40年前の券番「0001」

 今回が初めての投稿です。どうぞよろしくお願いいたします。

 今から40年前の1981年(昭和56年)529日に、京都市交通局烏丸線の北大路-京都間が開業しました。

 現役だった当時は滅多とない鉄道のイベントでしたので、鉄道同好会として何かできないだろうかと知恵を絞り、券番「0001」の乗車券を8駅すべて集めることになりました。各駅それぞれに会員3、4名が開業日前日の午後から徹夜で並び、無事に全駅で購入することができました。25枚程集まったと記憶しておりますが、乗車券の実物をその年のEVE祭で展示しました。私はポケット式のアルバムに入れて保管していますが、自動券売機の発券にもかかわらず今でも印字は鮮明です。

 コロナ禍でなかなか遠出もできませんが旅のエピソードやコレクションなどを、折々投稿したいと思っております。

京阪、阪急規格型電車の写真

先日はコロナ禍にもかかわらず総本家青信号特派員さんが池袋の「路草」で開催された鉄道アートサロン写真展のために日帰りで上京された。関西の大物の方も絵画も含めて多数参加されていた。総本家さんとは新宿でお会いしたが、DRFC-OB会の運営に努力され、特にデジ青では自らオリジナルの投稿を続けておられ、頭が下がる思いだ。私も少しはお役に立つように考えているが、徐々に老朽化が進行しているので少しばかりの冷やかしコメントでお許し願いたい。

関先生お膝元の阪急(大阪急)、京阪の戦後の規格型電車三題であるが、私の撮影は学生時代の何れも晩年に近い姿だ。

 

京阪電鉄の1300形は幕板が広く鈍重なスタイルであるが、やはり懐かしいものを感じる。カラーが退色劣化して見苦しい写真であるが、お馴染み七条駅の宇治行き。撮影日は不明。▼

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昭和の電車 改訂版(179)ー阪急宝塚線550型新京阪700系京阪1300系ー

前回は2015年7月の掲載でしたが無反応でした。
今回は、どなたかこれらの車両が元気だった頃の写真を見せてください。

ジテに関しては、準特急さんとぶんしゅうさんが見聞録を投稿されています。

流線形車両-5-(最終)

2009年 秋の中国一人旅 Part7 ジテ発見!

 

 私の好きな電気機関車たち   ⑨

赤い電気機関車① ED70

またしばらく電気機関車、続けます。交流機を示す赤い色をした電機は、今では近くでも日常的に見ることができますが。昭和40年代には、その数は限られていて、線区も限定されていて、遠くへ出掛けなければ見られない機関車でした。京都・大阪からいちばん近くで見られたのが、北陸本線田村以遠で働いていたED70、ED74、EF70でした。米原から交直接続機に牽かれて田村に着くと、目に飛び込んできたのが真っ赤な機関車、“遠くへ来た”思いを実感する瞬間でした。昭和32年に開業した初の営業用の交流電化路線、北陸本線の田村~敦賀に投入されたのがED70だった。昭和30年からの仙山線の試験線区では、メーカーの違うED44、ED45が造られテストが続けられ、優秀な成績を収めたED45が選ばれた。これを母体にして初の量産型交流機ED70 1~19が製造され敦賀第二機関区に配置され、田村~敦賀で旅客・貨物を牽くようになった。写真は糸魚川発米原行き234レを牽くED70 1 田村付近(昭和41年8月)

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 また明日から鉄道写真展 当会から3名が参加

また直前のご案内となりましたが、明日5月20日(木)から、鉄道写真展が開かれます。と言っても会場は東京・池袋。行くことが可能な方は限定されると思いますが、写真展は70名余りのファンが参加する、有数の鉄道写真展です。当会からも、佐竹保雄さん、早川昭文さん、私の三名が参加しています。

もともと写真展は、昨年5月に開催の予定でしたが、最初のコロナ禍に見舞われて秋に延期、その秋も緊急事態宣言に見舞われて、再延期の末、ようやく開催されることになりました。“三度目の正直”だけに、関係者にとっては待望の写真展です。

私自身は延期また延期で、いったいどの写真を出したのか、分からないほど待たされましたが、お世話になった皆さんの挨拶も兼ねて、5月23日(日)午後に会場へ行く予定をしています。また早川さんは24日(月)15時まで受付予定です。来場を考えておられることがありましたら、これに合わせて来場いただければどうでしょうか。

 街並みとともに ~京都のバス~  〈5〉

ターンテーブル上の前中扉バス

市電伏見線が廃止されたのが昭和45(1970)年、その市電ルートをトレースする代替バス81系統が新設されたほか、そのほかの系統も中書島を経由・発着するようになります。市電乗り場は、京阪中書島駅の北側の一線分のみスペースしかなく、バスの折り返しには十分なスペースがありません。昭和48年11月、近くに横大路車庫が開設された際に、終端部分にターンテーブル(転回場)が設けられ、バスは一回転して向きを変えて乗り場に着くようになります。ほかにも京都周辺でも、狭くて方向転換が困難な終点にターンテーブルがありますが、社用地内が多く、ここ中書島は、乗り場のすぐ横から自由に観察ができました。

まだツーマンが多かった時代、当時のバスは10年程度で新車に置き換えられていた。狭隘区間があったりして、新車ワンマン化が困難な事情もあり、ついにツーマンの新車が昭和47年にデビューしている。それが「京2・799」のいすゞBU04で、798~800の3両があった。この時期の市バス新車は、すべて前後扉にあって、3両だけの貴重な前中扉、しかも好みのNSK“カマボコ”スタイル、しかも行先は「淀」一字のみ、長い行先名の多い京都には珍しい潔さだ(昭和49年)。

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 街並みとともに ~京都のバス~  〈4〉

醍醐を走った市バス

京都市バスと街並みを続けます。平成9(1997)年10月に、京津線の一部が廃止され、地下鉄東西線が開業し、山科・醍醐地区にも地下鉄が走るようになります。それまで市バスは、山科・醍醐地区でも稠密な路線網を張り巡らせて、醍醐車庫には多くの市バスが配置されていました。それが地下鉄の開通によって、市中心部~山科・醍醐のバス路線は廃止されるなど、路線の再編成が行われ、同時に市バスは撤退して運営は京阪バスに一元化されることになりました。それに先立ち、昭和56年には、醍醐車庫の系統は、すべて頭に「東」を冠した系統に変更されますが、今回はそれ以前の様子です。

市バスを本格的に撮り出したのは、Fさんと一緒に行った醍醐車庫の市バスが始まりだった。ワンマン化が始まったものの、狭隘区間があり、まだ多くの系統がツーマン車で運転されていた。市中心部は、ほぼワンマン化されていて、山科・醍醐のバス事情は明らかに一歩遅れていた印象だった。撮影場所は、おそらく醍醐車庫の近くだったと思うが、周囲はいかにも開発途上の荒涼とした風景だった。バスは「京2い・743」で、昭和41年製の日野RB10のワンマン・ツーマン兼用車(昭和49年)。

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昭和の電車 改訂版(177)ー京阪103+153+113編成ー

藤本さんが貴重な写真を見せてくれています。
京阪電鉄103+153+113に寄せて

前回の投稿時に寄せられた「大阪通信員」さん、「湯口」さん、「乙訓の長老」さんのコメントがおもしろすぎるので、リンクを張ります。
京阪電鉄103+153+113 これは傑作!

 

本日の回送 210513

77-タツと申します。

初投稿させていただきます。どうぞ宜しくお願い致します。

JR四国2700系の定期検査トップ(?)で2752が多度津工場に入場しました。自転車の時は工場線まで見に行くのですが、今朝はあいにくに雨のため、多度津駅AM7:03着のいしづち4号しおかぜ4号の入線並びを撮り帰宅しました。

2752は通常逆向き(下り向き)2号車で、また方向幕のついた顔は見ることができないので、私も初めての撮影でした。

小ネタになりますが、時々投稿できればと思っています。今後ともどうぞよろしくお願い致します。

 

 街並みとともに ~京都のバス~  〈3〉

“天神さん”前の市バス

かつてのN電こと市電北野線の終点だった「北野」、そのN電が廃止されて、代替バスの50号系統が北野まで走り始めたのが昭和36(1961)年8月1日ですから、今年でちょうど60年になります。当初、50号系統のルートは、N電と全く同じでした。堀川通から中立売通に入って、千本通も渡って西進し、北野車庫のあった下ノ森で右に折れて、終点の北野に到達していました。

終点の「北野」に到着して折り返す50号系統。バスは、一の鳥居前にある広場でUターンし、時間調整のあと京都駅前方面行きの北野バス停に向かって行った。バスは「京2い・259」で、昭和40年製いすゞBR20、ボディは西日本車体(NSK)で、カマボコ型のさらに一世代前のスタイルで、バスを写し始めた頃にたくさん走っていた懐かしいスタイルだった。なお撮影直後の昭和51年4月から、千本今出川経由のループ状の運転となり、鳥居の前で折り返す光景は見られなくなった(以下、昭和51年)。 

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 街並みとともに ~京都のバス~  〈2〉

四条通のバス

では昭和の京都を走ったバスを、街並みとともに見て行きます。繁華街である四条通も、昭和47年の市電四条線の廃止後、代替バスも含めて、公共交通はバスが中心になります。単区間のワンマンもありましたが、郊外から入る系統には多区間のワンマンカーが走り、まだまだツーマン車が多く走っていました。

四条河原町を行くツーマン、16号系統みぶ行き、バスは「京2い・239」で、昭和40年製いすゞBR20のツーマン車、16号は始終発、径路をたびだひ変更していたが、この時期は藤森神社~みぶだった。南部に狭隘区間があり、長らくツーマンのまま残っていた。背後は「京阪特急」の大型ネオンも懐かしい四条河原町東北角で、いまは阪急系のコトクロスになっている(昭和52年)。

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201系もどきE493系試運転

本日、常磐線でE493系の試運転があるという情報をいただき、車で30分ほどの常磐線牛久~竜ケ崎市に行ってきました。JR東日本の機関車を置き換えるため登場した事業用車のE493系が死重のEF8198をけん引して、水戸まで往復したようです。機関車を置き換えるため登場した車両が機関車をけん引する姿は滑稽でもありました。それにしても顔は201系そっくりです。

 街並みとともに ~京都のバス~  〈1〉

京都駅前のバス

京都市電の写真展から早くも一ヵ月が経過しました。いまも快い達成感の余韻を味わっています。なかでも写真展イベントの目玉として、須田寬さんを写真展会場にお招きして「京都市電の思い出をお聞きする会」は、この状況下から思うと、絶好のタイミングでできたものと思っています。ささやかな写真展に須田さんをお招きすると言う、自分の無茶ぶりに恥じるばかりですが、それに応えていただいた須田さんには感謝の気持ちで一杯です。須田さんの過去の思い出だけでなく、近未来の京都に向けた提言など、利用者の立場に立った、広い見識に改めて思いを新たにしました。また須田さんは、市電だけでなく、市バスにも深い知識をお持ちで、系統、径路についての変遷については、たいへんよくご存じです。

私も先に本欄で「市電と市バス」をテーマに記してきましたが、須田さんの話に勇気づけられて、今回は、市バスだけの単独テーマで書くことにしました。ただ、バス車両だけでは趣旨に反します。考えたら、バスは路側を走りますから、中央を走る市電より、より街並みに近いところを走るわけです。そこで、今シリーズは、今では見られない、当時の懐かしい街並みをバックに走るバスを並べてみました。

始まりは、やはり京都駅前から。三代目駅舎をバックにした市バス、と言っても市バスの観光バス車両で、当時は京阪バスと市バスが定期観光コースを共同運行していたが、合い間には、ドライブウェイ系統の路線バスとしても使われていた。これは104号系統の嵐山高雄パークウェイ経由の高雄行き。昭和40年に開設、春秋シーズンのみで、平日2本、日祝6本程度の運転で昭和57年に廃止されている。車両は「京2い・871」で、昭和45年製ふそうNR470、車体はその形状からNSKボディーと分かる(以下、昭和52年)。

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江若鉄道旧近江今津駅ついに解体

江若鉄道旧近江今津駅の解体が始まりました。何年か前から解体の話が出ており、保存運動もあって現状維持が続いていましたが、先月解体が決まり、昨日より解体作業が始まりました。クローバー会の皆様からも多くの方から保存を願う署名活動への協力をいただきましたが、残念な結果に終わりました。

 私の好きな電気機関車たち   ⑧

東海道・山陽本線のデッキ付きEF電機③  EF59

山陽本線の“セノハチ”こと瀬野~八本松は、22.5‰勾配が10km余り続く難所で、上り列車は補機を連結して越えていました。蒸機時代はD52がその役目で、電化した昭和38年からは、EF53、EF56を改造した専用の補助機関車としてEF59が登場し、昭和46年までに24両が登場しました。その改造は、歯車比の変更(2.63→3.67)、総括制御化、さらに走行中に解放作業を行なうため自動解放装置も取り付けられました。セノハチの勾配区間専門の補機EF59が配置された瀬野機関区。EF59は、EF53(左)、EF56(右)の2形式から補機用に改造された。外観の印象はずいぶん違うが、電動機は同じで性能としては共通である。背後の山は、今ではニュータウンとして開発されて、スカイレールが山肌を登って行く(以下、昭和50年)。

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