代用急電

湘南代急クハ68078京都1954.9.27サイズ小

関センセの「代用食時代の急電」を見て、確かこの老人も撮って居る筈と、限りなくかすれ果てた記憶を絞り出して探すと、あった。1954年9月27日撮影京都とあるから、老人が高校3年の時である。この時代食料不足は解決しており、学校でも2玉うどんが15円だったか。国鉄初乗り10円、市電も8円だったか10円だったか、今なら300円か350円に相当し、けして安くはないことになる。

本当に食い物が乏しかったのは1946、47年だった。センセお書きの通り、米糠やフスマの方が多い「パンにやや近い代物」でもあればいい方。インフレの最中で、ズンドコ節で半世紀ぶりに思い出したが、「米は遅配で物価は高い/たまの日曜に買い出し行けば/駅に着いたらポリスが待ってて/お手々つないでブタ箱へ/トコズンドコズンドコ」というのもあった。京都では米の代わりにタケノコ(というより「やや軟い竹」に近かった=我々はパンダではない)やお茶まで配給されたが、「茶腹も一時」との洒落だったのか。老人が高校生になり背丈がやや伸びたのは、幼少のみぎり食い物がなく、致し方なくタケノコや土筆を食せざるを得なかったかららしい。

その後小学校で給食が始まったが、最初は米軍放出の果物ジュースや、脱脂粉乳だった。ジュースは今思えばホテル用クラスの高級品で、余り甘くない上、名前さえ知らないグレープフルーツがあって、ジュースといえば甘いものと思い込んでいる敗戦国の憐れな小学生からは、苦いという苦情すらあった。ララ物資での脱脂粉乳も実態は家畜のエサ用だった由で、これは当時でもうまくはなかった。旧日本陸軍の退蔵牛缶は味が濃く流石に美味かったが、余程古いとみえ、こんな食糧事情の悪い時ですらジンマシンが出る児童も少なくなかった。海草がたっぷり入ったパン(のごときもの)も、腹を空かしきっていた当時でもうまいもんじゃなかった。

甘味といえばサッカリンかズルチンと称す、人工甘味材しかなかった折、キューバ糖が配給になり、国中が沸いたことがある。これも砂糖とは言え実態は工業用の低質糖で真茶色、しかも貨物船にバルク―砂利並に船倉に直積されていたのである。そんなことは知らぬ敗戦国民は国中挙げて大喜びし、NHK(しかなかった)では「甘い砂糖はキュッバー キュッバー キュッバー」なる歌を放送した。カルメ焼きが大流行したが、我が家ではついにふくらましに成功しなかった。

 

国鉄クハ68078

クリームと茶色のツートンカラーで、前に“急”の丸いプレートを付けた電車ははっきりと覚えています。記事によると昭和25年とあり、私は4歳だったことになります。80系だったか52系だったかははっきりしませんが、二枚窓の流線型だったことを記憶していますので80系だったのでしょう。当時歩いて通行できた大宮陸橋から見下ろしたのです。
クハ68078_NEW クハ68078(文)_NEW

阪急2300と柴島浄水場の桜

桜にちなんで以前に柴島浄水場の桜を撮りに行った時の写真を探し出して見てみると、写っている阪急電車が2300であった。京都に通学でよく乗っていた電車であるが、あまりにも日常的であったので写真がなかった。この2コマが唯一の2300の写真で、正面が写っているのは1コマだけである。撮影した場所も今は高架工事が進んでいて、いずれは電車の窓から桜が見えなくなるであろう。(2012年4月9日撮影)

阪急2300と柴島浄水場の桜(中間車)-1阪急2300と柴島浄水場の桜-1

新京成電鉄8000系に寄せて

8509 26-9-6

滝不動~三咲間を走行する8510編成/(26-9-6)

「昭和の電車」は、長野電鉄OSカー、上信電鉄1000系、新京成電鉄8000系、北総鉄道7000系と中小私鉄の高性能車が続いている。

新京成電鉄8000系は、昭和53年から60年にかけて6両編成9本が新製された。スタイルの特徴は正面の2枚窓で沿線の人や利用者から「狸」或いは「くぬぎ山の狸」と呼ばれている。
関 三平氏は「ふくろう顔」と言っておられるが、なるほど「ふくろう」にも見える。ちなみに乗物に全く興味の無い我が息子は、子供の頃「パンダ電車」と呼んでいた。本人は新京成電鉄で通学しており、やはり「狸」と呼んでいる。
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桜咲く大和路 近鉄生駒線と田原本線

兵庫・ふるさと通信員さんの投稿に刺激されて、4月2日の午前に超晴天だったのでぶらぶらと歩いて近くの花見に出かけた時の写真を少しばかり。

桜と生駒線-w住宅地のバス道を下って行くと桜が一本あり、王寺に向かう生駒線の電車が俯瞰できる。遠くには三重との県境にそびえる高見山が見える。

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南海こうや号特別仕様別掲

和歌山・ふるさと通信員さんの3月29日[57536]「こうや号特別仕様」に関連して紀ノ川橋梁で横撮りした私の写真も発表させていただく。3月13日紀伊清水~橋本間を行く特急「こうや8号」難波行きで左の難波よりから30001・30100・30101・30002で16時14分の通過。この橋梁は①単線で、②足回りもよく見え、③橋脚もレンガ調で撮影向きである。こういう橋梁は最近少なくなったように思う。難を言えば橋の向こうに見える民家が多少目障りであるが、午前中を含め角度を変えたり、レンズを交換したりすればそれなりの結果が得られる。この橋梁手前には大きなカーブがあり、太陽光線にはいろいろと対応ができるが、意外に難しい部分もある。▼s-15.3.13橋本30001
この日はまあまあの天気。日没までにもう一仕事。こうや号撮影の後しばらくして橋の向こう側に出て、日没のシルエットを狙う。日没寸前には太陽が大きくなることは皆さん経験済みであるが、それを望遠レンズでさらに誇張する手もある。しかし、この時は50ミリレンズとした。問題は日没時の太陽の沈むスピードの速いこと速いこと。通過電車とのタイミングが難しい。今回は車体の向こうに太陽とした。これもいろいろとやってみるしかない。17時35分通過の高野山行き2300系ローカル電車▼s-15.3.13橋本2300

北総開発鉄道7000系

北総開発鉄道、どこにあるのかも知らないし知識もない。
でも最近の上信電鉄や新京成などの記事を見ていると、かつて準特急さんが京阪の500型を評して「オカチメンコ電車」と揶揄していたのを思い出しました。しかし、京阪500型はガイコツ顔ではありましたが、これら関東のブサイクどもと比べると遙かにいい顔をしていたんだな、と見直した次第です。
北総7000系_NEW 北総7000系(文)_NEW

上信電鉄1000系に寄せて(Ⅱ)

3月17日【57081】で、西村雅幸氏より1000系のその後の経過について報告いただいたが、同社が新製時に作成したパンフレットが手元にあり、それを基に概要を紹介する。

新形車両新造について
当社、上信電鉄は、輸送力増強と旧形式車両の近代化への脱皮の一環として、今度1000形電車を新造することになったが、この新造車は、現在通勤輸送列車増加及びスピードアップ計画に大きな力となるべく、将来充分な性能を発揮出来得る近代化された最新の機器を搭載しました。
そして、現在の旧形式車両の代替車両として、随時増備される予定です。

この車両を新造するにあたり、特に考慮したことは、鉄道車両の使命として、安全、正確、迅速の原則に基づき、これからの大量輸送機関として、より一層の性能の向上、サービスの向上、安全確保を目標とし、未来の鉄道車両構造と致すべく、在来の車両のイメージを大きく変えたスタイルとした、その概要はざん新な先頭形状をもった近代的なスタイル、乗心地の向上をはかった空気バネ付台車、制御性良好な電気指令式空気ブレーキ、操作性の良いワンハンドルマスコンなど最新のデザイン、技術をとり入れたユニークな車両にしました。
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思い出の阪急2300 -1-

2300についての思い出を少し綴ってみたい。と言っても、記憶も記録も断片的なものしか残っていないが。
私が少年だった頃の阪急京都線は、暗くて陰気な印象しか残っていない。まだ京都側の始発が大宮(当時は京都)だった時代で、遠くて駅まで行くのがたいへんな不便を強いられた。やっと着いた大宮駅は、暗くて狭くて暑苦しい地下駅で、乗った電車も地味な色で、しかも特急と言えどもロングシートに当たることも多く、とにかく華のない電車で、国鉄、京阪に比べて全く魅力がなかった。
そんな暗くて陰気な阪急電車を、すっかり変えてしまったのが、2300のデビューであり河原町への延長だった。2300デビューは、実際は昭和38年6月の河原町延長の2年半前だが、京都の少年にとっては、この二つは同じ時期の出現に映った。
IMG_0001sy[1]突如、四条通に現れた地下の河原町駅、大宮と同じ地下駅だが、蛍光灯が燦然と輝き、きれいで明るく広い、しかも歩いて行けるほどに近い。初日に勇躍初乗りしたのが2300だった。ロングシートは残念だが、窓は大きく、車内も明るい。“オートカー”と言って、自動的に速度を定格速度を保つと、新聞は報じていた。“電子頭脳”の惹句が何やら新時代の到来を感じさせた。2300の出現は、阪急のイメージをすっかり変えてしまったのだった。
昭和38年6月、河原町延長の初日、ホームに停車する2300をある方からいただいた写真で再掲載してみた。2301先頭のWヘッドークつき特急、2300デビューの頃の象徴的なシーンだろう。しかし、その座は長くは続かなかった。  50327004sy初めて撮った2300がコレ、約50年前の昭和41年、大山崎で国鉄線と併走しながら河原町へ向かう2300急行。デビュー当時、特急運用に就いた2300も、その後継のクロスシート車2800が昭和39年にデビューし、増備が続くと、早くも特急運用の座を譲り渡すことになる。その間、わずかに4年程度で、そのあとは、京都線のトップランナーになることはなかった。この日の撮影目的も、デビュー間もない2800と、デイ100だった。

新京成8000系

特派員氏の復帰第一回投稿は“新京阪”ですが、関三平先生は“新京成”です。どうも私は卒業以来東京に住んでいたのですが、元来の客車マニアのため私鉄、それも関東系は興味がなく、乗ることが少なかったのです。とりわけ東の方向へは縁がなく、新京成などは見たこともありませんでした。今回の記事で、千葉の鉄道連隊が起源だと知ったほどです。
藤本さんに怒られてしまいそうですね。

新京成8000系_NEW 新京成8000系(文)_NEW

上信電鉄1000系

大津市歴史博物館で開かれている、「江若鉄道の思い出」展で福田静二さんが講演をされました。
広い会場は予定より早く開場しましたが、入りきれないほどの満員で驚きました。廃止されてからすでに四十年以上が経ちましたが、これほど地元の人々の心に染みこんで愛されている鉄道を私は見たことがありませんでした。同時に西村雅幸さんが心血を注いで作った駅の精密なジオラマにも多くの人だかりが出来て、それぞれが思い出を語り合っていました。展示品の多くにはクローバー会会員の名前も多く出ていて、準特急氏の言葉を借りれば「同好会員で本当によかった!」には同感の至りでした。

さて、今回の上信電鉄ですが、遠路東京から大津まで来てくれた藤本さん、乙訓の長老様に解説して頂けると嬉しいのですが・・・
上信電鉄1000系_NEW 上信電鉄1000系(文)_NEW

ついに途絶えた東海道本線の客車列車

 「トワイライトエクスプレス」の運行が終わることについて豪華寝台特急が運転終了として巷では騒がしかったが、もう一つの意味がある。それは東海道本線を走る客車列車がなくなるのである。団体貸切特別列車のような客車列車は走るかもしれないが、どこかへ行くお客さんが乗っている客車列車はなくなる。東海道本線はすべて動力分散式列車となるのである。輸送手段としての効率から考えると動力分散式の方がよい。効率重視で考えると電車などの動力分散式に変わって行くのは当然のことだと思う。

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長野電鉄OSカーの写真のこと

 関三平さんの「昭和の電車」で長野電鉄のOSカーが出てきた。この電車ができた時に雑誌鉄道ファンで見たのだが、正面のデザインが地方私鉄の電車とは思えないような形で驚いたものである。しかも、FRPで出来ているので、これもすごいなあ~と思っていた。まだ、中学生や高校生では見たくても、長野まで行くことはできなかった。しかし、高校生の時に長野に行く機会があった。この時は長野電鉄に乗ることはなかったが、駅へ行くとひょっとしたらOSカーが来ているかもしれないと思ったのだろうか。駅で撮った写真が出てきた。撮った写真を調べているとカラースライドで1枚だけ長野電鉄の長野駅で撮ったOSカーである。少し修正して見ることができるようにしたのが次の写真である。

長野電鉄OSカー002w

ご覧のように地下駅でなく、地上駅である。ホームを歩いている女性や電鉄職員の服装を見ていると夏かもしれない。そういえば、夏休みに信州方面へ部活の合宿で行ったことがある。その時に撮ったようである。これは正面にかすかに2という数字が見えるので増備されたモハ2である。そして、この写真を見ているとホームが1面で2本しかなかったことがわかる。もう1つ不思議な取り付け方をしている電飾駅名看板である。よくある駅名看板は電車から見えるところにあるが、これは位置が高く、電車に乗っていると見えない。しかも電車に直角である。これは改札口からホームへ入ってくる乗客に見えるようにしたような気がする。このような駅名看板があるのだろうか。見たことがない。あらためて、よく見てみると面白いものである。 今回の「昭和の電車」はそんなきっかけをつくってくれたのであった。

国鉄阪和線モタ3000系に寄せて

205-14.HanwaLD.forIzumi.60.25.20.25105oto.67.5.28
クハ25105+クモハ20+クハ25+クモハ60 / (42-5-28) 長居

「昭和の電車」は「モハ54003~54005」に続いて関西の国電が登場した。

今回、関 三平氏が紹介されたモタ3000系は、一段上昇窓のため開口面積が狭く、夏暑かったこと、日除けがブラインドとカーテンを併用して構造が複雑であったこと等が災いし、早めに廃車されたため42年中に姿を消した。

新製からの廃車までの経過
戦時色が濃厚になった昭和16年にクタ3001、3002が日本車輌で、クタ7001、7002が帝国車輌で新製された。
クタ3001、3002は両運、7001、7002は片運であった。
クタ3001、3002は電動車として竣工すべきところ電装品の調達遅れにより制御車として竣工し、12月に電装され本来のモタ3001、3002となった。
7001,7002以外は両運車であったが、戦後片運化され、モハが上り向き、クハが下り向き運転台になった。

全鋼製のノーシル、ノーヘッダーの車体は、上部にRの付いた2枚1対の客室窓の斬新なスタイルで戦時色を感じさせないものであった。

小学校4年生の時、天王寺で初めて見たが、京阪の新車にソックリだと思った。京阪の新車とは1650形のことである。

発注したのは阪和電鉄であったが、完成は南海電鉄と合併後であった。(阪和電鉄は昭和15年12月1日南海電鉄と合併し、更に19年5月1日鉄道省に買収された) 

17年にクタ3003~3007が日本車輌で、クタ7003~7007が帝国車輌で新製された。
クタ7003~7007は電装される予定であったが、鉄道省買収後の19年6月クタ7003、7004の2両のみ電装され、モタ7003、7004になった。

18年にクタ7008~7013が日立製作所で新製された。

戦後、阪和線に輸送力増強のため国鉄標準型電車が転入すると、混結の必要性から制御器の省形化、連結器の密連化、運転室の拡幅工事が実施された。
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京成電鉄モハ3300形 営業運転終了

P1230664
臨時特急「成田山号」(3301-3302-3303-3304+3333-3334-3343-3344)/大佐倉

京成電鉄モハ3300形は、2月28日臨時特急「成田山号」で営業運転を終了した。
当日のダイヤは、回送列車で宗吾車区発車して、高砂9時58分、青砥10時頃通過して上野に10時13分に到着、上野10時23分臨時特急「成田山号」として発車して、成田に11時39分に到着予定の処、途中混雑のため実際には約10分遅れで到着した。
到着後運転士に花束贈呈等のセレモニーが行われた後、宗吾検車区に回送され、12時15分に入区した。 続きを読む

モハ54003~54005に寄せて

54004 49-4-29
クモハ54004+サハ78+クモハ54107+クハ68060 /仙石線陸前富山~陸前大塚 (49-4-29)

「昭和の電車」に久し振りに国電が登場した。
モハ54の内、ノーシル、ノーヘッダーの24003~54005を取り上げて解説されておられるが、モハ54のオリジナル車全体について解説する。(以下戦後の動きについては、昭和36年6月1日の称号改訂以降のクモハを使用する)

戦後クモハ60の座席をセミクロス化したクモハ54100番代の解説は今回割愛する。

クモハ54について
昭和12年モハ51の主電動機を128kwのMT30に変更した形式で、001、002の2両新製された。スタイル、室内等はモハ51と同じである。

15年003~005の3両が増備され、スタイルはノーシル・ノーヘッダー、張上げ屋根、ヘッドライト埋込となった。(関 三平さんのイラスト、解説)
003は、20年6月淀川電車区で戦災に遭い廃車された。この3両は全車奇数向き(上り向き)であった。

16年006~009の4両が増備されたがスタイルは元に戻された。
向きは、001、002と共に奇数車奇数向き、偶数車偶数向きの車号通りであった。

戦災で廃車となった003を除く8両は、本線緩行(京都~西明石間の各駅停車)に使用されていたが、41年以降飯田線、大糸線、仙石線に転属し、それぞれの地域で活躍後廃車になった。
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国鉄阪和線モタ3000系

タイトルの「国鉄阪和線モタ3000系」は正しいのか?という疑問はさておき、昭和40年5月に鳳電車区へEF52とED16、ED60を撮影に行きました。残念ながら電車に興味がなかったためほとんど電車の写真は撮っていませんでしたが、それでも数枚はありました。

でも形式が分かりませんので、クハ25111がモタ3000系の仲間なのか教えて下さい。その他の怪しい電車に関してもご存じの方、よろしくお願い致します。

阪和モタ3000_NEW 阪和モタ3000(文)_NEW
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