なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈9〉

キワ90の成れの果て

前項、広島駅前で広電を撮ったあとは、呉線へ向かいました。昭和45年10月改正を目前に控えて、呉線では、電化工事の仕上げの真っ最中でした。C59、C62はまだ走っていたものの、架線は張り巡らされて、電機・電車も通しで運転をしていました。小屋浦で降りると、側線に見慣れない、黄色に塗られた車両が留置されています。「ヤ390」の標記に、どこかで見た切妻のスタイル、後半分には機械類があります。これこそが、写すことも見ることもできなかった、貨物DC、キワ90の成れの果てだったのです。

呉線小屋浦の側線で休む「ヤ390」、電化柱の金具の取付け用に使われている貨車で、「千倉駅常備」の標記もある。これこそ、追い求めていたキワ90の末路の姿だった(昭和45年8月)。

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北海道は遠かった、広かった(その3)

昭和50年2月に標津線を訪ねています。札幌発21:30の狩勝4号のハザで6:15に釧路に着き、多分駅弁でも買って、6:34発釧網線622Dで標茶に着いたのが7:36でした。標津線根室標津行き323Dの発車8:31までの小1時間をどうして過ごしたか、まったく覚えがありません。323Dで次の駅泉川で下車しています。丁度泉川で標茶行き324Dとの交換風景を撮ったのがこの写真です。それぞれキハ22の単行。民家もまばらな根釧原野の小駅にも国鉄職員が勤務されていた時代でした。

昭和50年2月13日 標津線泉川駅での交換風景

この泉川駅から次の光進乗降場へ向かって線路を歩きました。幸い好天に恵まれたのは良いのですが、サングラスなどしゃれたものは持ち合わせておらず、まぶしい雪中行軍でした。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 (29)

宗谷本線の貨物列車

もう終わったはずの“やっぱり”シリーズですが、あと一回だけ割り込みます。南稚内~抜海のカラー版を見ていただいた際に、廣瀬さん、紫の1863さんから、同区間で見られた貨物列車に対するコメントを頂戴し、貨車の形式や積載について、詳細な情報をいただきました。私も写真は撮っていたものの、あまり続けるのも、という思いでお蔵入りしていましたが、少しでも参考になればと思い、追加で載せることにしました。宗谷本線の貨物を牽いていたのは、南稚内にあった稚内機関区の9600で、“現地闘争”で行った昭和44年には12両の9600が配置されていました。また名寄機関区にも9600が15両配置され、名寄本線などと共通で運用されていました。南稚内~抜海で見られた昼間の貨物は2往復あり、11~12時に通過の396レ、391レと、13時30分ごろ通過の3371レ、15時30分ごろの1354レでした。

南稚内~抜海の原野を行く396レ、29607〔稚〕牽引。ランボード上に載った切り詰めデフ、2個ライトと、北海道ではスタンダードスタイルの9600、貨車のあとに続くのは、ンッ! Wルーフの客車が2両、昭和44年とは思えない光景が‥‥。

 

 

 

 

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈8〉

広島の路面電車

一ヵ月に渡って開催の写真展「思い出の七条大橋」も本日9月30日で幕となります。来場いただいた皆さまには、改めて御礼申し上げます。京都市電関係の写真展を、飽きもせず何度も続けて来ました。初回の写真展から数えると、もう10年以上昔になるでしょうか、来場の皆さんと話をしていると、“時代も変わった”と思わせることが多々あります。市電の写真を指して説明していると、「広島へ行ったら走っとるでぇ」とか「この前、広島へ行って子供と一緒に京都市電に乗って来ましたわ」と、特段に鉄道に詳しくないオッちゃん、オバちゃんから聞くことがよくあります。よく言われるように1900(900)型は、京都で約20年、広島では43年で、すっかり広島の電車になりました。いまや、“京都を走った京都市電”ではなく、“広島を走っている京都市電”ととらえる世代が多くなったことを痛切に感じます。

約50年前の広島駅前、まだ旧型車両が幅を利かせていた時代、左の700形701は、戦後の車両不足を補うため、被爆した旧京王の木造車500形の下回りを流用して、車体を新調した。中央扉もある大型の3扉車で、昭和55年までに廃車されている。現在の700形は二代目に当たる。右の900形907は、大阪市電2600形で、901~914の14両がいた。まだツーマン、非冷房の時代、そのあとワンマン、冷房化されて、一時は市内線の主力となったが、急に廃車が進み、いまは1両だけが残っているとか(以下、昭和45年)。

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うごく絵だよ~ん 近鉄生駒線

 ちょっと駅近くの郵便局に用事があって、帰りはいつものように線路沿いの道を歩いているとゆらゆら揺れる鷹のような鳥が・・・やっぱりこれはうごく絵でしょ!

 まもなくすると電車が来ました。

電車が行きすぎるとゆらゆら揺れる鷹とかすかに聞こえるカラスの鳴き声

平群谷を北へ向かって生駒へ電車は去って行きました。

おまけの動画

近くの学校から運動会の予行演習か何かの声が聞こえます。虫の鳴き声(本当は声ではない。虫には声帯がないのだ!)がします。ズーム最大で手持ち撮影。すずめ脅しの前に撮影しました。ここから郵便局へ行って、そしてすずめ脅しの動画撮影。もう2本撮っているのですが、これだけにしときます。

私の愛した“食堂車”

元祖青信号特派員さんのスレをマシ35の話題へと脱線させてしまい、申し訳なく責任を痛感しています。
それにしても「食堂車」には人気があることが分かり、ちょっとうれしく思っております。そこで「食堂車」の写真を集めてみようと思い立ちました。

元来、食いしん坊の私は、旅先でも食べたことがないものを食べるのを楽しみにしています。でも食堂車での食事は値段が高く(ホタテ定食がいくらか知りませんが)カレーライスかサンドイッチくらいしか食べたことがありません。それだけ食堂車にはあこがれと羨望がない交ぜになった感情を今でも持っております。
そんなこんなで食堂車には思い入れがあるので写真を撮り集めて来ました。だのにマシ35だけが満足いかない結果になり今に引きずっています。

皆様の持っておられる「食堂車」の写真も見せてください。まずは私の持っている写真から。

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北海道は遠かった、広かった(その2)

学生時代の最後、昭和50年2月に修了式を済ませ、3月末には京都を離れて広島県三原市に居を移すことが決まっていましたので、北海道が更に遠くなることもあって3度目の渡道をすることにしました。精力的に道内各地を回ろうというより、今にして思えば北海道に行くことが目的のような旅だったように思えます。とは言え、観光地に行くことはなく、かろうじて蒸機が活躍していた線区の落穂ひろいのような、効率の悪い旅でした。出発前の地図での調査やダイヤの調査もそこそこに、またどこをどのように回ったかのメモもほとんど残していない旅でもありました。

ではまず池北線日ノ出駅から。2月8日に京都を発ち、上野から「ゆうづる4号」の寝台、青函、「ニセコ2号」、「大雪5号」と乗り続け、10日朝5:42に北見に降り立ちました。池北線に「日ノ出」という駅があり、この駅で日の出を見ようと思ったからです。池北線の一番列車で6:08に日ノ出駅に着きました。北海道の夜明けは早く、6:08ではかなり陽はのぼっていましたが、7:28朝日に輝く北見行き一番列車541Dを撮ったのが次の写真です。

昭和50年2月10日 池北線日ノ出駅の541D北見行き

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈7〉

“抜海現地闘争”を総括する

北海道シリーズも、西村さんから私鉄の紹介をしていただき、さらに幅の広い「昭和の北海道」となりました。また「ていね」が脱線してマシ35に突っ込んだ結果、コメントの嵐で、“デジ青”ならでのコミュニケーションとなりました。私も先を急ぎます。「区名板で見る北海道の蒸機」(26)~(28)でも述べましたが、抜海での現地闘争の様子を偲ぶカラーも出て来ました。記述や写真内容に重複する箇所もありますが、再掲載します。宗谷本線南稚内~抜海は、駅間距離が12キロ近くあって、ちょうど中間付近に日本海沿いを走る区間がある。もちろん歩くよりほかに手段はなく、この最北の地が“抜海現地闘争”の結集地に選ばれた(以下、昭和44年9月)。

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昭和の電車 改訂版(215)ー東武鉄道トク1型500号ー

ついに出ました!私鉄の展望車!

お助けください、関東のみなさま。ここまでニッチだと関西の会員には手が出ないと思います。それでもレプリカを含めると平成まで有ったとかで、どなたか、撮っておられませんか?

北海道は遠かった、広かった

私は学生時代に3回、その後3回の計6回津軽海峡を渡りました。学生時代の3回はすべて春休みで、厳冬期から雪解け期でした。残りの3回は雪の季節ではなく鉄道メインでもない旅でしたが、やはり冬の北海道の印象は強烈で、もう一度流氷を見てみたいナアなどと半世紀前のことをなつかしく思い出しています。特派員殿のすばらしい連載投稿を見るにつけ、当時 ある日は仲間とともに、ある日は単独行動で思い思いに均周を手に道内を巡った中で、あまり皆さんが訪ねておられないであろう鉄道も紹介しておこうと思い立ちました。とは言え、いざネガやスライドを出してみるとカビや変色もあって見苦しい写真が多く、お恥ずかしいのですが、それは気にせず投稿させて頂くことにします。多分3回から4回の連載になるのではと予想しています。

京都から北海道へは東京まで新幹線で行くとしても、上野から随分長い時間をかけて青森へ、そして青函連絡船と1日がかりでした。それだけに乗船名簿を記入し、荒れる津軽海峡を渡ると「はるばる来たぜ函館へ」という実感がありました。連絡船の売店でも売っていたように記憶していますが、まず「道内時刻表」を買うのがお決まりでした。仮駅、乗降場も漏れなく書かれており、バス路線図やバス時刻表は大変重宝しました。3回目に渡道したときの、昭和50年2月号の道内時刻表が手元にありますので、その巻頭地図を載せておきます。

鉄道弘済会 昭和50年2月発行「道内時刻表」より

運炭を役目とする国鉄支線や私鉄の多くがすでに消滅していたとは言え、昭和50年にはまだ多くの路線が健在だったことがわかります。

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青春18きっぷの旅 2021年新涼 Part5 帰路は獺祭純米大吟醸の飲み鉄旅

第3日目 9月6日 後編

申し訳ありません、大した用事もなかったのですが前編を投稿してからサボっていました。最近流行りの病、『寒暖差疲労』が影響しているのか。いつまでも置いておくわけにもいきませんので再開をさせていただきます。

 

小野田線の本山支線に乗車できましたので山陽本線の小野田駅に戻って、福山を目指しました、
④ 雀田 7:18⇒7:34 小野田 7:38⇒8:05 新山口 8:28⇒9:10
徳山

▲ 7:37 小野田からは待っていた山陽本線の2ドア115系4両編成(3004M)に乗車して新山口へと向かいます。平日のラッシュ時に入っていますが、着席率は50%と空いています。

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈6〉

カラーでも撮っていたC62重連

また北海道の蒸機に戻りますが、その代表であるC62も、少しだけカラーで撮っていました。昭和43年に初渡道した時の装備は、モノクロ用にアサヒペンタックスSVに55mm、135mmレンズと、もうひとつ、カラー用として父親から借りたマミヤ光機の正体不明のEEカメラの二台態勢でした。時折、思い出したようにカラーで撮りましたが、黒い蒸機は高価なカラーで撮るだけの理由もなく、とくにC62重連は、思いのほか高速で通り過ぎることもあって、確実性を採ってモノクロの一発必中でした。しかし、条件が揃うと、ヘナヘナの三脚にカラー用のEEカメラを載せて撮ったものでした。お馴染みの上目名151キロポスト付近の上り「ていね」、この場所は前にも記したが、やや開けた斜面があって、珍しく熊笹の繁茂もなく、斜面を自由に上下できるのが特徴だった。C62重連の迫力を出すため、レール面より少し下で三脚付きのカラーを構え、ケーブルレリーズで接続、レール面から少し上でモノクロを構えて、高さを違えて二台態勢で撮影した。先頭C6244、真っ黒の流れた煙と、結果は最良ではなかったが、C62定番撮影地での一枚となった(昭和43年9月)。

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈5〉

最北のお召列車

初めて北海道を訪れた昭和43年9月は、明治2年に新政府が「北海道」と名付けてからちょうど百年に当たり、札幌で天皇・皇后の臨席のもと開道百周年の記念式典が行われました。そのあと道内各地でお召列車が運転され、私もC62重連と掛け持ちで撮影に励んだものです。事前には、蒸機を期待したものの、残念ながらDLによる運転で、数年後に各地で運転された蒸機お召に比べると、目立たないお召運転でしたが、いくつかの特徴がありました。

牽引機は、DD51 548〔旭〕、DE10 501・502〔名〕でしたが、それまでお召牽引の実績があるDLはDF50だけで、両形式とも、お召は今回が初めての牽引だったのです。さすがにDLだけでは不安があるのか、予備機のDL以外にも、“予備の予備”として、ピカピカに磨かれたC57を目撃しています。そして、もう一つの特徴は、最北の宗谷本線、天北線にも、お召が入線したこと、それまでの旭川までの最北の記録を塗り替えました。

宗谷本線音威子府~筬島、天塩川の対岸から、上川発豊富行きお召列車を撮る。DE10 501〔名〕+DE10 502〔名〕の牽引、製造番号から見てもSGなし500番代の1・2号車の重連となった。この時は、音威子府で下車、鉄鈍爺さん、ぶんしゅうさんの三人でヒッチハイクして現地に到着した。

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昭和の電車 改訂版(213)ー近鉄サ2600号ー

貴賓車というのは人気がないのか、数が少ないため見たことが無いからか、ほとんど反応がありません。

失礼しました!前回に藤本哲男さんから投稿を頂いておりましたが、私が確認漏れをしておりました。お詫びして、改めてリンクを張らせて頂きます。

私鉄の貴賓車その後 | DRFC-OB

 叡電鞍馬線 不通区間 437日ぶりに開通

2020年7月8日の早朝に、豪雨で土砂崩れが発生し、長らく不通が続いていた叡山電鉄鞍馬線の市原~鞍馬が復旧工事を完了し、去る9月18日(土)初発から運転を再開しました。今朝、珍しく早起きして、散歩も兼ねて途中駅まで見に行ってきました。

叡電では、2018年9月に台風による倒木で不通となり、この時は一ヵ月半ほどで開通したものの、2年後に再び豪雨によって二ノ瀬~貴船口の線路脇の山が斜面崩壊して、叡電の線路に覆い被さり不通となり、市原~貴船口・鞍馬を京都バスで振替輸送を続けていました。  「きらら」には運転再開のステッカーが。

 

 

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