西村雅幸氏からお話があった夕張鉄道26号機と井原 実氏がコメントされた貨車の写真があったので追加する。
夕張鉄道26 / (44-9-3) 鹿ノ谷
元国鉄29674で大正8年川崎造船製。昭和37年6月に譲り受けている。
ワキ26 / (45-3-31) 京都
ワキ1形のワキ26である。ワキ1形は昭和5年から15年にかけて290両、戦後35年から37年にレキ1から100両改造された。
ワキ26は昭和5年日本車輌製の1次車である。
明けましておめでとうございます。
今年も、チョット古い話と自宅周辺の話題を書込みしたいと思いますので、よろしくお願い致します。
平成26年に因み、形式または車号が「26」の車両を集めてみた。
旧国鉄車両
(1)電気機関車
ED26
初代と2代目があり、初代から解説する。
ED261 / (43-8-30) 西長岡
富山港線の前身富南鉄道のロコ2で、大正14年WH社製で昭和15年日本鉄道自動車で改造されたと言われている。
昭和32年にED261に改番され、引き続き富山港線で使用されていた。
昭和35年1500Ⅴ昇圧により廃車になり、越後交通に譲渡され長岡線、来迎寺線で使用されていた。
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準特急さんが西山天王山付近の作品を発表されましたが、私も少し撮影していますのでお目にかけます。
1978.8.12 現西山天王山駅北端付近
西山天王山駅北東側にプールがありました。いつの間にかなくなりましたが、線路沿いにスライダーがあり、調子八角交差点近くに豆腐屋の2階建てビルがあったので許可をもらって屋上から撮影しました。
1980.4.29 長岡天神-大山崎
場所の見当がつきにくい写真ですが、円明寺の住宅の南側、小泉川に合流する小さな川の大山崎寄りです。撮影していたら女の子がやってきて勝手にポーズをとってくれました。演出ではありません。帰り際、畦に立て看板があって、それには「マムシに注意!」と書いてあり慌てて逃げて帰ったことを憶えています。
新年あけましておめでとうございます。本年もお願いします。
さて、「信貴電の不思議」でありますが、大和川橋梁の橋脚が継ぎ足されていることについて疑問に思っていました。いろいろ調べてもよくわかりませんでした。昨年のことですが、鉄橋のすぐ近くに「久度神社」があるので、そこの方に聞いたらなんらかの手がかりがあるのではないかと思って行ったのですが、どなたもおられませんでした。それでは正月であれば初詣の参拝する人が来るので、神社の方もおれれるのではということで1月2日に初詣を兼ねて久度神社にお参りをしました。さて、「久度神社」は「久度神」をお祀りをしています。しかし、平安遷都の時に平野神社へ「久度神」を遷座されました。ところが、名前は「久度神社」のままでした。再び、平野神社より「久度神」を勧進してお祀りしています。それは昭和になってからで遷座してから1175年という歳月が経っていました。鉄橋のことをお伺いした神主さんは氏子の方々が年に一度、平野神社へ正式参拝を行っていると言われていました。この「久度神」がカマドの神さんといわれている事について神主さんにお聞きしたら、カマドのことをクドということから、後の世になってから「久度神」がカマドの神さんと言われるようになったとおっしゃっていました。ところでカマドは「へっつい」とも言いますが、湯口先輩の名著『「へっつい」の系譜 -低重心超小型機関車の一族-』の冒頭に“おくどさん”という言葉が出てきます。大阪では“へっついさん”といっていましたので、私は“へっついさん”の方がなじみがあります。そういえば子供の頃、家には“へっついさん”がありました。
↑ さわやかな境内の久度神社
↑ 右側の森が久度神社の神域です。(この写真は昨年の5月に撮ったものです。)
息子が東京で結婚したので、翌年から12年途絶えた京阪電車初詣を2日にすることが出来た。連絡バスは、正月には昼間の京阪淀駅行きを増発するというので、混雑時間帯を狙って家を出た。西向日10:05発、西山天王山10:09着である。10:43発が定期便、臨時便は30分毎の10:13発にあるだろうと思っての行動であった。あると思ったのは大失敗で、停留所はガラーン、増発の挨拶ビラあっても運行時分の案内なし。最初からスカタンであった。止む無くサンドウイッチとヨーグルトで10時のおやつとする。10:30を廻ると三々五々、43分めがけて人が集まりだした。バスはJR長岡京から12人乗せて到着、19人乗車で定時発。途中、久貝で7人乗車、内1人は前方から手を上げて来た初老のおばちゃん。これで宮前橋を渡って淀駅定時到着。老人を加えると39人が対岸の初参りに参上したことになる。淀駅でこの39人を改札口で観察していると、34人が下り(大阪行)ホームへ、残る5人は上りホームで寒風にさらされながら普通電車を待つ。下りの初詣は石清水八幡宮だろう。上りは先ず4人が伏見稲荷、残る1人は老人で、毎年一族郎党を引き連れて下鴨神社に参拝の筈が、今年は南紀へ「みたらし団子は買っておいてね!」と言って行ってしまい、団子調達役となってしまった。役目を果たし転寝するうちに「パンダ可愛かったね」の声に目覚めた老人であった。
新年あけましておめでとうございます。今年も掲示板に中国地方のニュースを中心にお届け致しますので、よろしくお願い致します。またも新聞切り抜きで恐縮ですが、元旦の中国新聞に井原鉄道の記事が載りましたのでご紹介します。井原鉄道は平成11年1月11日に開業しました。あえて1並びの日を選んで開業したのが良かったのか、第三セクター鉄道のなかでは比較的好調に推移しているようです。なお大きい紙面を分割しましたので 見苦しくなっていますが悪しからず。
新年、あけましておめでとうございます。
今年も乗り鉄、撮り鉄に徹して鉄路の走る世界各地へと向かいたいと思っております。今年もよろしくお願い申し上げます。
2014年元旦、新春初めての撮り鉄は、遠方より鉄友来るで一緒に初詣でにぎあう阪堺電気軌道(略;阪堺電車)へと出かけました。
▲ 12:34 撮っていますと、突然「新型車両3両編成の1001形が只今参ります。」と、アナウンスが聞こえました。
この1001形は堺市の補助によって、平成25(2013)年2月に新造されたLRV(超低床車両)で、アルナ車両製です。同年8月25日から浜寺駅前~我孫子道で運行されていましたが、11月14日に発生した自動車との接触事故によって運行を停止していました。また天王寺方向への営業運転は、平成26(2014)年春からと発表されていましたが、新春のこの日に修理が終わっての我孫子~住吉を臨時運行となりました。1001形は3編成が投入される予定で、愛称は「堺トラム」です。
あけましておめでとうございます。
今年もクローバー会へのご協力をお願いいたします。
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西大山
最後は“日本最南端の駅”西大山。以前にも書いたが、正確には日本最南端は、沖縄ゆいレールだが、普通鉄道では、いまも最南端であることに変わりない。ただ碑の「日本最南端駅」はツッコミから逃れるため、今は「JR日本最南端駅」に変えられているらしい。
米手作市さんの「50年ぶりの木次線」を拝見して、私の場合は40年前ですが一畑電鉄を訪れて、その帰りに木次線を経由したことがありました。その時の写真がありますので当時のことを思い出しながらご披露したいと思います。時は1973年12月10日から11日とネガカバーに日付が書かれてあります。ところがなぜ12月10日、11日に行ったのかよくわかりません。おぼろげながらゼミ旅行で玉造温泉に行ったような気がしているのです。しかし、定かではありません。このときに一畑電鉄の一畑口から一畑薬師のふもとでかつて一畑駅があったところまでバスで行ったのです。ところで西村さんも「追憶の旅(その2)」で一畑電鉄川跡駅と一畑廃駅の写真が投稿されています。どうも西村さんと一緒に行ったようです。川跡駅での写真といい、一畑廃駅でのバスを写した写真もほとんど同じものでありました。
上の写真は大社方面から来た電車が着いて、出雲市か松江方面へ乗り換える乗客が駅構内の踏切を渡っているところです。西村さんの投稿されている内容を見ても同じような光景のようです。
12月16日【42376】「フロ50形54号」で米手作市様より「フキ」ついてのご質問があったので、私の知る範囲で回答する。
昭和3年1月16日天神橋~高槻町間開業時に電動車20両(101~120)、制御車10両(501~510)の30両が新製された。
昭和3年11月10日より昭和天皇後御大典が京都で執り行われることになり、これに間に合わせるべく同年11月1日高槻町~西院間を開業した。
この時電動車13両(121~133)、制御車11両(511~521)、付随車5両(522~516)と共に貴賓車として付随車500が新製された。
昭和4年6月貴賓用付随車は「フキ」と形式称号が制定され、「フキ500」となった。
京都寄りから随員室、客室扉、貴賓室、洗面所、化粧室、給仕室、給仕室扉と並び、貴賓室には6脚の豪華な1人掛けソファーが並んでいた。
稼働する機会は少なく、昭和24年2月一般車に改造され、貴賓室の大阪寄りに客室扉を増設、貴賓室の窓4個分に固定クロスを設置、その他はロングシートに改造されたが、天井、壁面はそのままであった。
昭和25年4月、神戸、宝塚線車両と車号重複を避けるため1500に改番された。
昭和34年7月車体更新が行われ、座席のロングシート化、天井、内装を他車並みに改装が行われ、貴賓車の面影は広い窓のみとなった。
一般車への改装以降、P-6の中間車として使用されたが、窓の高さがP-6と同じであったため、それほどの違和感はなかった。
京都寄り(元随員室、貴賓室側)/ (43-8-7) 吹田 続きを読む
投稿画面に雪が降っているのはトラブルでなく演出です。1月4日までの全画面で見ることができます。お楽しみください。
人吉
人吉は、肥薩線の川線・山線の中継地点であり、要衝の駅として賑わっており、駅裏には機関区もあった。鉄道写真の立場から言えば、矢岳越えの写真を撮るための前線基地でもあった。朝早くから、とくにいい時間帯に通過する夜行1121列車を大畑で撮ろうとすると、どうしても人吉に泊まり、一番列車で向かわなければならない。しかし、人吉にユースはないため、奮発して国民宿舎に泊まった(と言っても一回だけ)。朝早く、国民宿舎で作ってもらった握り飯を抱えながら、まだ暗いなかを駅に向かったものだ。
▲人吉駅の代表的なシーンは、矢岳越えに挑む列車。上は昭和42年の873レ、D51170〔人〕+オハフ61433+貨車+D51、下は昭和45年の4589レ、D51545〔人〕+スハフ3244+貨車+D511058〔人〕、どちらも客車1両に貨車多数の混合列車で、3年経過しても何ら変わっていなかった。下のスハフ32は、この頃珍しいダブルルーフ、トンネル区間に備えてベンチレータが撤去してある。
宮崎
昭和40年代の宮崎は、他の地域とは違う響きを持った、憧れの地だった。当時の新婚旅行のメッカだったかもしれないが、人それぞれの思い入れも宮崎にあるだろう。しかし撮影対象として見ると、機関区が駅ホームの真横あり、とにかく狭いところに機関区があったという印象が強い。正規の入り口から入って機関区で撮影していたところ、ホームから直接、機関区へ侵入したと勘違いしたホーム上の駅員から、思いっ切り怒られたことがある。なにしろホームの真横にあるから、駅員がすぐ見つけてしまう。国鉄時代の職員は、怒るとたいへん怖かった。
▲ホームで出発待ちのC57187〔宮〕の客車列車の横を、入換中のD5112〔延〕が通り過ぎる。宮崎以北では、旅客がC57、貨物がD51牽引だった(昭和44年)。
昨日、【42503】祝 西山天王山駅開業の投稿が掲示板から消えてしまっているのに気づきました。管理者のみが見えます管理者画面では確かに投稿されていると表示されていますが、皆様方から見るデジ青では、実際に表示されていません。管理者2人で、この現象を確認していますので間違いありません。
原因究明のあらゆる努力をしましたが、現在まだ分かっておりません。ただ、いじくっている間にはなぜか見えるように復元されました。これも不思議です。
この現象は、2週間前の総本家青信号特派員さんの投稿でも発生しています。この時はご本人のみが確認されて、消えた原稿を再投稿されています。すると同じ原稿が別々で投稿表示されていました。再投稿原稿を消しますと、以前投稿された原稿も消えました。
起こるわけがない現象ですので理解できずで終わりましたが、今回は2度目で複数で、それぞれ違ったアクセスサイトから確認できていますので、投稿が突然に消えてしまった事は間違いありません。
なぜにこうなってしまうのか原因究明ができておりません。2度あることは3度あると申しますので、もし消えていることを見つけられたご投稿者の方はすぐに管理者までご連絡ください。また、その際に原稿の再投稿はお控えください。原因究明に支障をきたします。
投稿された原稿はHPから一時的に見えなくなっているだけで管理者ページからは残っている事は、確認できています。
デジ青へのご投稿者の皆様には大変ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願い申し上げます。
12月21日開業の阪急京都線西山天王山駅の初日の様子はぶんしゅうさんより[42503]「祝西山天王山駅開業」として詳細なレポートがあった。阪急電車の車両前面には開業のヘッドマークをつけた車両が神宝線でも見られ、高速道路との乗り継ぎ等新しいコンセプトを謳った新駅への意気込みが感じられた。
西山天王山から大山崎に向かうあたりは川向うの京阪電車淀~八幡市と共に昔から撮影名所であった。また、京都方面から乗車するとこのあたりから車窓に国鉄(現JR)が併走して近づいてくるのでワクワクしたものだ。この気持ちは今も変わっていない。
西山という地名からは乙訓のたけのこの産地が思い出される。また、天王山は摂津・山城の国境で天正10年の本能寺の変で備中高松から秀吉が全速力で戻り、信長を討った光秀と戦った場所として有名である。一度この山に登ってみたいと思いながら未だその機会がない。
さて、あの頃というのは45年くらい前のことで民家も今ほど多くなく、全体に撮影し易いいい場所であった。車両も新京阪時代からのデイ100が健在で6連(最終的には7連まであったと聞く)で急行運用にも入っており、元特急車の710も全車ロングシート化されたが急行や休日の「歌劇」号などにも見られた。これらの古豪に対し、主力は2300、2800、大阪市堺筋線乗り入れ用3300等で新旧の車両がこのあたりを疾走する姿は見ていて楽しかった。
1968.10.6 長岡天神~現西山天王山 125を先頭とする大阪梅田行き急行
この時代、P-6の特徴であった正面の頑丈な幌枠は取り外されており、顔としては非常に物足りなさを感じていたが、豪快な走りっぷりは健在であった。 乗務員は詰め襟の学生服のようなスタイルで車掌アナウンスも「です調」ではなく「ございます調」であった。▼