沿線を走ってみました。何しろ府中・三次間の午前の部は5:00から10:00までの上下6本が勝負です。一方 午後の部で撮影できるのは15:00から日没までの4本です。昼過ぎの通学用臨時列車が走れば2本増えます。昼間の 列車の走らない時間帯を芸備線や三江線に場所を変えてもやはり列車がありません。従って5時間の空き時間を持て余すので たいていは午前の部狙いで早朝の出撃となります。今回は前夜の準備がまずく 早く起きたものの出発でもたつき、下り1番列車1721D三次行きには間に合いそうになく、上り1番列車1720Dからの撮影となりました。今回は今までに撮っていない場所に行くことにして まずは備後三川に向かいました。
三江線 住民説明会始まる
ローカルな話題でこの掲示板を賑わして恐縮ですが、ひとつの鉄路の消長のあゆみを後世にとどめてゆくのも「青信号」の特技と思って投稿しています。本日の中国新聞朝刊です。
明日から沿線各地で住民説明会が開かれます。その結果がまた紙面に紹介されると思います。引き続き転載してゆきます。
兵庫・鷹取工・高砂工・姫路4
鷹取工場の構内に放置されている車輌の内には、阿波鉄道買収のコッペル機を技能者養成所が研修のため改修し近代化した「若鷹号」、7号「へっつい」機がある。後者は熱海線(現東海道本線)建設=丹奈隧道掘削ズリ出しのため、大日本軌道小田原支社線を「極めて高額で買収」し、即日熱海軌道組合に貸出して運行させたのだが、関東大震災で壊滅。国鉄建設局の所管になっていたこの「へっつい」機は各地で建設に従事したことにより、幸いにも残存した。鷹取工場では教習用標本機として右側ボイラー、シリンダ等を切開していた。戦後でも小規模博覧会などに貸し出され、当OB会諸氏も八瀬で撮影しておられるのが紹介された。